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世相徒然

2009年8月16日 (日)

烏賀陽さんが裁判で勝利!


なんだかお盆になって、ようやく夏らしい陽気に見舞われている。
こちらは相変わらずゆっくりする暇もなく、スクーターを走らせても汗が出てくるような中を走り回っている。

それでも昨日は、久しぶりに疲れが取れた。
このところ、夜もゆっくり寝られず、だからといって日中に昼寝をする余裕もなく、ずっと疲れが取れない日が続いて、いつも夜寝る前になるとかなり調子が悪かったのだが、昨日は昼寝も出来て夜もしっかりと寝られたため、随分と楽になった。
ちょうどかなり長かった髪もサッパリと短く切ったので、気分も爽快。陽気は厳しいくらいだが、今日は心身とも元気いっぱい。

それにしても、つくづくと無理が利かない年齢になったと実感する次第。

*  *  *  *  *  *  *

さて、このブログを休んでいる間に、ちょっと報告をしておくべきことがあったので、遅ればせながらご報告。

これまで何度かお伝えしてきた烏賀陽さんの裁判(オリコンが烏賀陽さんに言いがかりをつけて不当に高額訴訟を起こしていたもの)が実質的に勝利する形で和解した。

詳しく説明する余裕がないので、ぜひ「うがやジャーナル」を読んでください。

この裁判の勝利の意味は、ジャーナリストや表現の自由にとっては大きなもので……というか、そもそもこんな裁判を起こす事が大問題で、勝利する事は当然なわけだが……、少なくとも国民が持つ権利が後退する事がなかった意義というのは、日本の民主主義にとってとても重要なことだった。

ということで、また書ける機会があれば書きたいと思っているが、同じようにジャーナリストたちの正当な活動に対して、裁判を利用して圧力をかけるという悪質な手法が増えている。
今回の勝利は一つの分岐点ではあるが、こういう風潮がなくならない限り、安心は出来ない。

皆さんも、ぜひ注目していてください。



2009年8月 9日 (日)

少し休んでます

仕事が忙しいというのもあるのですが、プライベートも忙しく、少しブログの更新を休んでいます。

来月くらいには再開する予定ですが、もう少しお休みします。

もうしばらく、ごあいさつ程度の更新になると思いますが、僕自身は元気でやっておりますです。

2009年7月25日 (土)

選択するということ


よく、「カレー味のうんこ、うんこ味のカレー、食べるならどっち?」なんていう質問に対してを“究極の選択”などという。

まぁ、この質問に関していえば究極でもなんでもなく、「うんこ味のカレーを食べる」という人が多いだろう。
僕は以前、ある人間関係においてやや強制的にドリアンを定期的に食べなくてはならなかったんだけど、いつも(これって、絶対にうんこ味)と思いながら食べていた。本当にうんこ味かどうかは別にして、あの味を思えば、うんこ味を喉に通す事はそれと大きく変わるとは思えない。そもそも、まずいカレーを食べても衛生的な不安はないが、どんなにおいしくてもうんこを食べるのは衛生的に不安が大きい。

おっと、こんなくだらない事を力説するのも馬鹿馬鹿しい。

言いたいのは、こんなくだらない質問なら、自分の価値観やアイデンティティによっていくらでも選択は可能だという事だ。
なぜならば、こういう質問の多くは、結局は自分だけの責任で選択すれば済む問題だからだ。

*  *  *  *  *  *  *

では、こんな質問はどうだろう。
「他人の子どもを殺さないと、自分の子どもが殺されてしまう」という局面で、他人の子どもを殺すことができるだろうか?
これは、自分の命の選択ではなく、自分以外の命の選択だ。

僕はこれについても、子どもが出来たあたりから結論を出していて、結論を先に言えば、「たとえ自分の子どもが殺されても、他人の子どもは殺さない」という事にしている。
自分の中で、命の重さという事においては、他人だろうと自分だろうとまったく差がないからだ。つまり、どちらも自分の命ではない以上、僕には結論は出せないわけで、自分の子どもが殺されることで他人の子どもが助かるなら、それで仕方ないということだ。
もちろん、この質問が「他人を殺さなければ、自分が殺されてしまう」という局面だったとしても、同じように他人を殺す事はない。そして、僕が戦争に対してはっきりと絶対反対という態度を取っているのは、そういう覚悟を持っているという事だ。

そのことは自分の子どもたちにも、はっきりと明言している。

*  *  *  *  *  *  *

例えば、自分が病気になったとする。
Aという治療を施せば、自分のこれまでの人生と同じように歩むことはできないが、長生きする可能性は高い。
Bという治療を施せば、自分のこれまでの人生と同じように歩むことはできるが、長生きする可能性は低くなる。
こうした時にどんな選択をするか、癌のように人生観を問われる病気を告知するようになった現代、それぞれの方たちが葛藤し、選択している事だろうと思う。

忌野清志郎は、ボーカリストとして喉にメスを入れる事を拒んだ。癌転移になってからは、放射線治療も拒んだという。
それはそれで、忌野清志郎であり栗原清志としての人生の選択だったわけで、僕には何も言う権利がない。

僕の周りには、癌や治療困難な病気と闘っている人が何人かいる。

みんな、自分の哲学によって、それぞれの局面で自分なりに選択をしているんだろう。
自分のアイデンティティや人生で培ってきた哲学で、ある程度結論を持ちながら選択されているようだ。

僕はそうした選択をしている人たちに対して、いつも何も言えず、ただただ背中を見ているしかない。
せめて、馬鹿みたいに思われてもいいから明るく降るまい、どんな困難な選択を迫られている人にも微笑みかけていきたいとだけ思っている。

*  *  *  *  *  *  *

子どもを持つ親の中には、もう少し複雑な選択を迫られる局面がある。

子どもの命に関わる選択は、どういう結果になるとしても、その選択肢を選んだ親の責任になる。本当は親に責任なんてないんだけども、もし悪い結果になってしまったとき、「あの時、別の選択をしていれば……」という後悔の念を拭うことはできないだろう。
自分の命であるならば、「自分が選んだ事だ」と開き直ることもできるだろうが、自分の子どもの命だから、そう簡単には開き直れない。

子どもが出来る前、大学生くらいの頃から、僕はこういう選択をいつかしないといけないと考えてきた。
そういう選択を迫られたとき、自信を持って選択できない人は、子どもを作るべきではないと考えていたので、自分に子どもが出来た時も、本気で中絶することを考えた。なぜなら、僕にはそんな選択をする心構えがまだなかったからだ(だったら完全な避妊しろって話ですよね。そうなんですよ。でもね、そのへんが僕の若気の至りでして、だからこそ中絶せずに子どもを育ててきたわけです)。

結局、そういう局面になったときの選択肢を選べないままに僕は生きてきた。
実際に親が子どもを育てる時に迫られる選択は、「どちらも危険と安全が同じくらいのパーセンテージ」という時は少なく(ほとんど存在すらなく)て、どちらかが安全から危険に大きく切り替わったときに、消去法で選択すればいいという局面が、圧倒的に多い。
だから、僕は選択肢を選べないまま、選ばないまま生きてきた。

そんな僕が40歳になってから、「不惑」という言葉に少し拘っているのは、僕が不惑とはほど遠い、まだまだ未熟な親であると感じているからだ。

え? そんな事をいちいち考えて親をやってる奴は少ないって?
まぁ、そりゃそうだ。

*  *  *  *  *  *  *

去年、僕と同じ年の友達が、高齢出産の初産で元気な赤ん坊を産んだ。
そして、今年の春、別の少し若い友達に子どもが生まれ、この秋には、後輩の子どもが生まれる。
これからも、もっともっと僕の周りには新しい命が芽生え、それと同時に、親になる奴が増える。

僕も大学生の頃と違って、「こんなことを考えておかなければ、親になるべきではない」なんて青臭い事は言わなくなった。
でもまぁ、親はいろいろ選択を迫られることがあるので、どんな困難な選択を迫られるとしても、冷静に判断できるだけの覚悟は、いつでも必要なんだと思う。

どんな選択をするかは、それぞれが決めるしかない。「正解」はたくさんあるはずだし、きっと「不正解」なんてものはないんだろうと思う。

自分の事だけを考えていれば良かった人間が、自分以外の命の重さを感じながら生きることを選択したとき、親になるってことなんだと思う。

2009年7月19日 (日)

何が正しくて何が間違っているのか


先日、田原総一郎がテレビ朝日『朝まで生テレビ』という番組の中で、拉致被害者に関して「生きていない」可能性を言及した発言に対して、拉致被害者の両親が、田原総一郎を相手に1000万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こした。

最初に言っておくが、僕はずっと以前、まだ北朝鮮に対する情報が少なかった頃(まだ韓国の情報すら少なかった頃)から、北朝鮮に対して強い疑念を抱いていたし、拉致をされた人がまだ北朝鮮にいるならば、なんとかして帰国してほしいと願っている。とくに横田めぐみさんのご両親は、以前、講演会も聞きに行ったことがあり、拉致家族会の先頭に立ち続けてきたご苦労に対して、とても敬意を払っているつもりだ。

一方、田原総一郎に対してはというと……、これまで発表したいくつかのルポの中になかなか面白い調査報道だと思える本もあると思うし、ジャーナリストとして一定の評価はするものの、例えば森喜朗など、僕が総理大臣としてまったく無能極まりないと思っている政治家に近づき過ぎて、政治ジャーナリストとしてはバランス感覚が麻痺したまま、エキセントリックな発言が多過ぎるために、全体としてはあまり好きな人物ではない。

それから、今回の田原発言と訴訟についての詳しい経緯や事実関係については、ここでは説明しないので、詳しく知りたい人は自分で探してほしい。

*  *  *  *  *  *  *

さて、本題だが、今回の訴訟には賛同できない。
(まぁ、僕が賛同しような反対しようが、誰一人として痛くも痒くもないだろうが……)

田原総一郎が「外務省も(横田めぐみさんと有本恵子さんが)生きてないのは分かってる」と断定した事は、舌禍と言われても仕方ないだろう。それについては、本人も同番組をはじめ、別の番組、Podcast、紙媒体などで度々謝罪をしている。本人が認めているし、行過ぎる発言だったのは事実と言っていいんだろう。

だが、まず最初に、政治討論番組で、拉致被害者が亡くなった事を前提に議論をすることは、何の不思議もない。そして、ジャーナリストが、それぞれの持っている情報と信念に基づいて、ある仮説や十分に可能性がある出来事を発表し、そのことを議論する事は、とても健全なことだ。
そこでは、被害者感情なんて二の次、三の次にされることも当たり前。「当たり前」と書くと誤解を受けるかも知れないが、冷静な判断と議論が必要な時に、誰かの感情を慮って大事な議論が出来ないのは本末転倒だ。感情的な部分をまったく無視するというのではなく、冷静な仮説や事実を陳列した上で、人間の抱く感情を踏まえるべきだということだ。

田原総一郎が、拉致被害者の二人が死亡している可能性について、まるで既成事実であるかのように発言し、本人が散々謝罪したあとも、それでも許せないという家族が、金銭を要求する事については、ある程度は仕方のないことだろう。

ただ、放送倫理・番組向上機構(BPO)に申し立て、さらに1000万円という高額訴訟を起こすほどの問題かというと、僕はまったく賛同できない。
なぜなら田原総一郎は、「拉致被害者が死亡している」という見出しの原稿を書いて金を儲けたわけでもなければ、そういう番組を作って放送したわけではないからだ。要するに、これは単なる舌禍騒動であり、事件でもなんでもない。

*  *  *  *  *  *  *

僕が、拉致被害者の家族のみなさんに対して気持ちでは応援していると言っても、実際にろくな支援もしていないし、そういう意味では「救う会」にしても「拉致議連」にしても、家族のみなさんたちにとってはとても有り難い存在だろう。彼らの足を引っ張るつもりは毛頭ない。
ただ、どうも「救う会」などが家族会や日本全体の世論をたびたびミスリードしていることが気になって仕方がない。

気になることはいくつかあるが、その一つが、横田めぐみさんの写真が捏造されているとされた騒動だ。
現在も、「救う会」のホームページには、「横田めぐみさんのものとして公表された写真」というページがあり、いまでも疑惑として公表している。

僕は、この問題が表面化してすぐの頃から、「本当に捏造したと言いきれるのだろうか?」と疑問を持った。
なぜなら、テレビでさかんに流されていた「捏造疑惑」は、どれもいい加減な検証しかしていなかったからだ。
そして、すぐに「救う会」のホームページで「捏造疑惑」の中身を確認したのだが、やはり捏造疑惑はいい加減な検証だったと確信した(僕が検証したのは、現在のホームページで[A]とされている写真のみ)。

僕自身も画像修正について知識があるし、何人か画像をいじるプロたちとも話したが、僕が出した結論は「ホームページに出ている情報からは、捏造の可能性について否定も肯定も出来ない。つまり捏造とは言いきれない」だった。
もちろん今でも、捏造の疑惑について「それが捏造と断定できない理由」を一つひとつあげることもできる。

そこで、「救う会」に対して電子メールで「たしかに捏造の可能性は否定しないが、捏造だと断定できる事実は認められない」という旨の連絡をした。もちろん、一つひとつについて反証し、具体的な理屈も説明したし、僕の実績についてもきちんと理解してもらえるプロフィールもつけた。さらに、それでも確証があると言うなら、具体的に質問させてほしいし、もし可能なら捏造を指摘したカメラマンと皆さんの前で会って議論してもいい、とも書いた。
そして「北朝鮮という如何わしい国家に対して強烈な憎悪を抱くのは理解するし同調するが、断定できるほどの証拠もないのに断定して批判するのは、結果として北朝鮮側を同じ手法を使っていることになる。そうした無理な論法は、いずれ日本国民にも伝わり、世論の支持も離れてしまうことになるだろう。何よりも、被害者や家族のみなさんたちを、いい加減な情報でミスリードするのは、明らかに行き過ぎと指摘せざるを得ない(当時、家族のみなさんがテレビ番組に度々出演させられて、救う会の発信した「捏造疑惑」の広報をさせられていた)。“ニセ遺骨騒動”も収まらない中で、こうした捏造疑惑を抱きたくなる気持ちもよく分かるが、冷静な検証をしてほしい」という旨のメッセージを送った。
しかし、このメッセージに返事はなかった。

