b.世相徒然

ちょいとご報告

私事ですが……
4月14日に母が他界しました。

 

4年前、反対したにも関わらず父が強引に埼玉北部に引っ越すと決めて、それについて行ってしまったのですが、その父は1年経たずに亡くなり、それからしばらく一人暮らしをしていました。
昨年の秋頃、体力の低下が著しくなり、いろいろと不安を感じることもあったので、再び東京に引っ越してくるように言ったところ、今年の1月に渋谷区に部屋が見つかって、将来的には兄貴と同居することを視野に入れて移転してきました。
そして、引っ越しの準備するために埼玉の部屋に行ってみて、そこで僕は母が認知症の入り口に来ていることを確信しました。

渋谷に来てからは、すぐに地域包括センターのケアマネージャーさんやヘルパーさんの支援を受け、健康に関しても信頼できる医者と相談し、何とか上手く生活できる体制を作っていこうと思っていたのですが……

正直、「間に合わなかったかぁ」というのが、率直な気持ちです。

間に合わなかったというのは、いろんな意味で感じています。

最終的に脳の検査をする直前だったので、脳の萎縮などハッキリと認知症があったかは分かりません。本当は先月に脳の精密検査を受ける予定だったのですが、本人がまだ認知症と向き合う覚悟が出来ていなかったので、「本人の覚悟のために、もう一か月使おう」と医師とも相談したため、今月の末にでもと実施する予定でした。
そもそも、一人暮らしが上手くできなくなているということに、もっと早く気がついてあげられたら、というのもあります。
亡くなった14日は、ケアマネージャーさんとヘルパーさんと面談して、これまでの2か月半を見た上で、さらに生活支援のメニューを大幅に増やす予定だったのですが、僕が熱を出してしまい、風邪をうつさないように面談を延期してしまったのでした。本人もようやく前向きに認知症を捉え始めていた矢先だったので、生活支援を充実させれば、もっと長く穏やかに生きることができたかもしれません。

3週間ほど前から、母は浅草に行きたいと言っていました。引っ越してから髪を切ってなかったので、生まれ育った向島で髪を切り、浅草のお気に入りの店で髪留めを買い、神田の好きな寿司屋に行くのを楽しみにしていました。ところが、一人で来ようとしたのに、電車に一人で乗ると迷ってしまうという事を何度か失敗し、いよいよ電車で行くのは諦めて、僕の車で行く覚悟をし、今週にでも連れて行こうと思っていました。この3週間、会えば浅草の話をして楽しみにしていたのですが、それも間に合いませんでした。母が亡くなった後、風呂場に髪の毛の染め粉がありました。もしかしたら、髪を染めてオシャレしたかったのかもしれません。

そもそも、僕が14日に行ければ、母が亡くなる事もなかったかもしれません。3月から一人で風呂に入ると、ウトウトして長湯をしてしまい湯当たりをしてしまうという事を繰り返していて、この数週間は、僕がにいる時だけ入ってもらい、ウトウトしないように数分おきに声かけしながら入浴していました。そして、今月からは、ケアセンターやデイサービスの入浴支援を受けようとしていたのです。
ところが、14日の夜、一人で風呂に入り、理由は分かりませんがそこで心臓発作を起こし、そのまま亡くなってしまいました。警察の監察医務員の所見を合わせた僕の想像ですが、浴槽で寝てしまい、そのまま気がつかないまま心臓発作を起こして、苦しむ事もなく亡くなったと思われます。
翌朝、ヘルパーさんが母を見つけてくれました。

たしかに持病もありますし、認知症の入り口にはきていましたが、いずれも今すぐ命に別状あるものではなかったので、そういう意味では家族にとっても突然の別れでした。

 

昭和10年8月19日に、東京都墨田区で生まれました。
祖父と祖母には、母の前に3人子供がいたのですが、いずれもすぐに死んだため、「大将のように、強く生きて欲しい」と「將子」と名付けられました。そのお陰か、70歳頃まではほとんど医者要らずの人でした。
小学校時代を戦火で過ごし、戦後民主主義に直撃し、自分でバイトをしながら大学まで行き、演劇を好きになり、ある劇団で舞台に立って、僕はお腹にいる頃まで何だかんだと舞台に出ていたそうです。戦後から政治運動、女性運動で熱心に活動し、それは晩年まで続けていました。バブル期には大学に行き直したり、若い頃からやっていた日本舞踊を本格的に修行し直したりし、晩年は借金を抱えた親父に付き合って結構苦労していたと思いますが、それでも父の死後も、部屋に親父の写真を何枚も飾って過ごすくらい、親父の事を好きでい続けた人生だったと思います。
享年79歳でした。

 

我が家は無宗教なので葬式は行わず、すでに荼毘に付して近親者だけで見送りました。
孫たちからの手紙や、浅草の櫛屋さんで買った髪留め、神田の寿司屋で握ってもらった寿司、読んでいる途中だった井上ひさしの中編短編全集などを棺にいれて、持って行ってもらいました。

僕自身は、かなり以前から家族の死に直面しても平常心でいるように心がけているので落ち着いているつもりですが、それでも「間に合わなかったかぁ……」という気持ちは、今でも強く感じています。後悔しないように生きてるつもりですが、なかなか悔いのない人生を送るというのは難しいものです。
仕事柄、人が迎えた「突然の別れ」を聞かせてもらう因果な商売ですが、やはり突然訪れる別れの先には、「まだまだ、こんなコミュニケーションをとりたかった」という気持ちがあるものです。

まぁ、いつも偉そうに分かった顔をして生きている僕に、母が最後に教えてくれた説教なんだと思っています。

この数日、母の妹弟や友人たちに連絡を取り、僕の知らなかった話なども少し聞かせてもらいましたが、あらためて時間をかけて話を聞かせてもらい、少なくとも父が亡くなってからのこの数年、母がどう一人暮らしを送って来たのか、ちゃんと見つめ直さないとなぁと思っています。
といいながら、生前に祖父が自らまとめた手記を編集するのも、数年前から止まっていました。
まぁ、次に後悔しないよう、早くまとめないとなぁと思っています。

 

※もろもろ業務に支障があり、ご迷惑をかけて方もいるかと思いますが、明日からは仕事を再開します。よろしくお願いします。

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新年の挨拶&報告

新しい年が開けすでに正月も下旬となろうとしていますが、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。