「救う会」では、未だにホームページ上では捏造疑惑を発表しており、さらに「このホームページを見た専門家から写真[A]についてのご指摘の一部(H16.11.18)」という追加記事では、「めぐみさんの足まわりに白いふちどりがあるのは切り張りの証拠(WEBデザイナー)」などというまたまたいい加減な論拠をあげている。
あくまでも「このホームページを見た」ことが前提とするなら、印画紙に焼かれた写真をスキャニングするにしても、あるいはすでにあるデータ化されたものを使うにしても、webにアップする段階で、何らかの「加工」が施されているはずであり、基本的にはweb上で公開されている写真がどの段階でエッジを立てたのか分からないのに、白フチが入っていることが証拠となる事などあり得ない。公開されている程度の解像度しかないデータを見て検証したところで、「白フチの正体」など突き詰められないにもかかわらず、そんな断言をする人間はまともなプロではないだろう。
残念ながら、他の追加指摘についても、捏造の確証を得られるほどの証拠はあがっていないと断言できる(繰り返すが、もちろん捏造の可能性を否定はしない)。

こうしたやや“飛ばし”気味の発言は、拉致議連の議員などからも度々聞こえてくる。
僕が「救う会」や「拉致議連」から出てくる発言に、今ひとつ信頼できないのは、こうした適当な発言が多いからだ(僕の知人も救う会の活動していたりするので、同調できる部分もあることはあるが……)。

*  *  *  *  *  *  *

捏造と断定できる証拠のない状態での決めつけた発言は、何も「救う会」だけではない。

日本政府そのものが、横田めぐみさんの“ニセ遺骨騒動”で、鑑定人が自らが「断定できない」と発言しているDNA鑑定を使って「ニセ遺骨だ!」と断定している。
救う会も、北朝鮮による写真の捏造が事実であると断定している。
田原総一郎は、本当に横田めぐみさんや有本恵子さんが亡くなっているか確証を示さずに断定している。

しかし、どれも科学的根拠は希薄であり、まだ確証にいたるほどの証拠は示されていない。

僕は、田原総一郎が断定的に論じた事で被害者家族を傷つけた事は、確かに過ちだろうと思う。
しかし、いい加減な証拠を持ち出して事実であるかのような発言を繰り返す「救う会」のやり方も、被害者やご家族対して誠実なやり方とは思えない。
日本政府が、“ニセ遺骨騒動”について軌道修正をしていないことも、被害者や家族だけでなく、日本全体を欺く大きな過ちだと思っている。

*  *  *  *  *  *  *

今回、拉致被害者のご両親が、田原総一郎に謝罪を要求する気持ちに対しては、僕のような門外漢は何も言う資格がない。
ただ、今回の田原総一郎の舌禍発言の部分がすでに謝罪され修正されている以上、訴訟するだけの価値があるか疑問を抱かざるを得ない。

そもそも、政府内だろうが、マスコミだろうが、一般人の会話だろうが、被害者たちの生存説だけを議論の前提とする必要もないし、もしろ、死亡している可能性に付いても言及して議論をして行く事は、極めて健全な姿だ。

こうした意見は、何も僕のような門外漢だけが語っているわけではない。蓮池透「家族会」元事務局長のように、被害者の側にいる人たちからも、あまりにも一方向しか向いていない北朝鮮問題の議論の流れに対して、疑問を投げかている人もいる。

さらに僕は、田原総一郎を訴えた今回の訴訟問題は、司法制度の不健全な利用方法であり、拉致問題に何らかのタブーを作るため利用されるのではないかと危惧している。ここでも何度か紹介している「武富士・週刊金曜日/三宅訴訟」「オリコン・烏賀陽訴訟」「読売・押し紙問題黒薮訴訟」など、高額訴訟によってまともな報道に対して、言論封殺する動きと同じ流れだ。

間違っているのは、北朝鮮だけではない。
拉致問題がどういう方向に向かって行くべきなのか、「救う会」や「拉致議連」側からの発信だけに左右されず、冷静な議論を進めて行くべき時期は、もうとっくに来ているはずだ。


2009年7月 8日 (水)

ハッピー万歳野郎から、大馬鹿者たちへ


昨日は、夕方に昨日の記事をザックリと仕上げて、予約機能という奴で一旦アップしておいて、夜、子どもたちの家に行くことになっていたので、予約時間までに子どもたちの家で読み直して修正するつもりでいた。

夜になって入谷の交差点を通り、大勢の人で賑わっている朝顔市を横目に、子どもたちの家へ向かった。
ちょうど昨日は、入谷方面から浅草寺までの一本道である合羽橋本通りが七夕祭りの最中ということもあったので、どちらも楽しもうと人が集まったんだろう。

一時間ほどスクーターで走ってむこうに着くと、携帯電話に、珍しい人の名前で着信があった。ちょうど来月当りにその関係の奴らと集まろうということになっていたので、その件で連絡が会ったのだと思い折り返し電話をした。
しかし、むこうから返ってきた言葉は、後輩の死を知らせるものだった。

*  *  *  *  *  *  *

僕とその後輩は、何せ5歳も離れているんで、それほど親しかったわけではないけども、いろいろと心配をさせられる後輩だった。

10年ほど前だったか、もう少し前だったか、その後輩はかなり精神的に不安定(この言葉が適切かどうか迷うところだが、とりあえずそうしておく)になっていて、医者からのアドバイスを受けている時期だった。
そのことがキッカケになって久しぶりに会って以来、何度か電話をもらったり、会いたいと呼び出されて会ったりして、あまり医者や家族の邪魔にならない程度に、自分なりにケアをしていた後輩だった。

その後もたまに興奮して電話してくることもあったけども、徐々にそういうこともなくなり、それからしばらくしてかなり気持ちが安定してきたらしく、最近は時折手紙で近況を連絡してくる程度の関係だったので、いつの間にか僕の方も、心の片隅で心配するくらいになっていた。

そんな薄情な関係だったのであまり偉そうなことは言えないが、この後輩の訃報に「大馬鹿者め」という言葉しか思い浮かばない。

*  *  *  *  *  *  *

そんなことがあって自分の関係で伝えるべき人にだけ連絡し、子どもたちの家に入ると娘が落ち込んでいた。
どうやら、デザインの課題が上手く出来ずに悩んでいるらしい。
「もうできない。もうやめたい」なんて言葉を繰り返している。

話を聞くと、最近、スランプと言うか伸び悩みと言うか、モチベーションが上がらないらしい。どうも、本格的にデザインの勉強をはじめてみたら、学校にも予備校にも、自分よりも勉強していたりセンスがある奴がたくさんいて、鼻っ柱を折られたみたいだ。偉そうに「私には美術の素質がないんだと思う」だと。

僕に言わせれば、娘はまだ何も学んでいないし、本当の作品らしいものなんて何も創っちゃいないくせに「何が素質だ」と、笑ってしまうというよりも、情けなくて腹が立ってくる。

まぁ受験生なのでナーバスになっているとこともあるんだろうと、
「もう一度、自分がどんなデザインを創りたいか、そこから考え直してやり直してみな。一緒にブレストしてもいいし、一人で考えても良いし、とにかく受験をやめるなら止めないけど、受験を頑張ろうというなら、どんなに辛くても、泣き言言ってないで楽しんで創りな」
となだめた。

その後も泣きながらデザインをしていたが、最初に比べれば格段にデザインらしくまとまったところまで創りこんでいたので、やる気は落ちていても、多少の根性は残っているんだろう。

若い頃、すごい素質の奴らが周りにいて「こいつらには一生叶わないかも」と落ち込む気持ちは分からなくない。僕にも、同年代で目標にしていたクリエーターはいたし、たくさんのクリエーターたちから刺激をもらって自分なりにモノを創ってきた。自分の素質の限界を感じて、やる気が著しく落ちるのもよく分かる。

だけど、娘はクリエーターなりアーティストなりになるために、まだスタートラインにも立っていない。スタートラインに立つために準備運動をしている最中だ。これから、まだまだたくさんの素質に溢れた人たちに出会い、刺激を受け、切磋琢磨して成長していくことだろう。結果として、いま望んでいるデザインの仕事に就くのかわからないが、そういう創作活動の中で人生を楽しさを知ってほしいし、人間を磨いてほしいと思う。

*  *  *  *  *  *  *

気持ちがわかると言えば、僕は心が不安定な人の気持ちも分からなくない。数年前、かなりヤバい鬱状態になった。

当時のいろいろな記憶の中で、思い出すと今でも嫌な気持ちになるのは、駅にホームに立った時の感覚だ。
思っている言葉をそのままブツブツと口にしてしまう程の状態だったので、あまり外に出ないで引きこもっていたが、それでもどうしても出かけなくてはならない時もあり仕方なく何度か電車で出かけた。で、駅に立つとどんな駅でも、ホームに入ってくる電車に引き込まれそうになった。けっして死にたいのではなくて、本当に電車と線路に引っぱられような感覚で、ホームに電車が入ってくると柱や手すりに捕まってないと立っていられなくなり、ホームにしゃがみ込んだりしていた。

僕の場合は、まぁ生命力があるというか、何だかんだと死んでたまるかという気持ちが強かったのか「このままじゃ、本当にヤバい」と自覚して、自分なりに立ち直る方法を見つけ出した。
何年か前のCMで「鬱は三ヵ月」というキャッチフレーズがあったが、本当に後もう少し我慢していたら、僕は深刻な病状になっていたと思う。

だから、心が不安定になって死んでしまう人の気持ちが何となく想像できなくはない。もちろん、個々の人たちがどんな悩みを抱えていたのか、どれほど自暴自棄になっていたのか、どれだけ生きるのが辛かったのか、それは絶対に分からないけども……。

まぁ、そんなこんなで、ブログを読み返すことなんてすっかり忘れて、一日が終わった。
朝、入谷への散歩から始まって、色んなことがあった一日だった。
昔なら「不惑」であるべきだと諭される歳になったが、まだまだ不惑の境地には達せそうもない。

*  *  *  *  *  *  *

お〜い!
いま俺の周りで、悩みを抱えている奴!!

自分の素質の限界を感じて落ち込んでるお前、
何をやっても上手くいかなくて泣いてるお前、
大切な人との別れを経験したお前、
いつまでも結婚できないでいるお前、
ど田舎に住んでウジウジしてるお前、
その他、いろいろと悩んでる皆、

人生はハッピーに、明るく考えようぜ。
いつまでもクヨクヨ悩んでいる奴は、みんな大馬鹿者だ!

何? 最近までメソメソしていた俺に言われたくないってか?
馬鹿野郎、俺は何十年振りかで悲しいって感情がわき上がって、その対処に戸惑っていただけで、悩んでいたわけじゃねぇぜ。
お前ら、俺がどんだけ波瀾万丈な人生だったか知ってるだろ?

人生はな、どんな時にもハッピーだ!
自分がハッピーになるために、そして自分の周りの人たちがハッピーになってもらうために、どうすれば良いか考えようぜ。

*  *  *  *  *  *  *

この曲は、細野晴臣がキヨシローの追悼に選んだ曲だ。
シンプルな歌詞のこの曲を100回でも1000回でも聞きやがれ。

2009年6月14日 (日)

おい! チャリンコ!!


昨日、浅草で打ち合わせをして、次の約束のために移動している途中、目の前で小さな事故が起こった。
言問通りの交差点で、信号横断中の自転車同士が衝突した。

僕はちょうどスクーターで信号待ちをしている時で、本当に目の前で起こった事故だった。

それほど強い衝撃という感じじゃなかったんで、最初は「あらあら、ぶつかっちゃったよ」と見ていたんだが、ぶつかって倒れたお年寄りが、数秒経っても動かない。
ぶつかった相手も一瞬、気にかけていたようだし、僕を含めて周りの人も、最初は僕と同じような反応だったが、道路に俯せになって動かないから、慌てて駆け寄った。
少しの出血と軽い脳しんとうだったんだろう。
その後、警察と救急車を呼んで、倒れたお年寄りも何針か縫った程度で済んだようだ。

ただ、ぶつかった相手は、僕や周囲の人が倒れていたお年寄りに駆け寄っている間に、どこかへ行ってしまった。
お陰で、警察に事情を聞かれるなどがあったが、まぁそれは良いとして……。

「おい! チャリンコに乗ってた奴!
 どっちが悪いか別にして、
 他人とぶつかったのに、
 勝手にどっか行くな!!」

*  *  *  *  *  *  *

とにかく、最近は自転車に乗る人間のマナーの悪さが目に余る。

すべての自転車運転者は、車道であろうと歩道であろうと、「道路を車両で走るってことは、自分はもちろん他人の生命や健康を害する恐れがある行為だ」ってことを自覚すべきだ。

僕は、数年前から考えているんだけども、自転車も免許制もしくは認可制にすべきだと思っている。

運転免許ほど面倒でなく試験などは必要ないが、自分の住んでいる警察署で運転マナーの講習を受けて、自動車免許と同じような顔写真付きの免許証を発行してもらう。小中学生は学校で発行すればいいし、それ以上の年齢と未就学児童はすべて警察署か市町村の役場で、ちゃんと講習マナーを義務づけて、自転車に乗る場合は免許証を携帯させることを義務づける。
交通違反をして警察に見つかれば、きちんと反則金を払う。数年に一度は免許更新の手続きをして、マナー講習も受ける。交通違反が多い人は、免許停止や免許取り消しなどの行政処分をうける。
自動車や二輪の免許証を持っている人はそのまま利用できるが、当然ながら自転車で行政処分を受けて免停になれば、車や二輪にも乗れない(ちなみに現行でも、自転車で行政処分を受けると、自動車や二輪も同じように処分対象となり、その期間は免許も取得できない)

これくらいの義務は必要だと思う。

*  *  *  *  *  *  *

僕は、朝方、6時から7時くらいの時間帯に、よく国道17号線(中山道)をスクーターで走っているのだが、この数年、自転車で通勤する人が増えていることが実感できる。
僕の知人にも自転車族はたくさんいるし、僕もスクーターに乗らない時は“おばチャリ”で上野から銀座や神保町あたりまで出かけるので、自転車運転者を一方的に責めるつもりはない。

が、しかしである。
最近の自転車運転者は、あまりにもマナーが悪い。

スクーターや車に乗っていて、いつも危ないと思っているのは、道路の逆走だ。
自転車であろうと荷車、馬車、人力車であろうとも、車両である以上、車道を走る際には左側通行をしなくてはならない。ところが、とくにオジさん、オバさん、子どもなど、たぶん車をあまり乗らないと思われる人たちは、何十キロも出す車やバイクの正面に向かって、自転車で平然と走ってくる。
最近よくニュースで、認知症のドライバーが高速道路を逆走してしまう事例が話題になるが、自転車で逆走する人たちは他人事ではない。自転車の逆走もそれと同じだけ危険な行為だ。
こういう人は、自動車を運転する人がどういう注意を払っている頭ないから、歩道から車道に出てきて、しかも駐車車両の影からいきなり車線を超えて出てきたりする。車の時よりも、とくにスクーターで走っている時がとくに危なっかしくて、スクーターは道路の中央より左端を走らないといけないことになっているので、トラックの影からいきなり自転車がこっちに向かって現われると、正面衝突しそうになる。
僕は一般の人よりも運転技術はある方で、しかもスクーターに乗る時は、けっこう安全運転を心がけているから今のところ事故にならなくて済んでいるが、僕ですらいつ自転車と事故になるか分からない不安が増えている。若いバイク乗りやサンデードライバーの人たちによる、自転車との接触事故は今後も増える一方だろう。

もう一つ、自転車運転者で気になる、というか気に入らないのは、信号無視だ。
前述したように、僕が朝方、広い国道をのんびりと走っていると、多くの自転車通勤をみかける。僕が制限速度(時速30キロ)なんかで走っていると、あっという間の速さで抜かしていく自転車も多く、毎回、5台くらいは時速30〜40キロ以上のスピードで走っているのを見る。
そういう原チャリ以上のスピードで走っている自転車通勤族だが、まともに信号を守っているのは、その1割りにも満たないだろう。
車やバイクは、信号があればほとんど全員が、信号や交差点の大小に関わらずきちんと信号を守る。しかし自転車運転者は、大きな信号ならいざ知らず、小さな路地と交差する信号なんて、ほとんどの人間が赤信号を無視して走っていく。
もちろん、徐行運転しながら信号無視しているのだが、ほとんどの車が徐行しているからって信号無視したら、一体どんな道路事情になるだろうか?

*  *  *  *  *  *  *

僕は、自転車の逆走と信号無視は、本当に悪質な道路違反だと思う。
もちろん、それ以外にも道路のルールやマナーを理解していない、あるいは無視しているのを見かけることもある。
いまもこうした交通違反によって事故は増えている。

こうした状況を改善するために、自転車運転の認可制・許可制は有効な手段だと思う。少なくとも、早急に、警察などが自転車運転者に対してもう少ししっかりと指導すべきだ。

その上で、もっと自転車運転者の立場に立った道路行政も進めなくてはいけない。
実は、自転車運転者だけを厳しく取り締まっても問題が解決するわけではなく、もっと根本的に、例えば自転車専用道路を作るとか、自転車を利用しやすい環境整備が絶対に必要だ。

*  *  *  *  *  *  *

昨日、偶然目の前で起きた小さな事故も、大事にならなくって良かったと思う。
ただ、事故が小さかったのは偶然だ。
普通に走っている自転車同士がぶつかる衝撃は、物理学的な数値でいえば、打ち所によって人が死んでもおかしくないものだ。

昨日、倒れた人を放置していった相手の自転車運転者は、言ってみれば「当て逃げ」だ。
自転車にしてもバイクにしても車にしても、いつだって事故の危険性はある。僕だっていつ事故を起こすか分からない。どんなに注意を払っていても、事故の危険性はなくなることはないし、運転者である僕には事故を起こしてしまうことについて、偉そうなことは言えない。だからこそ、事故は起こした後の対応が大事になってくる。
昨日の事故そのものについてどちらの責任が重かったのかは、僕が判断すべきことではないが、少なくとも人にぶつかったら、自分が悪くなくったって相手の様子くらい確認すべきだ。まして、相手が倒れて動かなくなったのを放置するなんて、以ての外だ。

こんなのは、交通ルールだの法律だのの以前に、人として問題があることなんだが、最近は社会人として問題ある奴が多い世の中でもある。

2009年6月12日 (金)

何切る?……ロマンは切れない!


僕は長い間、「日刊スポーツ」を読み続けている。

25年ほど前、高校生の僕は麻雀にハマっていて、当時は雀荘から学校に通うのが当たり前だった。

もう時効だから許してもらうけど、その時分、実家がちょうど府中にあったから毎週のように馬券を買っていたし、麻雀、競馬、パチンコは当たり前だった。
今の知り合いたちに全部を話すと、きっとかなり引かれてしまうくらい、一般の人は絶対に近づかない過激なギャンブルにハマっていた時期もあって、けっして不良だったわけでもヤクザだったわけでもないけども、そういう人たちの近隣にいたことはまぁ間違いない。

作家・浅田次郎は「企業舎弟」とか「準構成員」と言われる人だったこともあり、『ラブ・レター』などの短編の中で、ヤクザでもないチンピラを描くことがあるけども、僕の学生時代もそういうチンピラみたいなもんだった。
金子正次が遺した脚本を原作にした『チ・ン・ピ・ラ』で、久保田篤(初代いいとも青年隊)演じる「太」という若者が出てくるのだが、そんな感じだった……っていっても、よく分からないかな?

浅田次郎も金子正次も、本当にチンピラの心情を描くことに長けている。チンピラやヤクザのように「裏社会」なんて言われるところは、一般社会からははみ出した人間たちの集合体なのに、その裏社会からですらはみ出してしまう主人公たち……、それは振り返ってみると、一般社会の中で生きながらどこか行き詰まったり、閉塞感の中で苦しんでいる、普通の人たちの苦悩とあまり変わりがない。

『チ・ン・ピ・ラ』を撮る前に死んでしまった金子正次の映画『竜二』は80年代の傑作の一本だと思うし、10年くらい前、入院中に『ラブ・レター』を読んだ時は、思わずウルっとしてしまう小説だった。
ともにお薦めしたいので、もし良かったらぜひどうぞ。

あぁ、いつものように脱線が長くなった……。
話を戻すと、そんな高校生の頃、雀荘にいつも置いてあったのが「日刊スポーツ」で、以来、ずっと読んでいる。

最近は購入しスペースが若干落ちたが、それでも週に3〜4回は買ってるし、たまに新聞配達のアンちゃんに頼まれると半年の定期購読するし、少なくともネットでは毎日記事を確認している。

*  *  *  *  *  *  *
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で、その日刊スポーツのサイトを見ていたら、今日、上の画像の右側の広告が目に入った。

「何切る?」と問われているのは、麻雀のある場面で、次に考える最善の策はなんだろうか?と問いかけている。

さて、麻雀のルールが分かる人なら、何を切るかな?

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約5割の人が「八萬」を選択している。
麻雀を知らない人は分からないかもしれないが、この質問は、あまりにも曖昧過ぎていて、もっと細かいシチュエーションの説明がないと、何を切っていいか判断しかねる部分がある。

で、そんな中で多くの人が「八萬」を選択にしたのは、現実的な選択をしたのだろうと読み取れる。「八萬」を選択することは、この局面から一番早く上がれる可能性が高いからだ。しかも、上がれば割といい得点を得られる。

ただ、僕は「八萬」を選択しなかった。
僕ならとりあえず、十中八九「九萬を槓」と言うところなんだけども、それができないと言う前提ならば、「七萬」を選ぶか、フリ聴になることを覚悟して「九萬」を選ぶかもしれない。こうすることで、少し遠回りになってしまうが、「役満」という最高得点を得られるかもしれないからだ。

前述した通り、あまり細かいシチュエーションが設定されていないので、現実的な選択をする気持ちも分からなくない。
たしかに、「八萬」という選択はすごく好条件。一番早く上がれる可能性があるし、上がる手もそこそこ高い。最高得点ではないけども、1ゲームで一度上がれるかどうかという高い点数だ。野球で言えば、2ランホームランくらいの価値がある。

でも、細かいシチュエーションが設定されていないなら、自分にとって絶好のシチュエーションだと仮定して考えることもできるということだ。

この場面が、「本日の半荘4回目」「全体としては2000〜3000円のプラス」「半荘の東2局」「南家」「3巡目」「持ち点プラマイ0」「場には白中発が1枚ずつ、八萬ション牌」という状況ならどうだろう?
これまた麻雀の分からない人には理解できないだろうが、要するに、無理をして高い手を狙ってもいい状況だ。

それでも一番早く上がれる可能性のある「八萬」を選択する人とは、僕は友達になれないかもしれない(笑)。

どんなシチュエーションを思い描いてもいい状況で、自分にとって都合良い条件を思い浮かべないなんて、夢がなさ過ぎるだろう。
「今君は、ホームランを打っています。どれくらいすごいホームランですか?」と聞かれて「2ランホームラン」なんて答えたくない。「9回裏2アウトから、逆転満塁場外サヨナラホームラン」って答えたい。

野球と言えば──話はまたそれるが──2年前、プロ野球の日本シリーズで、完全試合を目前にしたピッチャーを交代させた「オレ流野球」を見せられて、それまでは好意的に見ていた落合博満という野球人のことが大嫌いになった。半世紀も日本一になっていなかった中日ファンからしてみれば、能天気なロマンチストの戯言かもしれないが、僕はロマンの感じられない世の中や人生なんて、面白くも糞もないと思っている。

だから僕は、上の画像を見て「何を切るか?」と聞かれたら、やっぱりロマンを求めてしまうのだ。

*  *  *  *  *  *  *

こんな都合のいいことしか考えられない僕は、ギャンブルをやってる人なら察する通り、けっしてギャンブルに強くはない。
だって、阿佐田哲也がギャンブル小説の傑作『ドサ健ばくち地獄』で描いているような、張りつめた糸のような緊張感ただよう博打の最中は、たとえどんなに都合のいいシチュエーションでも、たぶん「八萬」を選択しなければならないからだ。

だから僕は、幸か不幸か、本職の博打打ちになることはなかった。

お陰で、いまだにロマンと現実の境をフラフラとして生きている。
ロマンなんてもとめて生きていると、「宵越しの金なんて持てるかぃ」と言い訳しながら、財布の中に500円しかないなんてことも、ちょくちょくある。まさに、映画『男はつらいよ!』ではないが、家族たちには迷惑この上ない存在だろう……。
でも、夢も持てずにつまらなそうに生きている僕を見ていたら、きっと家族もつまらないだろう。

ということで、今日もロマンを求めながら、ちゃんと仕事をするんです。


 ♪何とかなれ〜

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2009年2月 4日 (水)

自衛隊は解体されるべきだ


もう20数年前から、僕の中で変わってない哲学がある。
それは、戦争行為に対して反対の意志を貫いていくことだ。
だからもちろん、僕は日本国憲法の9条を強く支持している。

*  *  *  *  *  *  *

「じゃぁ、日本の国防は? 安全保障は?」という問題は、ここで書き始めると長くなるので、いつかタイミングが合えばジックリと書きたいと思っている。
とりあえず、まぁすぐに「非武装」といっても、日本には日米安全保障条約があり、自衛隊という軍隊擬きの組織が存在しているし、実際に隣国である北朝鮮とでさえ国交がない段階では、「明日から非武装にしよう」といっても現実的ではない。

「だったら、自衛隊の存在を認めるの?」と言われれば、僕は現在の自衛隊を認めるつもりはない。

まず、災害に関する自衛隊の活動と現状の行政的役割については、高く評価しているし、それを否定するつもりはない。ただ、これが自衛隊という組織に所属していなければならない絶対的根拠は見当たらないので、これはすぐにでも、「災害救助隊」として独立すべきだと考える。他の「非軍事的」活動についても同様で、将来的にも必要な組織があれば、それは別組織として分離し独立させればいい、
で、残る軍事組織としての自衛隊については、すぐにでも「解体的再編」すべきだと考えている。
「再編」というのは、将来的なことは別にして、とりあえずは「防衛組織」の存在を認めるということ(将来的には完全解体すべきと考える)。

「どうせ防衛組織を持つなら、今の自衛隊でもいい」という人も多いと思うが、僕はそうは思わない。再編のために莫大な予算がかかるとしても、今の自衛隊は「解体的再編」をしない限り、絶対にまともな組織にならないと「確信」している。