すでにTwitterやFacebookでは報告していた通り、昨年末、緊急手術しそのまま入院していました。
お陰様で手術は無事に終わり、すでに退院し、現在は自宅療養をしている次第です。

少し前から、右眼の調子が悪く、何となく物が見えづらい日々を送っていたのですが、年末にいよいよ調子がおかしくなり、年内に診断だけしてもらおうと病院に行ったところ、その場で「網膜剥離(右眼球)」の診断を受けました。

「年内に手術するとしたら本日が最後」「剥離した範囲が広く、このまま年明けまで放置している場合、視力が回復しない可能性があり、最悪は失明する可能性もある」という突然の診断で「網膜剥離なう」とTwitterやFacebookでつぶやく暇もなく、手術をしてそのまま入院しました。

信頼できる病院でしたし、事前にインターネットなどで調べた際にも「もしかしたら、これは網膜剥離かもしれない」と考えていたのですが、やはり病名を告げられた時は、ちょっとショックでした。

それよりも、診察前は、年末年始にたっぷりと仕事を抱えていたため、何とか仕事の目処が立つまで手術や入院は勘弁して欲しいと思っていたのですが、部分麻酔による目の手術といっても、手術前にレントゲンだ心電図だ血液検査だと事前の検査が次から次へとあり、家族に連絡するのがやっとという有様で、仕事どころじゃありませんでした(苦笑)。

手術の2日後には、起き上がったりパソコンを使えるようになり、ようやく1週間ほど前から、仕事の打ち合わせなどに出かけることは出来るようになってきました。

ただし、医師からは、眼球に振動を与えないようにキツく言われており、あまり長い距離を歩いたり運動をしたりするのは厳禁で、しばらくは外を出歩く取材は出来そうにありません。

また、1時間くらい連続で文字を読んでいたりパソコンで作業をしたり、近くのものを見ていると使ってないはずの右眼も動いてしまうため、激しい痛みが起こり、事実上、原稿を打つこともままならない状況です。
実は、手術後、新聞、雑誌、書籍を全く読んでいないくらいです。文字を読むのが仕事であり趣味である僕としては考えられない事ですが、それどころじゃないくらい痛くなるので我慢の日々。

いやはや、事前に手術を担当した先生から「この手術は、術後に痛みがある」と言われていたのですが、それにしても強烈な痛みです。毎日涙出るほどで、痛み止めの薬を飲んで抑えています。
テレビや映画のように離れた画面を見ることはできるのですが、スマフォですら、少しずつ休み休み見ている有様で、もっぱら1日中ラジオやテレビだけで時間を潰す毎日です。

しかし、「仕事をしない=収入がない」のがフリーランスの辛いところ。幹部のハレと痛みが引けば仕事は再開できるので、少しでも早く痛みだけでもひかせて、仕事に復帰したいと考えています。(仕事仲間の皆さん、我が侭言うようですが、来月になったら、ぜひ仕事をたっぷりください! マジで2か月間も収入ゼロになるのでヤバいです!!)

なお、痛みはありますが、医師の話では患部の術後経過は順調のようです。
治療はまだ数か月かかり、右目の視力がある程度回復・安定するのはまだまだ先になるのですが、とりあえず片目だけでも仕事は何とかできるので、そういう意味では自宅で仕事ができるフリーランスの有り難みでもあります。

せっかく貴重な体験をしているし、スポーツをする上でいろいろと噂に聞いていた網膜剥離の症状について、ぜひ皆さんにも知って欲しいこともあるので、病気についての詳しいレポートは、ある程度、回復したところで改めてご報告させてもらいます。

ということで、2014年も波乱万丈な1年になりそうです。
3月初旬に予定していた震災に関する書籍も、若干、発行が遅れてしまいそうです(関係者の皆さま、本当に申し訳ありません)。

それでも、今年も奮闘する次第ですので、どうかよろしくお願いいたします。

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自由報道協会を立ち上げた頃の話(2)

 前回の記事の続きです。

 自由報道協会を立ち上げる際、僕が考えていたものに近い思いを、ビデオ・ニュースの神保哲生さんが文書にして残してくれています。
 2011年10月、『自由報道協会が追った3.11』(扶桑社)という書籍が発行されましたが、そのなかで神保さんが「自由報道協会の果たすべき役割」として示してくれたものです。

 以下、少し長いのですが、同書から引用します。


 
『自由報道協会が追った3.11』
(39ページより)
amazonのページはこちら

 
(前略)

●会見を記者クラブ独占から開放するために

 僕は、大手メディアに所属していても、小さいメディアの人でも、フリーランサーでも、誰もが個人で参加できるジャーナリストの職能集団をつくるべきじゃないか、と以前から思っていた。
 今年の1月中旬、上杉隆さんから連絡があり、「記者会見を主催するジャーナリストの団体をつくりたい」ということで、急遽、畠山理仁さん、渡部真さんと4人で会った。ここで、会を結成するための話し合いを初めてもったのだが、この時にも僕は、ジャーナリストの職能団体をつくるべきだという話をした。4人で創案した「自由報道協会」という名前と、英語名の「Free PressAssociation of Japan」。この“Free”が、決してフリーランスや無料という意味ではなく、誰でも“自由”に入れるという意味だということを忘れてはならないと、僕は思っている。だから、僕らは記者クラブの一段上を行くためにも、僕たちが堂々と彼らを迎え入れるような、器の大きな組織であるべきだと考えている。
 もっと認知度を上げ、いずれは、フリーランス、インターネットメディア、雑誌、新聞社、テレビ局、どこに所属する人も個人の資格で入るようになることを期待している。そのためには、既存メディアの記者たちが個人の資格で入れる自由を彼らが得ることも重要だ。

(中略)

……今のところ自由報道協会はようやく記者会見を主催することができるようになった段階で、まだこれからやらなければならないことがたくさんある。繰り返しになるが、今の日本の一番大きな問題は、政府機関や主要な政治、経済団体の記者会見が、まだ新聞、テレビ、通信社しか加盟できない記者クラブによって独占されていて、雑誌や外国報道機関、インターネットメディア、フリーランスなどのジャーナリストに十分開放されていないことだ。民主党政権になって記者会見のオープン化はかなり進んだが、記者クラブが記者会見を主催していることもあり、まだまだ有形無形の壁は多い。そして、それは単に独立系メディアやフリーランスが記者会見に参加できなくて「アンフェアだ」と文句を言っているだけの問題にとどまらない。記者クラブが特権を享受する立場にいるために、取材対象との間に癒着は生じるし、記者クラブの連中はほとんど現場を取材しなくなる。