*  *  *  *  *  *  *

その理由の一つは、自衛隊(およびその母体となった警察予備隊以降の組織)の発展の中で、脈々と旧日本軍の思想・哲学を引きずっていること。これは、先の田母神俊雄の発言を見るだけでもよく判る。自衛隊の隊員教育に強い影響をもつ人間が、日本国家の意思とは反対のことを公然と主張し、隊員教育の場でもその思想を前提に行っていた可能性が強いということだ。もし本当にそのような隊員教育が行われていたならば、これは日本の行政組織として大問題だ。
このように、国家としての意思を無視するような行政機関なんて、どんな理由があるとしても認めてはいけない。まして「文民統制」が基本条件である民主主義下の軍事組織が、国家の意思を無視するなんてもってのほかだ。

もう一つは、自衛隊という組織がことごとく隠蔽体質で、組織内の自浄作用が働くようなものだとは思えないこと。これについては、この数年の自衛隊内の不祥事について、自衛隊内部からは、事件の真相を隠そうという意思しか見えてこないことからも明らかだ。
いま、一連の年金問題で「社会保険庁は解体的出直しをしなくてはならない」という議論があるが、これと同じように、自衛隊も解体的再編をしない限り、組織内の自浄作用など期待できない。

他にも書き出すと、これまたダラダラと長い文章を書くことになってしまうので、とりあえずはこの2つをあげておくけれども、まぁ僕としては、この2つだけでも自衛隊が解体的な改編をする相当な理由だと思っている。

*  *  *  *  *  *  *

さて、何でいきなりこんなことを書いたかといえば、次の記事で紹介しする書籍のことを書く前に、まぁ僕の自衛隊に対する考え方を書いておいた方がいいかなぁって思ってのこと。

自衛隊のことだけに関わらず、僕があらゆる戦争行為を反対し憲法9条を支持する理由について、このブログではあまり書いてこなかったので、関連する本を紹介する前に、とても簡単ではあるけども一応書いておく。

ということで、次回につづく


2009年1月 9日 (金)

ようやく新年が明けて……

昨年末は、風邪を引かないようにとかなり用心していたが、大晦日にとうとう風邪を引いてしまい、鼻水、熱、喉の痛みに加えて、喘息の発作もおさまらず、大晦日から先週の月曜日まで、ほとんど寝正月。
そんなこんなで、ようやく火曜日から起き出して、本来は年末年始の休みのうちに片付けておこうと思っていた仕事や1週間分のメールの整理などで、木曜日まで、ほとんどパソコンの前から動けず。
で、ようやく金曜日に動き出せそうになって、お客さんのところに新年の挨拶に行ったり、浅草あたりの写真でも撮って来ようかと思っていた矢先に、知人の身内に不幸があって、新年の一番最初に近所以外に出掛けたのがお葬式。

ということで、新年の挨拶をするどころじゃなく、波乱を予感させる2009年がスタートした。

*  *  *  *  *  *  *

お葬式に行く度に実感するのが、字が下手なこと。

編集者の仕事というのは、いろいろと文字を書く機会が多い。
最近こそ、電子メールで用件を伝えたり、PDFやデジタルデータを使って仕事の指示をしたりすることも増えたが、それでもまだまだ文字を書いて仕事の指示をするのが基本だ。
編集には、「朱入れ」「校正」「赤字整理」なんて作業があって、赤ペンで必要な指示をしたり、修正をお願いしたりする。編集者にとっては、これらの作業がもっとも重要な作業の一つで、文字を書いて仕事の内容をちゃんと伝えないといけない。しかも、このブログで書いているように、だらだらと長文を書くスペースはない。簡潔に、正確に、相手に意思を伝えないといけない。

でも僕は、とにかく字が下手だ。社会人になりたての頃はかなり悩んで、ペン習字などを学ぼうと思っていた矢先に、僕の編集の師匠が、
「字が下手のは仕方ない。でも、雑に書いちゃ駄目だ。字が下手でも、丁寧に書けば相手に伝わる。編集者は、字がうまくても相手に読めないように書いたら価値がない。それから、こそこそした気持ちで書くと、字が小さくなって、相手に見落とされてしまう。だから、下手でもいいから、堂々と、そして丁寧に書け」
と教えてくれた。
それからは、コンプレックスはあったけども、それでも「堂々と、丁寧に」をモットーに字が下手なまま仕事をしてきた。お陰で仕事相手からは、「確かに下手だけど、赤字が分かり易い」と言ってもらうようにもなった。

ところが、葬式に出席して名前を記帳するときは、「堂々と、丁寧に」ではどうにもならない。
しかも、普段から使い慣れない筆で書かなくっちゃいけなかったりする。
不祝儀袋の記名も、名簿への記帳も、みっともないことこの上ない。

落語では、長屋の住民が自分の教養のなさを恥じて、下手をすると引っ越しまでしようっていう噺がたくさんあるが、まさに同じ心境で、逃げ出したくなる気持ちになる。
葬式は悲しい行事だけども、僕にとっての葬式は、字を書く事が何よりつらい。

何とかならないものだろうか……。

*  *  *  *  *  *  *

さて、こんな愚痴ぽい気持ちで葬儀へ参列後、験を直しに寄席でも行こうかと、喪服から着替えて、その前にお客さんのところへ挨拶回り。
5時くらいまでに上野・鈴本演芸場の初席に行けば、先日取材させていただいた柳家小里ん師匠にも間に合って、トリは柳家小三治。久しぶりに4時間みっちりコースで楽しもうなんて考えていたら、最後に寄ったお客さんのところで「軽く一杯」なんて誘われ飲みにいく事に。
なんとか早めに切り上げて、急いで上野に戻ってきたが、小里ん師匠どころか、最後の中入りにギリギリ間に合った。

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獅子舞のお神楽、江戸家猫八の動物鳴き真似、林家正楽の紙切りと、正月らしい舞台が続き、事前に酒を飲んでいたこともあり、こちらもようやく正月気分だ。少しお目当てにしていた柳亭市馬は休演で残念だったが、まぁ仕方ない。代わりの三三と、権太楼は相変わらずと言ったところ。

そしていよいよ、トリの小三治。
以前も書いたが、現役の中では圧倒的に好きな噺家だ。すでに全盛期は過ぎたが、これからはいい感じに枯れていく姿を見ていきたい。
“小三治節”ともいえるマクラを、いつものように気分よく聴きながら「個人的に少し遅れた一年の始めを小三治で迎えるというのは、いい年の始まりだなぁ」なんて気分に浸っていた。

すると、なんと始まった演目が「小言念仏」。
「南無阿弥陀仏」とひたすら念仏を唱えながら進む話で、昼間さんざんお題目を聞いたことを思い出し、一人で苦笑い。

やっぱり、今年は波乱の年になりそうだ。

ということで、今年もよろしくお願いします。

2008年12月18日 (木)

日曜日のTBS『報道の魂』をぜひ見てください。

ちょうど2年前に「オリコンよ、出版人としての恥を知れ!」という記事で紹介した烏賀陽(うがや)弘道さんのオリコン裁判は、現在も続いている。
その後、このブログでは報告をしてこなかったが、現在、高裁で争っている最中だ。

そのオリコン裁判の行方を取材したドキュメンタリー番組が、12月21日(日)にTBSで放送されることになった。

以下、番組公式サイトの転載。

*  *  *  *  *  *  *

TBS『報道の魂』
http://www.tbs.co.jp/houtama/prog.html

言論には言論で応じる時代は終わったのか?

ジャーナリストの記事やコメントに対して、書かれた側がいきなり訴訟を起すケースが増えている。しかも巨額の損害賠償を求めるケースが多く、言論活動封じ込め目的?との批判が起こる例すらある。

ヒットチャートで有名なオリコンは、ある雑誌記事により名誉を傷つけられたとして5000万円の損害賠償訴訟を起した。しかも記事の執筆者や編集責任者は訴えず、雑誌の取材先となったジャーナリストだけを訴えるという手段に出た。こうしたオリコン側のやり方に「口封じまがい?」との批判の声もあった。

1年5ヶ月に及ぶ審理の結果、東京地裁の一審判決はオリコン側の訴えを認め、ジャーナリスト個人に100万円の賠償を命じる内容となった。しかし一方で、判決に首をかしげる人も多かった。「裁判所は、口封じまがいの訴訟を、是認するつもりか・・」と。

米国では、言論封じ込めを目的とした訴訟は「SLAPP」と呼ばれ、訴えそのものが門前払いとなることが多い。言論の自由への悪影響を危惧してのことだ。しかし日本の司法界には「SLAPP」という概念そのものがない。審理が長期化すると、訴えられたジャーナリストは裁判対策に忙殺され、勝ち負け以前に疲弊して活動を封じられることすらある。

番組ではオリコン訴訟判決が生んだ様々な波紋について取り上げ、訴訟と言論のバランスをどう取るべきかを考える。

取材:秋山浩之
撮影:若泉光弘

(引用以上)
TBS「著作権とリンク/3.『引用』について」に基づいて引用
*  *  *  *  *  *  *

オリコン裁判については、これまであまりテレビやマスメディアで大きく報道されることはなかったが、引用文中出てくる「SLAPP」裁判の中でも、かなり重要な裁判と考えられ、ジャーナリストやフリーランス・ライターの中でも注目されている。

こうした裁判では、過去に『週刊金曜日』と三宅勝久さんが訴えられた「武富士裁判」があり、こちらは全面的に勝訴した。ほかに現在係争中では、黒薮哲哉さんの「読売押し紙裁判」というものもある。
どれも、大きな力を持った企業が、自分の都合の悪い事を書く個人のジャーナリストに対して、極めて不当とも取れる民事訴訟を起こし、言論を封殺しようという行為だ。

何よりも許せないのは、公正に言論を闘わせるのではなく、個人ではなかなか抗えない“大きな力”によって、彼らの言論を抑制しようという姿勢だ。僕は何も、彼らが聖人君子だとは言うつもりもないし、彼らの発表しているすべての記事を読んでいるわけではないので、全肯定しようというのではない。ただ、仮に彼らの主張に反論があるなら、オリコンにしても読売新聞にしても自ら主張を発表するメディアを持っているのだから、そこでいくらでも反論すればいいということだ。言論とは、お互いに公平な立場で、公正に闘わせるものだ。
高額な裁判を起こされれば、例えば弁護士の着手金だけでも、基本的にはその訴えられた金額に比例するため、かなりの高額になる。また、フリーランスの立場で、長い間裁判に関わっていると、仕事も手につかない事が多い(この辺りの苦労話については、別の機会に詳しく書きたい)。事実上、個人だけで闘っていくのは不可能で、明らかに一方的に相手の言論を抑制しようという対処だ。

*  *  *  *  *  *  *

彼らの事は、出版ネッツのメンバー同士ということもあり、僕も微力ながら彼らを応援しています。

日曜日の深夜放送なので、あまり視聴率も期待できないんですが、良かったらぜひテレビ番組を見てください。そして、こうした横暴な行為が起こっていることを、ぜひ知っておいてください。
よろしくお願いします。

2008年11月12日 (水)

「言論の自由」のあるべき姿

航空自衛隊前幕僚長である田母神俊雄が、昨日の参議院で行われた参考人招致に出向き、さまざまな持論を展開した。

新聞やテレビを通して、その一部だけしか確認していないのだが、とくに気になる発言だけを抜粋すると、以下のような発言をしていたようだ。

(外交防衛委員会の質疑応答)
「びっくりしているのは、『日本は良い国だ』と言ったら解任された。『日本は悪い国だ』という人を就けなさいということだから」
「(集団的自衛権も行使し、堂々と武器を使用すべきだというのが本音か?の質問に)私はそうすべきだと思います」

(マスコミ取材に対して)
「自衛官にも言論の自由はある」
「言論統制によって自衛隊の士気が低下する」

ここで田母神俊雄が主張する「言論の自由」は、はたして自衛官や国家公務員に保証されているものだろうか……?
最初に断言しておくが、「何でもかんでも好きな事を言っていい」という意味であるならば「言論の自由は保障されない」ことは明白だ。

懸賞論文の内容に対しても個人的に異論はあるが、それは置いておいて、ここでは田母神俊雄の主張する「言論の自由」に正当性があるかどうかを問題視したい。

*  *  *  *  *  *  *

「思想・信条の自由」というならば、憲法が保証してようがしていなかろうが、民主主義国家では当然の権利だ。自衛官であれ、国家公務員であれ、心の中で何を思い、プライベートでどう行動しようとも、法律を犯す事なく他人に迷惑をかけないのであれば、自由にすればいい。
しかし、「言論の自由」というのは、「何でもかんでも好きな事を言っていい」というのではない。
例えば、誹謗中傷をするなど他人の尊厳を踏みにじるような言論は、自由に保証されてはいない。民主主義の上位概念として、他人の権利を保証する事が存在しているからだ。
あるいは、国家公務員である以上、国家の方針や法律に背いて行動する事はできない。公務員にはスト権が保証されていないように、様々な規制がされているのは、当然のことだ。極論すれば、それがなければ、軍事クーデターを起こされても罪に問えなくなってしまう。

もう少し簡単な例を出すと、公務員としての教員の在り方だ。
学校には、社会や国語など、思想教育のしやすい授業の他に、ホームルームや学級活動、あるいは道徳、課外授業など、あらゆる局面で、教師の考え方を生徒に話す機会が存在している。
そこで、例えば
「自分の立身出世のためには他人を殺しても構わない」
「ストレス発散のために、法律に触れない程度で誰かを精神的に虐めよう」
「他国を侵略し戦争する事は間違っていない」
なんてこと、教師が生徒に語った時、「言論の自由」で許されるだろうか?
もちろん許されるはずがない。
教師の主張はあっても、社会常識から大きく逸脱するような思想教育は認められない。

一般人も、あらゆる組織に所属しているが、その中で必ずしも自由に意見を言っている訳ではない。会社員が何でもかんでも好きな事を言えるはずがないし、例えば後輩社員教育で、会社の方針と反するような事を教え込んで、問題にされたからといって「言論の自由」を主張できる訳ではない。僕らマスコミの端くれにいる人間だって、常に規制なく自由な言論をしているわけではない。
同じように、公務員まして自衛隊の最高幹部の一人である幕僚長が、政府とは違った見解を発言する際に、何の制約も受けないなんてあり得ないことだ。

今回の外交防衛委員会も、参考人招致をするならばもっと突っ込んだ質問をすべきで、例えば
「改憲すべきと考えるあなたは、すべての業務遂行の際に、その考え方に基づくことはなかったのか?」
「あなたは、日本が先の大戦で行った行為を侵略行為ではないということを前提に、隊員教育を行ったことはあるか?」
ということを聞くべきだった。
それは、明らかに国家公務員として懲戒処分の対象になるからだ。
もしこれらを認めたとしたら、田母神俊雄個人だけの問題ではなく、政府に対する航空自衛隊の組織的反乱と捉えるべき大問題になる可能性もある。
いつもながら、質問した国会議員たちの詰めの甘さは情けない。

田母神俊雄が、自分の考え方を日本政府に対して主張したいなら、それは幕僚長として政府に政策提言すべきだった。そこは「言論の自由」が保証されるべきだし、政策提言することが制約されたのだとしたら、その時こそ「言論の自由が圧殺された」と政府を批判すればいい。「文民統制」という大前提のもとで、勝手に自分の史観を隊員教育に反映させたり、肩書きを添えた上で勝手な自分の論文を怪しげな懸賞に応募して良いという事にはならない。
その点が、まったく理解できていないか、あえて無視して発表したのか分からないが、論文の内容の前に、その点をはき違えるべきではないだろう。

個人的には、現状では退職金などは返還する必要ないと考えている。懲戒されたわけでもない(つまり、政府が問題なしと認めた)のに、自主返納すべきというのは間違っている。懲戒処分にしなかった政府を批判するか、懲戒処分にする確固たる証拠を突きつけるか、まずそれをすべきで、現状で退職金を返還すべきだなんてナンセンスな主張だと思う。
ただし、それはあくまでも、現状の処分が降格のみだったからであり、田母神俊雄がとった行為は、自衛官・国家公務員として明らかに間違っているし、批判されるべき行為だということを、強く主張したい。

*  *  *  *  *  *  *

よく「言論の自由」を気軽に使う人がいる。
「言論の自由」は、あたかも民主主義におけるすべての上位概念のように思い込んでる人がいる。
とんでもない誤解だと思う。
「言論の自由」は、パワーバランスを欠いた対立構造の中でこそ使われるべき権利であり、自衛隊のトップが好きなことを言っていい権利ではない。
このこと一つをとっても、田母神俊雄という人物が、いかにいい加減な言論を振りかざしているかよく分かる。

こんないい加減な人物に「言論の自由」が勝手に解釈されるだけでも不快な思いがする。

*  *  *  *  *  *  *

「言論の自由」を守るために真摯に取り組んできた諸先輩たちが、戦後という言葉とともに、この世から去ろうとしている。
日本がもっと真面目に「言論の自由」の国でありつづけることを、今生きている僕たちが考えていかなければいけないと思う。


2008年7月14日 (月)

お供え物泥棒とお天道様

先月起きた秋葉原の殺傷事件の影響で、秋葉原は警官や地元の人たちの警備などが物々しく、未だに緊張感が解けずにいる。
ちょうど通り道なので、事件発生場所の献花台の目の前をよく通るが、今もペットボトルや花が絶えない。

神奈川金属バット両親殺害事件から、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件、神戸連続児童殺傷事件などを経て、附属池田小事件と今回の秋葉原の事件は、日本社会の凶悪犯罪が新しい段階に入ったターニング・ポイントになった気がする。

事件については、今後、背景などが詳細に浮かび上がって来ると思うので、「格差社会の副産物」などと単純に分析せず、今後も注目していきたい。

*  *  *  *  *  *  *

ところで、この秋葉原事件の献花台から、ペットボトルを盗み出す不心得者が出ているそうだ。
事件の関係者、あるいは実際にペットボトルを置いた人たち、献花するほど心を痛めている人たちにとっては、とんでもない話である。

……だけども……、このことをトップ扱いにするワイドショーや夕方のニュース番組は、さすがにどうだろうか?
ちょうど今、出来心で盗みを働いていてしまった若者が出て来る落語噺について、このブログを書いていたら、ワイドショーでこのニュースが流れてきた。先週末、別のチャンネルの夕方のニュースでもやっていたから、ワイドショーや夕方ニュースの制作者たちにとって、“手頃”な話題なんだろう。

否、もちろん、そんなものを盗む奴が悪いんだけど……。

日本社会のモラルが低下していることについては、以前から心を痛めているし、ブログやネットコミュニティだけでなく、仕事の原稿でも書いたことがある。たしかに、それは大問題。
もちろん、社会が“公然”と犯罪を認めてしまってはいけない。

ただ、昔から、墓場やお地蔵さんのお供え物を盗む奴なんて、そこら中にいたんだと思う。
例えば、同じようにワイドショーや夕方のニュースで、度々扱われるモラル問題として、河川敷で川に向かってボールを打ち込む“ゴルファー擬き”の迷惑親父のことがある。こういう親父たちとお供え物泥棒って一緒なのかな……。

否否、何度も言うけど、僕はお供え物を盗み出す奴を、社会全体で認めてしまおうってことを言いたいわけじゃない。

でもね、例えば、河川敷で他人に危害を加える可能性のある親父たちや、他人の権利や財産を明らかに侵害しているオッサンたちの行為と、喰うものがなく腹が減っていずれ何らかの形で“廃棄”される食い物を食べるお供え物泥棒って、同じように酷い行為なのかっていえば、僕はそうは思えない(お供え物が仮に埋葬されても、ここではそれも“廃棄”としておく)。

僕は、「悪事」に対して許容範囲を極端に狭めて行くことっていうのは、結果としてモラルの低下に繋がって行くと考えているし、昔の日本社会ではお供え物泥棒なんて笑い話にできたにもかかわらず、それがモラル低下に繋がっていたという分析を見たことがない。
むしろ、そういう「社会の包容力」は、成熟した社会にとって重要な要素だろう。

今回の事件で心を痛めている人、真剣に見つめている人が、許せないというのはすごく分かる。そういう人が、ペットボトルを盗んだ奴を捕まえるのだとしたら、それを止めることはできない。
ただ、テレビで取り上げ、日本中で袋だたきにしようとするテレビ制作者のセンスには、大きな違和感を感じている。

*  *  *  *  *  *  *

日本人は、昔っから「お天道様」を意識してきた。生活の中に、お天道様が根付いていた。
特別に強い宗教心からではなく、単純な信仰だったんだろう。

最近は、落語や時代劇の世界でしか「お天道様」という言葉を耳にしなくなった。僕は『男はつらいよ!』が好きでちょくちょくBGVとして流しているので、耳にもするし口に出すこともあるが、うちの子どもたちなんて、ひょっとしたら一度も口にしたことないかもしれない。

無宗教の僕のイメージだけど、お天道様も、お供え物泥棒と河川敷の迷惑親父を一緒には考えないだろう。もちろんお供え物泥棒にも、きっと罰はあたえられるだろうけど、まぁそんなにたいした罰じゃないんじゃないかな? お天道様ってそのくらい寛大な神様っていうイメージだな。

そして、そんなお天道様というのは、日本人の心だったり、理想としたモラルの象徴だったはずだ。


現代の日本人は、お天道様への意識とともに、少しずつ他人に対する包容力がなくなってる。

*  *  *  *  *  *  *
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写真は、朝霧高原から見た富士山。
お天道様が富士山に隠れてる。


2008年4月10日 (木)

中野のグループホームがスタッフ募集中!


知人の働く認知症グループホーム「コル・テンポ 薬師の家」が、スタッフを募集しています。
当分、常時募集ということなので、興味のある人はぜひどうぞ。

まだホームページがないので、とりあえずチラシをアップしておきました。

↓■スタッフ募集のチラシ■↓
http://www.craftbox-jp.com/yakushihome/recruit08.pdf

詳しくは、直接お問い合わせください。

*  *  *  *  *  *  *

東京・中野のNPO法人「中野の和」が、市民の手づくりによる暖かみのある施設を目指して、今年の2月にオープンしたグループホームです。

ご存知の方も多いと思いますが、介護の現場はかなり厳しい職場環境です。しかし、そんな中で良心的な人たちが集まって、日本の介護現場を支えています。
わずかでも地域の協力が集まれば、そうした厳しい環境も少しずつ解消されていきます。
ぜひ、よろしくお願いします。

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【施設名】グループホーム コル・テンポ 薬師の家
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2006年12月20日 (水)

オリコンよ、出版人としての恥を知れ!

この数カ月、公私とも「超」が3つくらい付くほど多忙となり、あまり更新できずに放置しているこのブログだが、緊急事態が発生したので、少しでも多くの方の知っていただこうとお知らせしたいと思う。

以前、このブログでも紹介した「Jポップとは何か」の著者、烏賀陽(うがや)弘道さんが、音楽リサーチの「オリコン」から不当に訴えられた。

以下、烏賀陽さんからのメールをそのまま転載する。裁判所に訴えられてすぐの連絡なので、やや気分が高まって長文になっているが、ぜひ読んでほしい。

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(以下転載)

みなさん 同じ文面を一斉にお送りする失礼をお許しください。

緊急事態が起きました。どうか、みなさんのお知恵、お力を貸してください。記事にしてください。ブログに書いてください。ウエブサイトに載せてください。メールを転送してください。言いふらしてください。

05年12月13日、月刊誌「サイゾー」編集部に損害賠償訴訟の訴状が送られてきました。原告は、音楽ヒットチャートでは知らない人のない巨大独占企業「オリコン」。その企業が、烏賀陽弘道という一個人に対して、5000万円という巨額の損害賠償金を支払うよう求める民事訴訟を東京地裁に起こしたのです。

訴訟の対象になったのは、「サイゾー」06年4月号51ページの「ジャニーズは超VIP待遇!?事務所とオリコンの蜜月関係」という1ページの記事に掲載された烏賀陽のわずか20行ほどのコメントです。

これは、サイゾー編集部からの電話取材に対して、烏賀陽が話した内容を同編集部がまとめて文字化したものです(よって、内容は烏賀陽の原義とはかなり隔たっていますが、そのへんはひとまず置きます)。よって、烏賀陽が能動的に寄稿したものでも、執筆したものでもありません。

その中で、烏賀陽はオリコンのヒットチャートのあり方についていくつかの疑問を提示しています。ここにコメントしたことは、烏賀陽の取材経験でも、音楽業界内の複数のソースから何度も出た話で、特に目新しい話や驚くような話はひとつもありません。(ご参考までに記事をJPEG形式で添付します。1MB近くありますが、すみません。PDFファイルにする方法をしらんのです)

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この訴訟には、いくつか露骨なまでの特徴があります。

(1)記事を掲載した「サイゾー」および発行元「インフォバーン」を訴訟対象にしていないこと。つまり烏賀陽個人だけを狙い撃ちしている。烏賀陽は前述の弁護士費用、訴訟準備などをすべて一人で負担しなければならないことになります。これではフリー記者としての活動を停止し、訴訟対策に専念しなくてはなりません。みなさん、ワタクシは生活費は一体どうやって稼げばよいのでしょう(笑)。

(2)この5000万円という金額は、応訴するために弁護士を雇うだけでも着手金が219万円かかるというおそるべき額です(そんな貯金あるわけないですがな=笑)。裁判で負ければ、烏賀陽はジャーナリストとしての信用を失い、職業的生命を抹殺されてしまうばかりか、賠償金を払えず、社会的生命をも抹殺されかねない恐れがあります。

どこかで聞いた覚えはありませんか? そう。これは、ジャーナリストの批判を封じるための恫喝を目的とした、消費者金融・武富士がかつて行ったのと同じ手法の、恫喝訴訟と言えるでしょう(武富士訴訟ではジャーナリスト側が勝訴し、逆に武富士を訴えて勝っています)。

http://www.kinyobi.co.jp/takefuji

(3)しかも、訴状をどうひっくり返して読んでも、なぜ5000万円の損害を受けたのかという計算の合理的根拠はまったくどこにも書いてありません。ずさん、というより、相手が払えない(そしてビビる)高額であればそれでいいという額をテキトーに選んだ印象を受けます。

(4)烏賀陽は一貫して「レコード会社の宣伝・営業担当者にはオリコンの数字を操作しようとする良からぬ輩もいる=オリコンは被害者である」という立場を取っているし、文意からもそれは明らかなのに、なぜかオリコンはそれを無視し(あるいは理解できず)烏賀陽の記事が自社の信用を損なったと主張していること。

(5)裁判の証拠書類として、烏賀陽が「アエラ」03年2月3日号に書いたオリコンの記事が添付されていました。

http://ugaya.com/private/music_jpopcolumn18.html

これはオリコンのデータとPOSデータ(サウンドスキャン社)のデータが乖離しているのはなぜか?という疑問を提示したものです。この記事も当時オリコンの小池恒右社長の憤激を買いました(社長直々にお怒りの電話を頂戴しました)ので、烏賀陽がオリコンの「好ましからざる人物」にリストアップされていたことは間違いありません(取材拒否も数回あり)。

(6)オリコンは「オリジナル・コンフィデンス」はじめ多数の出版物を出す出版社でもあります。ですから、もし「ウガヤのいうことはウソだ」というのなら、そこの紙面上で思う存分「ウガヤの言っていることはウソです、なぜなら××」と意見を述べればいい。ぼくもまたどこかの媒体で反論します。これこそが正統な「言論」でありませんか。それこそが正当な出版社のすべきことではありませんか。意見が違うものは高額の恫喝訴訟で黙らせる、というのは民事司法を使った暴力に近い。