(中略)

 記者クラブ問題というのは、単にネットメディアやフリーランスが記者会見に参加できないだけでなく、政府へのアクセスという特権を享受する一握りの大手メディアが、政府と癒着したり、その特権の上に胡坐をかき、ジャーナリズム本来の役割を果たせなくなることが、最大の問題なのだ。
 僕はかなり本気でメディアを改革しなければ、日本は変われないし、今直面しているいろいろな問題を解決することができないと思っている。そのためには、少なくとも政府とメディアの関係を今の異常な形から国際標準レベルに変えていかなければならない。その時に絶対に必要になるのが、既存の記者クラブメディアとそれ以外のメディアやフリーランスのジャーナリストが横断的に参加できる受け皿だ。自由報道協会の設立構想を相談するために集まった時、僕は将来的にはこの団体がそういう団体になる事を想定して、いろいろな名前の候補が挙がった中で、あえて普遍的な意味合いが強い「自由報道協会」にすべきと強く主張した。
 既存メディアを含めて、あらゆるメディアで仕事をしている記者たちが参加できるような組織になった時、きっと僕のこれまでの記者経験や、会見開放のために費やしてきた体験が役に立てると思っている。
 今の若い記者が、何の隔たりもなく自由報道協会に所属し、その人たちが既存メディアで主流となるような年代になった時、閉鎖的な記者クラブは存在感をなくすだろう。これは自由報道協会のためというよりも、むしろ僕たちの日本のために実現しなければいけないことだ。
 


 
 これは、僕と自由報道協会のスタッフが、神保さんからインタビューして書き起こした原稿を神保さんが修正したものです(と言っても、神保さんからは、ほぼ全面的に修正指示が来たので、実際には神保さんが書き起こしたものと言っても過言ではないほどなのだが……)。

 インタビューの際も、原稿をやり取りする際も、神保さんには、本書の趣旨である震災報道についての話だけでなく、「自由報道協会が、本来目指すべき方向を記録として残したい。1月の会合で話し合ったことや、神保さんが考える記者組織についてもよろしくお願いします」と依頼した上で実現しました。
 当時の僕の思いも、この神保さんの文書に近いものです。

 前回の記事と併せて、参考にしてもらえればと思い残しておきます。

【関連記事】
自由報道協会を立ち上げた頃の話(1)
http://makoto-craftbox.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-ed65.html

 
 



  

■フリーランサーズ・マガジン『石のスープ』

渡部真 連載コラム【勝手気ままに】Vol.29
〜震災遺構のいま〜
http://ch.nicovideo.jp/sdp/blomaga/ar406545

この数カ月に撮影した写真を使って、震災遺構を中心に東北沿岸部の現状の様子を伝えています。
写真を見て欲しいので、電子書籍(PDF/3分冊)にしました。

掲載地域は、岩手県野田村、田野畑村、宮古市、大槌町、釜石市、陸前高田市、宮城県気仙沼市、南三陸町、女川町、石巻市、東松島市、仙台市、山元町、福島県南相馬市、浪江町、富岡町、いわき市、千葉県旭市。

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自由報道協会を立ち上げた頃の話(1)

 このブログでは、随分とご無沙汰しておりました。

 Twitter上での会話の中で、自由報道協会の設立準備会を立ち上げる際、僕が考えていた「記者組織のあり方」について説明することになったので、このブログに残しておこうと思います。

 2011月1月20日、ビデオ・ニュースの神保哲生さん、ジャーナリスト(当時)の上杉隆さん、フリーライターの畠山理仁さん、そして僕が東京駅近くの某所で、会合を持ちました。前日か前々日、畠山さんから電話をもらい「上杉さんが、4人で打ち合わせをしたいと言っている」と言われて呼び出されたのでした。
 その当時、僕は「会見開放を求める会」の事務局を担当していたのですが、新たに会見開放に関する団体を立ち上げるので、それを手伝って欲しいという趣旨だったと思います。

 その会合で、「組織に属していようと、フリーランサーであろうと、取材・報道を目的とした誰もが個人で参加できる団体を立ち上げよう」という事で、僕らは一致しました。
 また、以下のような事も確認しました。

 ・2011年1月27日に小沢一郎衆院議員の会見を主催する
 ・渡部が21日までに「設立趣意書」の草案を作る
 ・それを元に、他の3人が修正をしたものを「草案」とし、
  1月27日の会見に参加する記者に呼びかける

 そして、僕が翌朝までに、以下の「草案(案)」を作りました。
 
 


 
「日本自由報道記者クラブ協会」(仮)
(オープン記者会)の設立について

 
 2010年から本格的に始まった行政省庁における記者会見の開放は、現在も一部の記者会見の開放が進まずに、未だ大きな社会問題となっています。「報道の自由」「知る権利」の観点から考えても、記者会見は本来、一部に限定された企業に属する報道記者に限らず、取材・報道を目的とした多くの人に開放されるべきものであり、幅広い記者が自由に参加でき、自由に質問できる公の場です。
 これは日本新聞協会声明「記者クラブに関する日本新聞協会編集委員会の見解」と合致した考え方であり、多くの記者会見を主催する記者クラブの所属会員たちも共有している見解だと考えます。
 しかし、実態は、記者クラブだけが独占的に記者会見の主催権を獲得し、非加盟社・者は、記者クラブから未だに公平な扱いを受けておらず、省庁によっては会見への自由な参加、自由な質問、自由な撮影が認められていません。

 長い間、雑誌記者、外国人記者、インターネット記者、それぞれが取材現場で参加の扉を少しずつこじ開けてきました。そのため、それぞれの立場で団体を設立し、その団体が主催権を持つ記者クラブに認められることによって、所属会員が会見への参加や取材活動の自由を確保してきたという歴史があります。
 しかし一方で、それら団体に所属していないフリーランス記者は個人の立場で各記者クラブと交渉をし続けているというのが現状です。