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みなさん。ぼくはずぼらなので「運動」とか「闘争」とか「たたかい」とかとは縁遠い人間ですが、この訴訟はいくらなんでもひどすぎる。あまりに露骨な言論妨害だ。言論・表現の自由という基本的人権、フリーランス記者を小馬鹿にしている。

もしこの種の恫喝訴訟がまかり通るようになれば、フリー記者には(いや、あるいは社員記者もできなくなるかも)企業批判はまったくできなくなります。雑誌の求めに応じてコメントひとつしても、5000万円なのですよ。コメントすらできないではありませんか。

そんな時代が来てほしいですか?ぼくはいやです。

これが言論の自由へのテロでなくて何でしょう。民主主義の破壊でなくて何でしょう。これは体を張ってでも阻止せねばなりません。

というわけで、みなさん。長々とすみません。お忙しいところ本当に恐縮ですが、どうかお知恵とお力を貸してください。ご希望の方には訴状そのほか資料をお届けします。

どうか無視しないでください。助けてください。ぼくも2,3日前まではこんな話は(けしからんことに)他人事だと思っていたのです。でも、こんな恐ろしいことが、いつ、どこでみなさんの上に厄災として降りかかるかわからない時代になってきたようです。

長文失礼しました。ご静聴に感謝します。

烏賀陽



(転載以上)
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烏賀陽さんの文章にも書かれているが、自らメディアを発行する出版社であるオリコンが、同じ出版人と互いの権利を認め合いながら議論するのではなく、裁判という手段に出て何を訴えようというのか?
ましてや自分以上もしくは同等に権力を持つものではなく、一フリーランス・ジャーナリストを狙い撃ちするなど、決して許されることではない。そもそもこの手の民事裁判などというものは、立場の弱い者が、より立場の強い者に対して、「他に解決する手段がない」という時に用いられるべき手段であり、音楽業界をある意味で牛耳るオリコンと、組織の属さない一音楽ジャーナリストの関係では、まったくこれに当てはまらない。
(まぁこの辺が、しょせんは電通とべったりのオリコンの本質的な体質というもので、出版人というよりも世論調査機関であり世論誘導機関としての有り体だったりするのだが……)

やはり烏賀陽さんが紹介している「武富士訴訟」は、三宅勝久さんというフリーランス・ジャーナリストが、武富士の消費者金融としての不当な貸付や取り立てについて、極めて丁寧に取材を重ねて批判した記事に対して、武富士が個人(と週刊金曜日)を訴え、三宅さんも反訴して、昨年、勝利が確定した裁判だ。裁判所も、「極めて不当な訴え」と武富士の姿勢を批判している。
消費者金融対する、現在の社会的な厳しい風潮や、不当な金利を制限する法律改正などの一連の流れに一役かった裁判だった。

僕は、こうした大企業による不当な裁判を、絶対に許すわけにはいかないと考えている。
これは、「言論・表現・報道の自由」に対する冒涜であり、民主主義に対する挑発行為だ。

これを読んでくれた方は、ぜひ、こうしたオリコンや大企業の悪事を忘れないでください。
そして、どこかで烏賀陽さんの今後を見る機会があったら、応援してあげてください。

よろしくお願いします。

2006年5月25日 (木)

子どもたちからの復讐


毎日のように、子どもの凶悪犯罪についてのニュースが流れている。

そして、こうしたニュースとともにテレビでは“識者”によって「少年法の厳罰化」が唱えられる。

子どもたちを甘やかせというつもりは毛頭ないが、厳しくしたところで、本質的には解決しない。
なぜなら、子どもたちに「人を殺したら、これまでは5年くらい少年院に行けば済んだけど、これからは20年くらい行かなくちゃいけないかもしれないよ」と言ったところで、人を殺してしまう程のテンションを抑える程の想像力が刺激されるはずがないからだ。

なにしろ、「人を殺してはいけない」「いけないらしい」「何らかの罰はあるのは知ってる」程度の認識はあるのに、それでも人の命を奪おうとしている人間が、厳罰化された刑法を冷静に受け止めて、自分の未来をイメージできるはずがない。そういう想像力の欠如が、犯罪を生み出す大きな一因なのに、イメージをしろと言っても無意味だ。

少年期・思春期に、3年後の自分の未来を明確にイメージできた人が、一体どれくらいいるだろうか? 5年後は? 10年後は? 自分の未来を明確にイメージして、それに沿うような行動をしてこられたと胸を張れる大人なんて、僕の周りには一人もいそうにない。

僕の子どもは、中学3年生と小学6年生なため、ちょうど将来について度々話し合っているのだが、自分の将来に対するイメージが漠然として悩んでいる様子だ。多くの子どもたちが同じように将来に対して不安を抱えている。

そんな子どもたちに、自分の将来を冷静に考えさせ、犯罪と刑罰の重さを冷静に受け止めさせて、犯罪を犯すことを諫める、なんてナンセンスとしか言いようがない。

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僕は、少年法の厳罰化を全否定するつもりはない。
ただし、少年法を厳罰化する前に、刑法全般の厳罰化を論じるべきだと考えている。

そもそも、日本の刑罰は軽すぎるし、問題が多い。
といっても僕は死刑制度廃止論者なので、もっと死刑を増やせというのではない。死刑以外の刑罰を厳罰化することとともに、更正目的施設の充実化、社会復帰機会の拡大化など、ここでは書ききれないので改めて書きたいと思うが、とりあえず、刑法の罰則規定は見直す必要があると考えるし、それに伴って、少年法の改正、更正機関の充実が必要だと考える。

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しかしその前に、社会そのものが子どもの命を守り切れていないことに、大人たちが自覚しなくてはいけないだろう。
子どもたちに奪われる大人の命の数以上に、大人たちによって奪われている子どもたちの命の数の方が比較にならないほど多いことを、大人や社会は認識しているのだろうか?

僕には、未成熟で、自信がなく、無責任な大人たちが、子どもたちに対して漠然と不安を抱え、恐怖感を感じ、「少年法の厳罰化」を唱えているとしか思えない。

僕を含めた大人たちは、今の日本が「子どもの命を軽んじている社会」と考えることから始めるべきだ。マスコミのアンケートなどで「体罰OK」なんて答える親が多くいると聞くが、まさに子どもの命を軽んじている現れだ。

子どもたちが起こす重大な犯罪は、こうした大人社会に対する、子どもたちから復讐に他ならない。

2006年4月 5日 (水)

交差点に放り出された子どもの命

今日、バイク屋の並ぶ昭和通りを横切る青信号をスクーターで渡っているとき、突然信号無視した自転車が目の前を走った。

すぐに気が付いてよけたので、幸い事故を起こすようなことはなかった。

問題は、その自転車が信号無視したことよりも、その自転車の後部に小学校に通う前であろう女の子が乗せられていたことだ。自転車をこいでいるのはたぶん母親だろう。
この母親は、いったいどういうつもりで子どもの命を扱っているのだろうか?

飲酒運転で人命に関わる事故を起こしたドライバーに、殺人罪を適用しよう(もしくはそれと同程度の刑罰の法整備)という議論がある。
殺人罪については議論の余地があるが、感情的には理解できる話だ。

上野近辺の昭和通りの交差点で信号無視するような、自分の子どもの命を粗末にする親の行動は、酒を飲んで人の命を奪うようなドライバーと同罪だと僕は思う。
今回は事故に繋がらなかったが、飲酒運転のドライバーが殺人罪なら、その母親のしている行為はすでに殺人未遂だ。


子どもを作る前に、いや出来てしまってからでも、「命を守る大人の行動=親の責任」について、もっと真剣に考えてほしい。
“育てる覚悟”ができないなら、間違いのない避妊をするなりして、絶対に子どもを作らなければいい。育てる覚悟も持てない、絶対に子どもを作らない手段を選ぶわけでもない、そんな人間は大人ではない。

見た目だけの大人たちが、子どもの命を、あちこちで死に神に差し出している。

2006年2月28日 (火)

敵に塩

敵である自民党から、塩どころか、調味料から食材まですべて贈られて、それでもなお料理の出来ない民主党。

まぁ、あまり期待したこともない政党なので、どうでもいいと言えばどうでもいいが、あまりにも情けない。

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そういえば、いわゆる「堀江送金メール騒動」では、「フリーランスの記者」や「フリーライター」という言葉が悪いイメージでキーワードになっている。
僕は記者ではないが、一応フリー・ライターでもある。そして、周囲にはフリーランスの記者がたくさんいる。
今日の記者会見でも、フリーランスの記者から「フリーランスの人間が迷惑している」旨の意見が出ていたが、まったくその通りだ。

昔から、テレビドラマや小説で出てくる「フリーの週刊誌記者」というと、柄が悪くいい加減な記事を書く悪者と相場が決まっている。
こういうイメージがあるのは、やはり「フリーランスの記者」の側にも問題があるのだが、業界的にそういう自覚はほどんどない。

とはいえ、やっぱり今回のような騒動があると、フリーランスの人間にとっては迷惑な話。
自分にはまったく関係ない話だと、高をくくっていられない話になってきてしまった。
このことについては改めて考えたいと思う。

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正直言って、永田などという品性も知性もない議員など辞めさせれば世の中のためになると以前から思っていた。こう思う人も多かったのではないだろうか?
騒動が大きく前にさっさと議員辞職してもらえばよかったのに、民主党の対応があまりにも悪すぎた。
少なくとも今の民主党執行部は、2ちゃんなんかで見かける“厨房”レベルの集団であることが、この騒動でよく分かった。

これでは自民党に舐められても仕方ない。
またも小泉純一郎の一人勝ちだ。
敵に塩を送ってほくそ笑んでる顔が目に浮かぶ。

2005年12月 7日 (水)

アメリカと日本の戦争が始まって、ジョン・レノンが死んだ日

明日、12月8日は、1941年(昭和16年)に日本がハワイの真珠湾を攻撃し、アメリカと日本における太平洋戦争が開戦した日(ハワイ現地時間7日)だ。

そして、1980年(昭和55年)、ジョン・レノンが狂信的なアメリカ人の銃弾によって、命を絶たれた日だ。

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IMAGINE ※かなり勝手に意訳しています

Imagine there's no heaven
想像してごらん、天国なんてないってことを
It's easy if you try
簡単なことだろ
No hell below us
足下に地獄なんてないんだ
Above us only sky
頭の上にあるのは青空だけさ
Imagine all the people living for today...
想像してごらん、誰もが今を一所懸命生きているって……


Imagine there's no countries
想像してごらん、国境なんてないってことを
It isn't hard to do
それって、そんな難しいことじゃないよ
Nothing to kill or die for
「お国のために」なんて殺したり死ぬことなんてないんだ
No religion too
宗教だっていらないさ
Imagine all the people living life in peace...
想像してごらん、誰もが平和な人生を送ることができるって……


Imagine no possesions
想像してごらん、財産なんて必要ないってことを
I wonder if you can
君にそれができるかな
No need for greed or hunger
欲望も空腹も必要ないんだ
A brotherhood of man
人はみな家族のように愛し合えるさ
Imagine all the people sharing all the world...
想像してごらん、誰もが世界のすべてを分かち合っているんだって……


You may say I'm a dreamer
君は僕を夢想家だっていうかもしれない
but I'm not the only one
でも、僕ひとりじゃないはずさ
I hope some day you'll join us
いつか、君も僕たちといっしょに考えてほしいな
and the world will live as one
そうやって世界がひとつになることを、僕は願っているんだ

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今日はあまり多くを語る気になれないが、ぜひ、いま一度、ジョン・レノンが「イマジン」に込めたメッセージを、できるだけ多くの人に考えて欲しい。

僕の敬愛する忌野清志郎は、こう言っている。

「この国の憲法第9条はまるでジョン・レノンの考えみたいじゃないか? 戦争を放棄して世界の平和のためにがんばるって言ってるんだぜ。俺達はジョン・レノンみたいじゃないか。戦争はやめよう。平和に生きよう。そしてみんな平等に暮らそう。きっと幸せになれるよ」

2005年11月30日 (水)

優先すべきは、過去よりも未来


小泉純一郎の政治センスは、内政=国民を騙くらかす術=は長けているが、外交=よその国=にはアメリカにシッポを振ること以外に術がない、というところか?

僕は小泉純一郎が4年前に総理大臣となり、靖国神社の参拝を公言したとき、「たぶん本当に靖国神社に参拝するだろうが、そのかわり無宗教の国立追悼施設を建てる可能性はある」と何となく感じていた。実際に、首相就任当初は今ほど消極的ではなかった印象がある。
ところが、今ではすっかりやる気無しだ。僕の大きな読み違えだった。

自民党(というより旧橋本派)と支援組織の関係を壊し続ける小泉純一郎も、財界や遺族会など、自分が直接関わる数少ない支援団体との関係は、まったく解消する気がないようだ。

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今の日本の繁栄は靖国神社で祀られている人たちのお陰だから、靖国に変わるような追悼施設は必要がない、という人がいる。

たしかに、「お国のために」と騙されて亡くなっていった人たちの犠牲は尊いものだ。しかし、今の日本の繁栄は、靖国神社に祀られている人たちだけのお陰ではない。有史以来、多くの日本人の努力のなすべきものだ。
仮に満州事変〜太平洋戦争に限ったとしても、戦場に駆り出された人たちだけでなく、多くの日本人や世界中の人たちの犠牲の上に、今の日本の繁栄があるわけだ。「靖国神社に祀られたい」と思って亡くなった人と、そんなこと思わずに戦場にかり出された人、戦場に行かず空襲に会い家族すべてが犠牲になり靖国神社どころかその存在さえ忘れられてしまっている人たち、そういういろんな人たちをすべて「犠牲者」とするなら、それら全犠牲者を、どうやって追悼するのか?

そうした施設の存在と、それに対する国民の追悼の意志が盛り上がってこそ、日本が本当に平和を意識した国家ということになるのだろう。少なくとも政治家は、戦争の犠牲者を区別すべきではない。
こんなことは、いまさら大上段に構えて言うまでもないこと。

第一、「大東亜戦争」を屁理屈で正当化し、その是非は別にして国家として受け入れている東京裁判を否定しているような宗教施設が、国民全体に支持されるような追悼施設になりようがない。仮にそうなってしまうようなら、その時の日本は、まったく冷静な判断の出来ない絶望的な状況ということだ。

政教分離という憲法の立場も鑑みても、国民全体に支持されるような、国立で無宗教の戦争犠牲者追悼施設の建立に抵抗するなんて、どんな道理をもってしても正当化されるものではないだろう。

だったら、靖国神社への首相参拝問題は別にして、さっさと作ってしまえばいいのだ。

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いつも思うのは、なぜそれほど揉めたがるのか、ということ。

「いまの日本があるのは……」と言うが、少なくとも政治家は、死んでしまった人よりも、いま生きている人たちのため、これから生まれ育っていく子どもたちのため、それを優先に考えるべきだ。それが「政治の建前」である。
もちろん、亡くなった人や祖先を尊ぶ気持ちは大切に決まっている。
しかし、過去にこだわりすぎて、日本人同士がいつまでもいがみ合ったり、周辺諸国と将来に禍根を残すような軋轢を起こしたり、まったくナンセンスとしか言いようがない。

国立の戦没者追悼施設を建立することに反対するような政治家こそ、まさに「抵抗勢力」とレッテルを貼られてしかるべきではないだろうか。

2005年10月16日 (日)

悪ふざけが過ぎないか?


「日刊スポーツ」の14日の記事にこんな見出しが踊った。

ゆかりタンがイチバ〜ン外国人記者萌え〜

その昔2ちゃんにはまっていた僕も、さすがにちょっと引く。
昨年だったか、「電車男」の映画化が決まったときに、「日刊スポーツ」の芸能面にデカデカと「『電車男』映画化キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!」と見出しを打ったときにも少し引いたが、この時は呆れながらも少し笑えた。
しかし、今回は少しも笑えない。

まず、記事の内容が、芸能・文化記事ではなく政治記事だということがある。
「萌え〜」なんて、言葉遊びだとしても、まともなメディアが扱う言葉じゃないだろう。
それに、言葉遊びのくせに語呂が悪すぎる。言葉遊びは語呂のリズム感が命だ。「萌え〜」を使いたかっただけなのが見え見えである。

もともとスポーツ新聞の見出しは、言葉遊びであふれているし、それが面白かったりする。
軍事用語などを平気で使うセンスは嫌いだが、言葉遊びそのものは、若い頃、コピーライティングの参考になった。
しかしながら、この見出しは下品すぎると感じる。

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いま、メディアでは「小泉劇場」という名を借りて、名物(迷物?)新人議員の一挙手一投足をマスメディアが取り上げ続けている。
まったく不勉強極まりない新人議員には呆れるばかりだが、持ち上げたり貶したりしながら、なんとかニュースになるように一所懸命仕掛けているぶら下がりの記者たちの態度には、もっと呆れ返る。

「小泉劇場」というが、投票日以降に「小泉劇場」とされているものは、小泉純一郎の軽薄さに責任を押しつけているだけで、すべてマスメディアが勝手に騒いでいるだけだ。
ワイドショーレベルのテレビならいざ知らず、新聞メディアまでこの調子である。

そんなことよりも、もっと報道すべきことがあるだろう。

新人議員の失言や、その稚拙な考え方を責めるなら、そんな人間を選んだ自民党とその幹事長をもっと責めるべきだ。そもそも、いまの選挙制度に欠陥があるわけで、そのことを訴えないでくだらない話題作りに躍起な姿勢には、嫌悪感すら覚える。
もちろん一部にはそうした報道もあるが、本当に問題意識を感じているなら、もっとマスコミが世論を形成するように仕掛けるべきであろう。

第一この国会では、共謀罪などの成立などが確実視されており、それについてほとんどマスコミが触れようとしないのは問題がありすぎる。権力のチェック機関としてのメディアの役割が機能していないと言える。
これだからホリエモン如きに「新聞なんていらない」と言われてしまうのだ。

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といいつつ、実は僕、個人的な会話の中では、マスコミで騒がれる前から「ユカリタソ」などと使っていたりもする。しかし、よほど親しい人以外の前ではそんなことは言わない。それが「たしなみ」というものだ。

10月11日のブログでも書いたが、こうした身内だけの言葉を公然と使うのは、コミュニケーション能力とモラルが低下しているからだと思う。

モラルの低下は、ジャーナリズムの自殺行為である。ジャーナリズムに関わる人間は、自助努力によって、こうしたモラルの低下を真剣に食い止めなければならない。
僕はジャーナリストではないが、マスコミの端っこにいる人間として、最近よくそう思う。

いまはちょうど「新聞週間」であるが、そのことをテーマにした10月15日付けの「毎日新聞」の『余録』欄では、「もし、政府のない社会と、新聞のない社会と、どちらを選ぶかと問われれば、 私は躊躇なく政府のない社会の方を選ぶ」というアメリカ第3代大統領のトーマス・ジェファーソンが残した言葉を紹介していた。

「新聞のない社会」は、もうそこまで来ているのかも知れない。

2005年10月11日 (火)

伝わらない言葉

誰にでも、自分だけ(あるいは自分の周囲だけ)が使っている言葉があるだろう。

正式な名称や通称があるにもかかわらず、そうしたものよりも勝手に生みだした言葉の方がしっくりとくることがある。
僕にもいくつかあり、僕の中ではすっかり定着している。

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カチャカチャ……テレビなど電化製品(主にAV機器)のリモ
        コンのこと。
シュッシュッ……喘息の発作時に使うスプレータイプの吸入器
鼻くそ取り………ラバークリーナーのこと。印刷用版下や、製
        図などを作るときに、ノリの汚れなどを取る
        特殊なゴム。(写真参照)

Cb051010
真ん中のものが“鼻くそ取り”
こと「ラバークリーナー」。数年前までは、
デザイナーや編集者の必携アイテムだった。


擬音語や子どもっぽい言葉が多いが、まぁ自分のまわりの人間にしか言わないし、周囲がそれを理解してくれればいいので、これからも勝手な言葉を生み出すことがあるだろう。
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ところで、国立国語研究所が、分かりづらいカタカナ用語(外来語)を日本語に言い換えるように推進している。その「言い換え語」の第4回中間提案が発表された(詳しくは→ここをクリック←)。

仕事をしていると、やたらとカタカナ語を使われることがあるし、相手にあわせて使わなくてはいけない局面がある。とくに広告関係の仕事や外資系の出版社の仕事だと自然とそうなる。しかし、カタカナ語を当たり前のように使う風潮には、正直言って辟易としている。
カタカナ語のすべてが悪いなどと全否定するつもりは毛頭ないが、日本語で表現できるなら(そしてその方が伝わりやすければ)日本語の方がいい。

自分の周囲だけで使う言葉と、不特定多数に向けて使う言葉は使い分けられるようにしなければ、「ギャル語」を使って平気で大人に話す子どものモラル感と、何ら変わりがない。コミュニケーション能力が不足しているということだ。
オタク小僧たちが嫌われるのもこうしたことと通じるものがあるはずだが、本来嫌われる対象だった彼らが、昨今「アキバ系」などと言い換えて市民権を得つつあるのを見ていると、一般的な大人たちのモラル感が低下しつつあるのかも知れない。

とりあえず僕の場合、仕事の時だけでも、必要以上にカタカナ語(外来語)にしないように心掛けなければいけないと思っている。

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今回の発表によると、フリーランスは「自由契約」だそうだ。そうするとフリーランサーは「自由契約者」といったところか。
もう少し誇り高い感情を込めてフリーランスと使ってきたが、なにやら平板にされた気がする。

2005年9月28日 (水)

甘ったれた教師たち

先日、体罰のついて書いたばかりだが、昨日今日と、数十人の教師たちがパネリストとなって教育現場の現状を訴えるテレビ番組が続いた。

昨日がTBS、今日がフジテレビの番組だったが、どちらの番組も内容はたいして変わらず、過保護なバカ親によって教師たちが苦労させられている話や、無能な管理職や現状が分かっていない教育行政によって教育現場に混乱が起こっているという話を、パネリストとなった教師たちが訴えた番組構成となっていた。

どちらの番組でもテーマの一つとして出てきたのは「“愛のムチ”という『体罰』は是か非か」だった。

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記憶に残っている限り、「体罰肯定派」の主張は以下のようなものだった。


○生徒は教師が体罰しないことを分かっているために、教師たちを舐めている
○(男子なら)ダラダラと説教をされるより、一発殴られた方が生徒にとってもありがたいはず
○体罰を否定するようになったから、教育現場の崩壊が起こった(←こんな考え方は、まったく根拠がないもので論外)
○「暴力」はいけないが、少しぐらいの“愛のムチ”まで否定されては、指導なんてできない
○親にも叩かれたことないような子どもだからこそ、教師の体罰が必要だ
○子どもたちには大人の怖さを分からせておく必要がある
○体罰がなければ教師に威厳や権威が保てない


要するに、どれもこれも、努力を怠っている教師のたわいもない「言い訳」ばかりで呆れる。

このアフォ教師たちは、生徒に舐められないような努力をどれだけしたというのだろうか?
体罰をしなければ生徒に尊敬されないような教師は、はじめから教師としての資格がない。

もちろん親・保護者などの理解も必要だし、それに伴う家庭での「教育」も必要だろう。無理解で馬鹿な親が多くなっているなかで、教師たちが苦労していることは、教育現場を取材している人間としてよくわかる。僕自身、「親・大人としての“力”の低下が、子ども社会に悪影響を与えている」という立場で取材しているのだ。「モンスター・ペアレンツ」という馬鹿な大人の存在も否定しない。
しかし、だからといって、教師が「体罰」という安易な手段にたよることを認めさせるわけにはいかない。
どうしても殴りたいというなら、せめてまず親を説得しろと言いたい。親と教師の間で、十分な信頼関係を築いて見せろと言いたい。馬鹿な親のことを嘆くが、親にすら自分の意見を理解させることができない教師が、その親の子どもである生徒に自分のことを理解させられるはずがないだろう。

そうした努力を怠っている「体罰肯定派」の教師は、僕が「お前には『なんで体罰が駄目なのか』ということを言っても分からないから」とぶん殴っても、それに対して“愛のムチ”として受け取ってくれるのだろうか? ねっちりと文句を言うより、一発殴ってあげた方が有り難いというのだろうか?

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テレビに出ている教師たちから見てとれるのは、甘ったれた教師たちの実態だった。
当然ながらまともな教師たちの意見もあったが、胸くそ悪い出来損ないの教師たちばかりが目立つ編集になっていたのが残念だ。しかも番組全体として、アフォな教師たちに同情的な構成になっていたのも腹立たしい。

こうした甘ったれた教師たちの実態を見ていると、うちの子どもたちの学校で「体罰」をしているらしい教師に、すごく興味が湧いてくる。やはり努力を怠ったがための“暴力”だったのか、それとも止むに止まれずの“愛のムチ”だったのか……

とりあえず、学校に預けている親の身としては、昨日今日テレビに出ていたアフォ教師のレベルじゃないことを願うのみである。


【追記】
余談だが、20年ほど前、テレビ朝日の「ニュースステーション」で、教師たちに社会の常識と思えるようなことをインタビューして答えられない教師たちをあざけ笑うコーナーがあった。TBSの情報番組「噂の東京マガジン」の人気コーナー『やってTRY!』の教師版のようなものだった。「総理大臣のフルネームを漢字で書いてください」程度の問題を答えられない教師の多さに呆れながら見ていた記憶がある。
今日の番組では「バカ親」を笑っていたが、ぜひ「バカ教師」を笑う番組も作ってもらいたい。

2005年9月18日 (日)

板橋って、大丈夫なのか?

忙しさも少しだけ落ち着いてきた。
大きな仕事が二つ同時に進んでいたのだが、一つが入稿になったため、もう一つの仕事に集中できる環境になったおかげで、少しばかり余裕ができた。

このブログもすっかり寂れてしまった。

この間めちゃめちゃ忙しかったのは、仕事の忙しさだけでなく、プライベートでも用事が多かったからだ。何といっても、これまで関東の僻地で暮らしていた子どもたちが、東京・板橋に引っ越してきたことが大きい。しかも、夏休みだ。

月に数日は泊まりの仕事がある母親(つまり僕の元結婚相手)と、それぞれ交代で子どもの面倒を見ることになったのだが、夏休みに子どもたちっていうのは、大きくなったとはいえ半端なく手が掛かる。久しぶりに親らしいことをしたくらいで、音を上げるわけにはいかないが、それにしても手が掛かった……。

まぁそんな生活も、子どもたちは2学期が始まり、仕事も少し片づき始めたために、なんとか落ち着いてきた。

*  *  *  *  *  *  *

さて、そんなこんなで転校となった2人の子ども。
板橋区の公立小学校と公立中学校にそれぞれ入学し、少しずつ慣れてきはじめたようである。
子どもたちから少しずつ学校の様子を知らされるようになってきた。

で、子どもたちからの話を聞くにつれ、どうやら子どもたちの転校した学校は、少しばかり疑問符の付くような学校のようである。


まずは、娘の通うS中学校。

校則がいろいろとあるらしいのだが、理不尽なものが多いようだ。

例えば、冬の制服の着こなし。
なんだかごちゃごちゃと決まりがあって面倒なのだが、冬になってセーターを着るとき、その下にベストを着たままにしなければならないらしい。
「長袖のシャツ」→その上に→「ベスト」→その上に→「セーター」
という順番で着ることが決まっているらしく、セーターを着るためにベストを脱ぐことは許されないとのこと。

まさか、子どもの聞き間違えだろうと思ったのだが、間違えではないらしい。
それどころか、セーターの下にベストを着ない生徒が多いらしく、今日、学年集会があって、「セーターの下にベストを着ること」の徹底指導があったという。

おいおい、そんな格好悪い着こなし、俺は親として許したくないよ(爆笑)。
生徒が嫌がるの当たり前、っていうか、そんな着こなしを覚えさせる指導なんておかしいだろ?