 こうした状況は、極めて閉鎖的で公開性が乏しい親睦団体・任意団体である記者クラブが、多くの会見を独占的に主催している事によっておきている、大きな弊害だと私たちは考えます。

 そこで私たちは、一部の非民主的な団体だけが独占的に主催権を獲得している日本社会の現状から、「報道の自由」「知る権利」を広く開放するために、これまでのしがらみを持たない新たな団体を設立することにいたしました。
 私たちは、新聞社、テレビ局、外国メディア、雑誌社、インターネットメディア、フリーランス記者、非営利で情報発信を行っている団体・個人などが、平等な立場で自由に取材・報道を繰り広げ、切磋琢磨を続けることこそ、「報道の自由」「知る権利」の真の実践であり、言論の自由と民主主義社会の発展につながると確信しています。
 ですから、私たちが目指す組織のあり方は、「誰かを排除するための規則づくり」ではなく、「より多くの人が参加できるための基盤整備」であることを目指します。

 私たちは、以下のことを目的に、「日本自由報道記者クラブ協会」(仮名)を設立したいと考えます。

【1】当面、この団体を「日本自由報道記者クラブ協会」(略称:オープン記者会/英語名:Free Press Association of Japan)として設立することを目指し、今後この団体に参加する多くの人々と議論をして改めて団体名を決定する。

【2】日本全国で行われている日常のあらゆる記者会見を、一部の任意団体だけが独占的に取り仕切るのではなく、「オープン記者会」も公平に主催権を獲得し、主催する。

【3】「オープン記者会」には、記者が個人単位で会員として加盟する。新聞、テレビ、雑誌、インターネットメディア、フリーランス、外国におけるメディア等、あらゆる所属組織の有無は問わない。記者専業でなくても、自分が「取材」「報道」を目的とした記者(執筆者・撮影者・編集者等)であると考える人は、原則、だれでも参加できる。

【4】「オープン記者会」は、東京の霞ヶ関近辺の民間ビルに広い部屋を確保し、あらゆる団体・個人が記者会見できる場所として存在させる。

【5】「オープン記者会」における記者会見、事情説明、資料配布等は、原則、誰もができる。自然保護・環境問題、人権問題をはじめ、憲法改正問題、労働、教育、医療、福祉、国際関係、メディア問題等々で活動するNGO、NPO、市民団体、労働団体、オンブズマン組織等々のほか、訴訟の原告・被告なども会見できる。発表者の思想信条は問わない。

【6】「オープン記者会」における発表希望は全国から受け付ける。配布したい資料がある場合は、同会内に掲示するほか、専用棚に一定期間整理して保存し、会員が自由に持っていくことができるようにする。またインターネット技術を活用し、全国の会員が配布資料を受け取れるシステムを確立する。

【7】「オープン記者会」は、記者発表の予定や同会で配布された資料等々をインターネット上で広く公表する。同会における実際の記者発表・会見の動画もしくは議事録も、一部あるいは全部がインターネット上で公開され、日本全国や世界中からのアクセス権を担保する。

【8】「オープン記者会」の発表・会見等を希望する際は、事前に事務局に届け出る。事務局は、時間・部屋の都合等を勘案し、調整する。それらの日程は速やかにネット上で公開されるほか、会員には電子メール等によって通知される。

【9】「オープン記者会」は、定期的に別途定められた運営委員会が選抜した人物を招き、記者会見を兼ねた講演を行う。

【10】「オープン記者会」は、会員同士および発表者である市民が、それぞれの所属会社等の枠を超えて、意見交換し、自由に交流する場を目指す。

【11】「オープン記者会」は、記者を育成する機関を設ける事を将来の展望として掲げる。

【12】「オープン記者会」は、将来的に基金を設立し、同会会員が「取材」「報道」目的のために必要なあらゆる資金を貸し出したり、「取材」「報道」関するあらゆる技術の習得や、前述育成機関への参加などに必要な資金を貸し出したりできるための機関設立の構想を掲げる。

【13】「オープン記者会」会員は、同会内で行われる会見・発表に関する取材については自由に各種媒体に公表できる。ただし、その報道内容に関する責任は、会員個人が負う。そのため会員は、同会内で行われた取材活動を公表する際においては、匿名ではなく自らの署名(会が個人特定可能である執筆名を含む)を明記した記事を書く事を保証する。

【14】「オープン記者会」会員となるためには、今後加盟者によって定められた「規約」を守ることを約束する。

【15】「オープン記者会」会員は、団体運営に関する負担を等しく出し合うという観点から、別途定める会費を支払う。

【16】「オープン記者会」は、広く個人・団体からの寄付を集い、前述した会費と合わせた活動資金によって運営が賄われる。

【17】「オープン記者会」会員は、脱会を自由に行う事が出来る。

【18】「オープン記者会」は、こうした会員の権利を保障し、広く国民に開かれた組織である事が重要であるという観点を持ち、その運営が公開され、公平・公正であることを担保するために、特定非営利活動法人(NPO法人)として設立する事を目指す。

 上記の目的を実現させるには、種々の立場を超えた多くの方々の協力が必要です。一人でも多くの方に賛同をいただくことで「オープン記者会」を設立し、日本が一刻も早く「報道の自由」「知る権利」の充実した社会となるよう願っています。
 何とぞ、ご協力・ご支援をよろしくお願い致します。
 


 
 これが僕の作った「草案(案)」でした。
 この「草案(案)」を作る際、当時北海道新聞の記者だった高田昌幸さんが、2005年に提唱した「自由記者クラブ」設立の構想案を、ご本人に許可をとって参考とさせてもらいました。

【ニュースの現場で考えること】2005.10.5
「自由記者クラブ」設立の構想
http://newsnews.exblog.jp/2849432/

 実は、僕はこの「自由記者クラブ」構想について、会合より以前に高田さんからお話を聞かせてもらっていて、高田さん、神保さん、そして弁護士であり記者でもあった故・日隅一雄さんなど、先輩記者達からご意見をいただき、新しい記者組織の可能性について勉強をさせてもらっていました。もちろん、その段階では自由報道協会などの話は一切ありません。僕は、会見開放運動のお手伝いをさせてもらいながら、何らかの記者組織は必要だと思っていたので、その理論武装として勉強をさせてもらっていたわけです。
 1月21日の会合の際も、高田さんの構想をプリントアウトして持って行き、それをベースに4人で話をしました。そこで話し合った結果を、僕なりにまとめたのが上記の「草案(案)」です(高田さんの構想を下敷きにしたとはいえ、高田さんは自由報道協会の立ち上げには、一切関わりがないことも記しておく)。