他にもちんぷんかんぷんな校則が多いようだ。

学校には学校なりの言い分があるのだろうが、(子どもの言っているとおりの校則ならば)馬鹿馬鹿しい校則が多い。それをそのままにしている教師たちも頭が悪そうで、すごく不安だ。


次ぎに、息子の通うH小学校。

今日、子どもに聞いたのだが、どうやら別のクラスの担任の教師に、早くも叩かれたらしい。
軽く足を蹴られた後に、頬を一発平手打ち。

言い渋る息子から聞いたところによると、息子が運動会の騎馬戦の練習中に、危険なことをしてしまったために、「ふざけるな!」と蹴りを入れられ、そのまま返事をしなかったために「返事はどうした」といって平手をくらったらしい。

僕は、「どんなことがあっても、親も教師も、子どもに体罰をすべきではない」という考え方だ。

といっても、僕自身も、子どもの時はかなり悪ガキだったために、教師にはよく殴られた。小学校3年以降、中学校、高校と、たぶん毎年、何だかんだと殴られた。
しかも、僕が通っていた学校は、その当時から「子どもの権利を尊重しよう」なんて高らかにうたっていた私立付属校で、そんな中でしょっちゅう殴られていた僕は、かなり悪ガキだった。
で、僕自身は、教師に殴られたことに対して、恨みなんて全くもっていない。
「殴ってくれた先生の方がいい先生だった」なんてきれい事も言うつもりは更々ないが、毎日兄貴に木刀で殴られて育った僕としては、正直、教師に殴られても怖くなかったし、たいして痛くもなかったので、別にどうとも思っていない。

だから、正直言って、自分の子どもが一発や二発殴られても、それほど問題にしたくない。

ただし、大人になって、自分自身が親になり、教育現場を取材する立場になった今、僕の考えは、前述の通り「どんなことがあっても、親も教師も、子どもに体罰をすべきではない」である。

理由はいろいろとあるので、必要があればおいおい書いていくが、簡単に言ってしまえば「殴ったところで意味がない」ことと、「大人が子どもを殴るとき、その大人は少なからずストレス解消している」ことが主な理由だ。
日本テレビの『女王の教室』なんてドラマが高視聴率を稼いだが、あんなのは絶対に認めてはならない教育論であることは言うまでもない。

さて、息子の小学校である。

どうやら、うちの子どもだけでなく、他の生徒が別の先生に頭を殴られていたこともあったようだ。
うちの子どもが転校してまだ20日間のうちに、少なくとも2回、2人の教師が生徒に「体罰」を与えたことになる。

僕は、一度や二度のことで、ましてその真相も見えない中で、ヒステリックな行動をするつもりはない。だからといって、学校の中で体罰が日常茶飯事なのだとしたら、やはりそれは見過ごすことができない。

*  *  *  *  *  *  *

うちの子どもたちが言っていることがどれだけ正確なのか、また学校の実態がどうなっているのか、近いうちに時間を作って調べて見ようと思う。
転校前に板橋区の公立学校について少しだけ調べたが、その段階から板橋の教育行政には、問題がありそう雰囲気があった。その不安が的中しているのか、それとも思い過ごしなのか……

少し落ち着いた、とはいっても、まだまだ大きな仕事が進行中で、ゆっくりできるという状況ではない。今は、できるだけ早く仕事を片づけて、板橋区の教育現場の実態をじっくり調べてみたい。
もちろん、問題があれば、学校、保護者会、教育委員会などへも、直接アプローチもするつもりだ。

2005年6月25日 (土)

実は二児の父親だったりする。

先週「スター・ウォーズ」の試写会を観てから、仕事が忙しくなったこともあるけど、何となく他の映画を観る気がしなくて、試写会も2つぶっ飛ばしてしまった。
何となく、ブログに書くことも見つけられず、緊張感のない1週間だった。

で、今日、下の子供から電話がかかってきて、「まこと、試写会行ったの? いいなぁ〜。面白かった?」などと矢継ぎ早に質問責め。彼とは近いうちに日本語吹替版で観に行く約束になっているのだが、公開を前に(と言っても主要映画館では今日から先々行で公開されているが)興奮し始めている様子。

考えてみると、彼は小学校5年生の10歳。
僕が初めてスター・ウォーズに出合った歳とまったく同じだ。
すでに最新情報などは、どこから仕入れてくるのか、僕よりも彼のほうが詳しかったりする。
僕が10歳の時にワクワクした気持ちを、きっと今の彼も感じているんだろう。

彼も、そして彼の3つ上の姉も、けっこう映画が好きなようで、たまに一緒に遊ぶと映画に連れていくようにせがまれる。
僕がかつて映画を通して多くの感動と出合えたように、別に映画でなくてもいいから、彼らにもたくさんの感動と出合ってほしい。

そんなことをしみじみと思う、親父モードの今日でした。

2005年5月23日 (月)

今日の風太くん

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いまや、連日、テレビのニュース番組では、二本足で立ち上がるレッサーパンダの話題で盛り上がっている。なんと、新聞までもカラー面で取りあげる始末。 昔からカルガモの親子が道路を渡ったのどうのと大騒ぎしていたが、近年のこの手の騒ぎには辟易させられる。

動物ならまだしも、動物と人間を同じテンションで扱って騒ぐアフォなマスコミには怒りすら憶える。
田中耕一さんがノーベル化学賞を受賞した時も、「今日の田中さん」として、レッサーパンダを写メで撮る一般人と同じテンションで、プライベートも無視して報道する。北朝鮮に拉致されて帰国した被害者の方々に対しても、「今日の拉致被害者」的なノリで喜々として報道する。
「今日のホリエモン」ならば多少の報道性もあったが、「今日の田中さん」的報道は、まったくもって報道に携わる人間としてのセンスを疑う。

本日の夕方のフジテレビのニュースでも、「今日の風太くん」は大きく扱われた。こんなつまらない情報を重要ニュース扱いで報道し続けるから、ホリエモンごときに舐められきって大損したのだという自覚なんて、きっとないのだろう。「日本人総白痴化計画」を実行しているフジ産経グループは、いつのまにか自らの社員も白痴化させてしまったようだ。

どうせなら早いところ潰れてしまってくれた方が世のため人のためだと思うが、どこのマスコミも皆同じようなものなので、全部潰れてしまっても困るから、マスコミ全体で自浄作用が働いてくれることを願うのみだ。


ちなみに、今回は“トップ扱い”として「今日の猫さんたち」を載せてみた。

2005年5月 2日 (月)

メーデーと労働組合と春の空

昨日、5月1日はメーデーだった。
数年ぶりにメーデーに参加して、フリーランスとはいえ、自分が労働者として社会に存在していることを意識した。

*  *  *  *  *  *  *

大企業による信じられないような事件・事故が起きている。

卵や牛肉など食品偽装事件、大病院の医療ミス隠蔽事件、自動車会社のリコール隠蔽事件、航空旅客機の相次ぐミス、そして先日のJR西日本・福地山線脱線事故。
これらはすべて人の命に関わるような事故・事件だが、この他にも人命に直接関わるというほどではないにしろ、例えば銀行の顧客情報流出問題など、大企業によってもたらされた事故・事件が連日マスコミに登場している。そのマスコミでさえ、自民党の圧力によるNHK番組改編問題や、朝日新聞社の武富士による巨額資金提供など、様々な問題を抱えていることが噴出している。

この中には、以前から付き合いがあって本社の事情などをよく知っている企業や、事件を起こした企業のその後の取り組みについて取材して記事を書いたこともあるが、僕からみて事件後も心から反省しているとは思えない企業もあり、これからも注目していかなければいけないと思っている。

こうした事故や事件を起こすのは、その大企業で働いていた労働者・従業員たちである。彼らの起こした責任は追及しなければならないが、それ以上にその背景には、企業の経営陣による誤った企業運営があるはずだ。それと同時に、大企業の多くには労働組合が存在している。

こうした事件を起こした企業の労組は、いったい何をしていたんだろうか?

すでに、人権無視とも思える「日勤教育」なる再教育プログラムが、JR西日本の従業員たちに過度のプレッシャーを与え、それが今回の事故の遠因になっているのではないかという指摘が、マスコミの中でも話題になっている。
そうした過度の「従業員教育」は、労働組合が「労働者の人権を守り、労働者の地位・向上を図る」といった労組の基本的立場を発揮していれば、もっと早い段階で是正されていた可能性がある(もっとも、「日勤教育」そのものが、労組の分裂の歴史と大きく関わっているという背景もある)。

また、過密ダイヤについても、「安全な職場づくり」「安全なサービス提供」という80年代以降の連合系労組がしきりと重点課題として取りあげていた目標を、きちんと実践していれば、労組がJRに過密ダイヤの是正を要求してしかるべきではなかったのだろうか?

いずれにしても、今回の脱線事故だけでも、そこで働く従業員・労働者の代表として機能すべき労組が、健全に機能していなかったと思われる問題点が存在している。
その原点が「労資協調路線」以降の労組の弱体化だ。これは、某大手食品メーカーの牛肉偽装事件や、某航空会社の相次ぐ整備トラブルなどでも言えることである。

僕たちは働いている以上、労働者だ。
その労働者は、一人ひとりでは実現できないことが多い。だからこそ労組がある。その労組は、自分たちの権利を主張するだけの存在ではなく、結果として消費者や顧客の安全を守るために機能しなくてはいけない。
少なくとも、これからの労働組合は、企業の言いなりになるのではなく、「自分たちも消費者と同じ立場である」という観点から、自分が働く企業をチェックする必要がある。
僕自身、普段関わっている仕事について、もっと意識を高く持つ必要があるのかも知れない。

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毎年のお祭り行事のようになったメーデーだが、年々、その注目度は低くなっている。
ニートのように、労組どころか企業にすら属さない社会人も増えている。
そうした見えない要求や聞こえない声は、どこへ発散されているのだろうか?

そういえば、久しぶりのメーデー参加だったが、昔から5月1日はなぜか天気がいいような気がする。

メーデー終了後、知人たちと恵比寿で合流し、昼間の2時過ぎから夜遅くまで酒を飲んだ。
久しぶりに酔っぱらったが、最近は酔うとなぜか気分が滅入るようになった。憂鬱な気分のまま、とぼとぼと上野の街を歩いていた。上野の夜空はあまり美しいものではなく、より憂鬱にさせられる。

今日も晴れている。
天気のいい春の空は、見ているだけで気分がいい。

2005年4月28日 (木)

日本人は本当に並ぶのが好きだなぁ〜

僕は並ぶのが大嫌い。

うまいものを食べるのは大好きだけど、どんなにうまいと評判のお店でも、並んで食べることはまずしない。例えば1時間並んで食べるくらいなら、それだけ働いて稼いで、その分高い店にいってよりうまいものを食べる(値段が安いものより高いものの方がうまいかどうかは別問題)。
若い頃、青山のハーゲンダッツに行列を作っている人たちを眺めながら、たかがハーゲンダッツを食べることに2時間も並んでしまう精神的な貧しさに直面し、「日本人はこの国が社会主義になって配給制度を実施しても、きっと成功するだろう」と確信していた(笑)。


今日、映画『female』(5月14日公開/http://www.female-movie.com/)の試写会を観に京橋まで行ったのだが、なんと会場が満席となってしまい入れなかったので、「まぁギリギリに行った俺が悪いか」と諦めて、仕方なく次の予定までの時間を潰すことにした。

とりあえず、銀行に行ってお金をおろそうと京橋の交差点にある三井住友銀行に行くと、入口を入る前からそれとわかるほどの大行列。ゴールデンウィーク前の週末なので当然なのだが、どうやら今日は僕の行く手を大人数が待ち構えているようだ。
「並ぶの嫌だな〜」と思ったのだが、京橋の交差点といえば、am/pmが道路を挟んで2軒並んでいる。am/pmのATMは三井住友直営で、手数料は三井住友銀行にあるATMと同じ料金。「ひょっとして、am/pmのATMも行列してるのかな?」と店内をのぞいてみると、ATMの前には誰もいない。「こりゃしめしめ」とam/pmのATMでお金をおろし、銀行に戻って通帳記帳専用機で通帳に記帳をすませた。この間、およそ3〜5分。もし並んでいたら、まだまだ5人分くらいしか前に進んでいないだろう。
ついでに、もう一つのam/pmものぞいてみたが、やはり誰も並んでいない。

なんで?
あそこに並んでいる人たちは、「並ばない努力」をするつもりはないのかな? それともよほど暇なのか? 仕事をさぼりたいサラリーマンやOLばかりなのか? 不思議な気持ちでたまらない。

その後、銀行の対面にあるタリーズ・カフェでお茶を飲んでたら、僕がお金をおろす前に並んでいた制服のお姉さん(って僕より年下だろうけど)が、1時間近く経って銀行から出て来た。
こんな無駄な時間の使い方って、僕にはできない。
ま、俺もただお茶飲みながら本読んでいただけだから、たいした時間の使い方してないかも知れないけど……。


ということで、残念ながら『female』は観ることができませんでしたが、今週は3本の試写を観てきたので、近いうちにその感想文を、femaleにちなんで女優にスポットをあてて書いてみたいと思います。
ではでは。