 なお、この時「日本自由報道記者クラブ協会」を仮名にしました。
 僕は「協会」もしくは「組合」として、法人団体であることが明確な組織名にしようという提案をしました。「記者クラブ」などの名称は、知らない人にはサロンなのか団体なのかよくわからないし、昨今の政党のように何の集まりか不明瞭な名称は相応しくないと考えていました。
 ほかに、「自由」(英訳の際はFree)を入れる事について、海外メディアの記者への訴求にも役立つのではないかなどという意見があったり、「NHK(日本放送協会)をもじりたい」などという軽薄な意見もあったりしました。
 一旦は「自由報道協会(Free PressAssociation of Japan)」にしようと決まりかけたのですが、半ば強引に上杉さんから「有力案を全部くっ付けて『日本自由報道記者クラブ協会』という仮称にしましょう」と提案され、承認したものです。

 こうして、僕の「草案(案)」を、神保さん、上杉さん、畠山さんの3人に送りました。この際、僕ら4人と、他に3人、合計7人が「発起人」として新団体設立準備会に参加する予定だったのですが、他の3人に僕の「草案(案)」を送ったかどうかは記憶にありません。
 これに対して上杉さんから「気持ちはわかるが、長過ぎる。時間がないから、これをベースに自分に任せて欲しい」という話があり、その上杉案が最終的に「草案」となったわけです。

【「自由報道協会」(仮)】2011.1.26
設立趣意書の草案
http://fpaj.exblog.jp/14057386/

 これを、1月27日に開催する小沢一郎議員の会見に参加してほしい記者たち、あるいは実際に会場に来た記者達に手渡し、賛同を得た上で、正式に団体の設立準備会を立ち上げる事にしました。

 実際に公開された自由報道協会の草案を、いま読み返して考えてみれば、僕と上杉さんには、すでにこの時点で同協会に対する考え方に大きな違いがあったんだと改めて実感します。

 僕は、今でも、どんな属性の記者でも参加できる団体が必要だと考えています。上記の「草案(案)」は、僕の考えが全て反映されているわけではありませんが、過去の記録として、ここに残しておこうと思います。


【関連記事】
自由報道協会を立ち上げた頃の話(2)
http://makoto-craftbox.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-1239.html

 
 



  

■フリーランサーズ・マガジン『石のスープ』

渡部真 連載コラム【勝手気ままに】Vol.29
〜震災遺構のいま〜
http://ch.nicovideo.jp/sdp/blomaga/ar406545

この数カ月に撮影した写真を使って、震災遺構を中心に東北沿岸部の現状の様子を伝えています。
写真を見て欲しいので、電子書籍(PDF/3分冊)にしました。

掲載地域は、岩手県野田村、田野畑村、宮古市、大槌町、釜石市、陸前高田市、宮城県気仙沼市、南三陸町、女川町、石巻市、東松島市、仙台市、山元町、福島県南相馬市、浪江町、富岡町、いわき市、千葉県旭市。

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【お知らせ】自由報道協会に対する申し入れ

本日12月20日、午前11時51分、渡部真以下5人の連名において、公益社団法人自由報道協会に対して申し入れるため、電子メールにて文書送信を行ないました(同12時52分、同協会に対して電話にてメール到着の確認をするように連絡済み)。

申し入れの内容は、12月7日に「自由報道協会」と「有志の会」を代表して島田健弘氏・畠山が交わした「覚書」に関するものです。この件につき、「自由報道協会」およびその管理すべき人物達が、「有志の会」あるいは我々に対して極めて不利益な活動を展開したため、 事実関係を確認のうえ、訂正・謝罪を求め、必要な要求を行ないました。
概要は以下の通りです。

※現在、概要を非公開としています※

なお、この申し入れに対する回答期限を本年12月25日とし、回答がない場合は改めて内容証明郵便を送付した上で公開質問とすることも並記しています。
事実関係に重大な誤りがあることもあり、速やかな対応を期待しています。

「有志の会」の関係者およびご支援をいただいている皆さまには、自由報道協会からの回答があり事情が明らかになり次第、ご報告申し上げます。
今後ともご支援・ご協力をお願い申し上げます。

2012年12月20日

自由報道協会有志の会被災地支援プロジェクト 所属メンバー
渡部真
渋井哲也
畠山理仁
西岡千史
小川裕夫

※追記(12月27日)

12月21日付で、自由報道協会 代表理事 上杉隆氏を通知人とする通知書が届きました。差出人は同協会の代理人です。それにともない、このブログ・エントリーに掲載していた申し入れの概要を、一時的に非公開としました。

その通知に関する今後の対応などについては、改めて新しいエントリーでご報告します。

※追記2(12月31日)

上記の件について関係者と話し合いをしたところ、改めて自由報道協会に対して反論・再申し入れを行なうことになりました。正式に行なうのが年を明けてからとなりますので、その上で改めてご報告いたします。

なお、今後も経過などについてはご報告を続けていきますので、経過を見守っていただければ幸いです。

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7月8日(金) 「記者クラブを語るかい?」第3弾開催

イベントのお知らせです。

今年の2月から、不定期ですが「記者クラブを語るかい?」という座談会を開催しています。その第3弾を開催することになりました。

いわゆる「記者クラブ問題」というと、中央省庁や官邸会見のことが中心に語られることが多いと思います。僕自身も、中央省庁や官邸に関する記者クラブの動きは大凡理解しているつもりですが、記者クラブ問題に長い間取り組んできた人たちと話をすると、それだけでは理解が不十分であることを痛感させられます。

そこで、僕の周囲のジャーナリストなどと一緒に、少し違った角度から記者クラブ問題について理解を深めたいと考えて開催しているのが「記者クラブを語るかい?」という座談会です。

これまで、2回、ジャーナリストの方々の協力を得て開催し、インターネット中継で一般の皆さんにも見ていただきました。その後、3月に第3弾を予定していましたが、取材などが続いてなかなか実現できませんでした。ご期待いただいた方には、遅くなって申し訳ありませんでした。

今回は、「警察・検察・裁判所編」として、司法クラブの問題や、検察庁や裁判所の閉鎖性と闘っているジャーナリストをゲストに迎えます。
また、後半では、6月で北海道新聞を退社することになった高田昌幸さんを迎えて、「北海道警裏金事件」の裁判の行方や、これまでの貴重な体験についてお話を伺おうと思っています。
高田さんが退社されて公の場で発言するのはこれが最初だと思われます。もちろん、視聴者の皆さんからの質問も受け付けます。ぜひ、ご覧ください。

時 間:2011年7月8日(金) 20時〜22時

ゲスト:渋井哲也氏(フリーランスライター)
    高田昌幸氏(6月まで北海道新聞記者/道警裏金問題を追及)
    西村仁美氏(ルポライター兼フォトグラファー)

サプライズゲスト
  ……高田さんを労って、ジャーナリストの方々が「顔出すよ」と連絡をくれています。お楽しみに!

インターネット放送
  http://www.ustream.tv/channel/渋井ちゃんねる

 


これまでの「記者クラブを語るかい」……


Img_0468

「地方記者クラブ編」の様子を詳細に報じた『北方ジャーナル3月号』

【第1弾】海外編 2011年2月1日開催

記者クラブ問題は日本独特と言われるが、実際にヨーロッパやアメリカの取材現場はどんな様子なのか? 外国人ジャーナリスト、海外取材の経験豊富なジャーナリスト、中央省庁の会見に詳しいジャーナリストをゲストに迎えました。

参加ジャーナリスト:
  烏賀陽弘道氏(フリーランス・ジャーナリスト/アメリカでの取材経験が豊富)
  畠山理仁氏(フリーライター/中央省庁の記者会見を取材し続けている)
  ピオ・デミリオ氏(イタリア人記者/FCCJ会員/記者クラブ問題にも詳しい)

アーカイブはこちら → http://www.ustream.tv/recorded/12386211

 

【第2弾】地方記者クラブ編 2011年2月6日開催

中央の記者クラブ問題はよく語られるが、日本全国にある地方の記者クラブの実態とは? 新聞社に入社した記者が、最初の数年間、経験させられるといわれる地方の取材現場とは? 地方記者クラブに詳しいジャーナリストをゲストに迎えて、地方記者としての経験を語ってもらいました。

参加ジャーナリスト:
  小笠原淳氏(北海道で記者クラブと対峙しながら取材と続けている)
  渋井哲也氏(長野日報記者として地方記者クラブに所属していた)
  常岡浩介氏(長崎放送報道部記者として地方記者クラブに所属していた)
  畠山理仁氏(設立された自由報道協会の暫定幹事長)
  三宅勝久氏(山陽新聞記者として地方記者クラブに所属していた)

ニコニコニュースでの放送だったためアーカイブは残っていませんが、北方ジャーナル3月号に座談会の様子が詳しく掲載されています。興味のある方は、バックナンバーで読むことが出来ます。
北方ジャーナル  http://hoppojournal.kitaguni.tv/
3月号はこちら→ 北方ジャーナル3月号

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警戒区域内の「現実」を伝えるのは誰だ?

前回の記事で紹介した福島県浪江町で継続取材している牧場の様子が、一昨日『報道ステーション』(テレビ朝日)、昨日『ニュースの深層』(朝日ニュースター)で報じられた。
政治家、学者、畜産業者などが共同して、警戒区域で生き残っている家畜を生かし、放射能の影響などを研究対象とする『サンクチュアリ構想』(仮称)が実現に向けて動き出しているようだ。

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今年4月22日、東電福島第一原発から半径20km圏内は、災害対策基本法に基づき「警戒区域」に設定され、一般国民の立ち入りが禁止された。違反した者は、「10万円以下の罰金又は拘留」ということなので、逮捕される可能性もあることになる。
ご存知の通り、現在は「一時帰宅」として地元住民などだけが、各市町村の許可を得て立ち入りが認められていて、それ以外は一切入ることが出来ない。

件の浪江町の牧場スタッフは、週に一度、餌やりのために許可を取って警戒区域内へ通っている。
牧場の空気中放射線量は、僕たちが計った時は、5マイクロシーベルト〜10マイクロシーベルトだった。別の日に同じ牧場に行った人の話では15マイクロシーベルト以上の場所もあったと言う。こうした危険な数値が示す地域だから、一般国民を保護するというためにも立ち入りの制限が行われるのは当然と言える。
だがしかし、本当にそれで良いのだろうか……?

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6月の取材で、南相馬市、浪江町、葛尾村などの警戒区域の入口がどうなっているか取材して来た。
上の写真は、浪江町の西側の入口の様子だ。
2車線以上の道路は、その多くが、このように厳重な警備がされている。

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この写真は、許可を得て警戒区域に入ろうとしている地元住民が、検問で止められている様子だ。
市町村長から受けた許可証を提示し、さらに警戒区域内での注意事項などの説明を受けている。ちなみに、一般市民が警戒区域の中に入ることが許されるのは2時間以内だ。それまでに、同じ入口に戻って来なければならない。

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こちらは逆に、警戒区域内から戻って来た車が検問を受けているところだ。
ここは、南相馬市の国道6号線の検問所で、この道路は北側(南相馬市)も南側(いわき市)も、東京電力の関係作業員などの出入りに使われることが多い。この車に乗っていたのも、東京電力の関係者で、原発などで作業している人たちだ。そのため、警戒区域の出入りも慣れている様子で、警察も最低限の書類を確認するだけで、長い時間を取られることはない。
ちなみに、一般市民の場合は、警戒区域から外に持ち出す物の放射線量検査が義務づけられており、検問のチェックで長い時間かかることもある。

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こちら検問所は、南相馬市の市街地と20キロ圏内を一直線に結ぶ道路にあるのだが、ここでは、一日数台の車しか通らないという。この日は平日だったが、夕方の時点でまだ1台しか通っていないとのこと。すでに気温が暑くなりかけていたが、警察官も一日中長袖にマスク姿で過ごすのはたまらないだろう。
ちなみに、こうした検問所の多くは、すでに警戒区域内(20キロ圏内)にあるため、本来は取材目的であろうと近づくことすら許されないらしい(もちろん、写真を撮るくらいで文句を言われることはないが、どの検問所に行っても、近寄るだけで身分証明証の提示を求められ、取材目的や媒体名などを訪ねられ職質を受ける)。

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一方で、小さな道路ではとくに厳重な警備はない。

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こうした道路から、徒歩や自転車などで警戒区域に入ることは可能だが、この立入禁止線を越えてもすぐには取材できるようなところはなく、数キロ先まで移動する必要がある。
僕は車で移動しているので、このような所から入ったとしても先までいくのは厳しいし、仮に途中で警察に見つかればすぐに追い出されてしまう。実際、こうした細い道から侵入したジャーナリストの話だと、警察に見つかって警察署まで連行され、2時間も聴取を受けてしまったという。前述した通り拘留することも可能なため、警察に逮捕されても文句は言えまい。

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では、どうすればジャーナリストが取材として入れるのだろうか?

警戒区域に入るためには、前述した通り、市町村長の許可が必要だ。しかし、市町村長が許可をしても、最終的には市町村長の承認を得た上で、国の承認も必要になる。
「原子力災害対策特別措置法」に基づいて設置された「オフサイトセンター」で最終確認をし、ここで許可を得て初めて申請が認められるのだ。

そこで、市町村長から許可を得ることが出来れば、ジャーナリストの取材活動として警戒区域に入ることを許可してもらえるか、オフサイトセンターに問い合わせてみた。
オフサイトセンターの回答は、概ね以下の通りだった。

●4月22日以降、ジャーナリストの取材活動は、原則的に認めていない。
●住民の一時帰宅が始まった初日など、一部の報道機関に取材を許可した。その際には、福島県の県政クラブ(福島県庁の地元記者クラブ)に20名程度の範囲に収めるように通達し、県政クラブで調整した後、申請のあった報道機関に許可を出した。
●今後も同様に、警戒区域内で大きな動きがある時には取材許可を出すこともあり得るが、同様に県政クラブを通じて許可を出す。
●それ以外では、全ての報道機関に対して、取材目的で許可を出すことはない。

要するに、新聞やテレビ局以外には許可を出せないということだ。雑誌、海外メディア、フリーランスには取材機会すら与えられない。
もちろん、それだけでも腹が立つことだが、一方で、新聞やテレビですら取材許可が出ていないということに、僕は強い違和感を感じる。

これでは、われわれ報道関係者も、そしてそれを通じて情報を得ている一般市民も、警戒区域で何が行われているのか、どうなってしまっているのか、知る方法が一切ないということになってしまう。
日本国内で、しかも、つい最近まで市民が生活を営んでいた土地であり、一般市民の私有地があるにも関わらず、そこがどのような状態になっているか知る方法がほとんどないのだ。

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大手報道機関は、安全を考えて放射線量が多く危険な場所に社員を派遣することはが出来ないという。僕は、この考え方が間違っているとは思わない。社員の安全を考えない会社など認めてはいけない。
また、大手報道機関の中には、雲仙普賢岳の噴火の際に犠牲者を出し、そのことで混乱をさせてしまったトラウマなどもあるだろう。
しかし、大手報道機関の「協力企業」や、僕たちフリーランサーは、危険な地域だろうと自己責任において自らの判断で行くことが出来る。
戦場ジャーナリストが大手メディアと連携して取材しているように、警戒区域でもフリーランサーと大手メディアが協力し合うことは出来るはずだ。

先日、あるシンポジウムにパネリストとして参加した際、某新聞社のデスクと同席した。
その席で、「戦場取材と同じように、国内でもフリーランサーを使ってくれれば遠慮なく取材に行く。新聞社も必要な情報を得ることが出来るし、われわれフリーランサーも仕事になる。何よりも国民の知る権利に応えることになる。どうして新聞社が率先して、フリーランサーを使おうとしないのだろうか?」と、少し意地悪な質問をした。
彼女は、「確かに今回は準備が足りなくて、そうしたフリーランサーとの連携などについて考慮していなかった。今後検討したい」と答えた。ぜひ、今後、大手メディアの幹部の皆さんには検討してもらいたいと思う。

とはいえ、実は、フリーランサーも、そして大手メディアの記者たちも、色んな方法で潜入取材は続けていると聞く。僕自身も、前回の記事で紹介したように警戒区域内での取材をしている。
それが目立った形で表に出ないのは、媒体となるメディアが批判を恐れているという側面がある。

ジャーナリストの青木理さんが「われわれジャーナリストは、例え法律を犯してでも、報道の必要性があれば、そこを取材して公表することがある。それは決して間違った行動ではない」という主旨の発言をしていたが、まさにその通りだ。
少し酷な注文かもしれないが、大手メデァイアは、つまらない批判にビクビクせず堂々と取材し報道してほしい。

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さて、写真をもう一枚。

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この写真は、福島県川俣町体育館で実施されているスクリーニングの様子だ。

先に紹介した「オフサイトセンター」で取材した際、「なぜ報道の取材を制限するのか、その根拠を説明してほしい。南相馬市の小高区など、線量の低いところであれば危険ではないし、予め取材目的などを明記して申請を出せば、便乗して犯罪を犯すような人間に許可を出すこともないだろう」と聞いてみた。
すると先方は、危険だからと言うのではなく、その一番の理由に、「各所(福島県内で除染が出来るスクリーニング会場は4か所)のスクリーニング会場が非常に混雑していて、メディアの取材者を入れたらさらに混雑してしまう。一般市民も立ち入りを厳しく制限しているし、これ以上は受け入れられない」と言った。

たしかに南相馬のスクリーニング会場では混雑することもあるのだが、他のスクリーニング会場が混雑することなどめったいにないはずだ。取材した日は日曜日だったが、川俣町体育館を取材していたおよそ1時間の間にスクリーニングを希望して訪れた人は、僕たち取材者を除けば9人だった。
スクリーニングのスタッフの方に聞いた所、平日なら一時間に数人〜十人程度だと言う。

また、一般市民が制限されているのは、持ち出す荷物を自ら線量計で測るために、市町村で線量計を貸し出しているため、その数に限りがあるからで、混雑してしまうのを制限している訳ではない。
われわれジャーナリストは、警戒区域内から何かを持ち出すことが目的ではないので、市町村から線量計を借りる必要もない。

だったら、取材者もある程度人数を規制して許可すれば、けっして一般市民に迷惑をかけずに済むはずだが、オフサイトセンターで取材に対応した人は、僕がいくら反論しても、壊れたレコードのように同じ説明を繰り返した。

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僕は何も、原発の建屋内を取材させろと言っている訳じゃない(もちろん、そこも取材させるべきだが……)。住民の一時帰宅が許される範囲なら、取材目的のジャーナリストたちにも立ち入りを許可すべきだと言っているのだ。
一般市民に対して「直ちに健康に影響ない」と言い続けた政府なのだから、ジャーナリストの健康に必要以上に気遣ってくれなくて結構だ。

そして、報道機関も、一人ひとりのジャーナリストたちも、もっと表立って警戒区域の立ち入り許可を求めるべきだ。

最初に紹介したように、ようやく少しずつではあるけども、警戒区域の様子がテレビで報道されるようになって来たが、まだまだ圧倒的に足りない状態が続いている。そんな状態であるにも関わらず、手をこまねいて見ているだけでは、何のための報道機関か。
警戒区域の中で起こっている「現実」を、できるだけ多くの市民に伝えることこそ、報道機関やジャーナリストの背負っている使命のはずだ。大手メディアも、海外メディアも、フリーランサーも、それぞれが堂々と取材し報道するために協力し合って政府に要求すべきだ。

日本国内のことなのに、何カ月もの間、何が行われているのかサッパリ知ることが出来ないなんて気持ち悪い社会にしているのは、政府だけの責任とは言えないと思う、不愉快な今日この頃なのだ。

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5周年とブログタイトルの変更

前回の記事でちょろっと書きましたが、当ブログがこの4月で5周年を迎えました。

途中gooブログからココログへの引っ越しなどもあり、極端にアクセス数が減った時期もありましたが、このところようやくアクセス数も戻ってきまして、油断している間に10万アクセスも超えておりました(笑)。
まぁ5年で10万というのもかなりのんびりしたペースですが、更新がのんびりしているものでして……。

で、5周年ということと、自宅が稲荷町から移転(「稲荷町の長屋」は仕事場として残す予定)すること、それからタイトルに飽きたということもあって、ブログのタイトルを変更することにしました。

新しいタイトルは「節穴の目」です。

ありきたりなタイトルですが、最近、自分の目がいかに節穴かを実感することも多く、自戒を込めたタイトルとしました。ド近眼の上に節穴で見逃すことも多い目ですが、それでもしっかりと世の中で起きている悲喜交々を見続けていきたいと思います。
リンクしている方にはたいへんお手数をおかけしますが、修正をお願いします。

ということで、最近ついつい「つぶやき」でストレスを発散しているために、このブログの更新も怠っていますが、これからもどうぞ、のんびりとお付き合いください。よろしくお願いします。

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マスコミ支持率

すっかりブログの更新を怠っていて、この間、子ども二人の受験が終わりそれぞれ進学が決まったり、このブログが5周年を迎えたり、そのほか諸々と報告したいこともあるんですが、いつものようにバタバタと過ごしてます。

で、突然ですが、某所で「政党支持率を調査しているマスコミの支持率を調べたら面白そう」って話題になっていたので、ちょっと自分なりにアンケートを作ってみました。 よかったら、気軽にポチっと投票してみてください。

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【マスコミ支持率 1】
主なニュース情報源は?

【マスコミ支持率 2】
一番信頼できる報道は?

【マスコミ支持率 3】
一番信用できる大手新聞社は?

【マスコミ支持率 4】
一番信用できるテレビ(報道)局は?

【マスコミ支持率 5】
一番支持する報道系ネット情報は?


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ちなみに僕は、まだ投票していません。
それから僕は、必要以上に大手マスコミへの不振を煽るつもりはありません。純粋に、こんなアンケートの結果分かれば、自分の認識が深まるかもと思って作った次第です。
なので、特に詳しい分析をするつもりはありませんが、興味深い結果になれば分析するかも。まぁ、基本的にはそれぞれの皆さんが分析してください。
一応、投票数を500件で制限しました。こんな場末のブログでは、それだけ母数があれば十分かと。

ということで、もう少しゆっくりする時間ができたら、近況報告など、記事の更新をしますので、また近いうちに。


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【5/26追記】
すでに500票を超えたので、投票総数の設定を1000にしました。
再度書いておきますが、このアンケートは大手マスコミへの不振を煽るつもりで作ったものではありません。それは、これまでのこのブログの記事を読んでもらえれば分かると思いますが、僕はけっして大手マスコミを全否定するつもりはありません。
しかし、やはりネット上でこうしたアンケートをとると、どうしても「ネット世論」と言われる(って、本当にそんなものがあるか疑問ではあるけども)傾向に偏ってしまいます。ですから僕は、これが「一般的な傾向を完全に反映している」 などと言うつもりはありません。
それでも、このアンケートの結果は、大手マスコミではあまり聞こえないような、しかし確実に大きな存在になりつつある一般市民たちの不満の一部分を表しているんだと、個人的には思っています。

最後にもう一つ。
このアンケートは、「記者会見・記者室の完全開放を求める会」の運動とは一切関係がありません。誤解ないようお願いします。


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大手メディアに「声」が届く日は来るのか?

今多くのジャーナリスト・マスコミ関係者が雪崩を打って大手メディアを批判しているのは、決して小沢・民主党擁護だけではない。むしろ小沢批判をしている者もたくさんいる。

そうした声に対して、大手メディアは、「所詮、フリーのライターや個人の声だ」と思って甘く見ない方がいい。
批判している側と、批判されている側、そのどちらに説得力があるか、受け手にはちゃんと伝わってる。
ネット時代に「説得力」を甘く見るメディアは、必ず受け手に見捨てられる。

「若手から小沢批判が出ない」と民主党を嘆く大手メディアが多いが、実は、自分たちこそ内部から改革できない危機感ない組織になっているという自覚が、組織全体にない。
「記者クラブ問題」「再販制度」「クロスオーナーシップ」、こうした既得権益がなくなったとき、今批判されていることから現実逃避するメディアは生き残れないという危機感はないのだろうか?

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前述した大手メディアの既得権益を一斉に剥奪する「メディア構造改革の時代」は、驚異的なスピードですぐ目の前に来ている。それなのに、大手メィアは驚くほど暢気だ。

例えば、一連の「検察リーク問題」で大手メディアの「反論という名の言い訳」を見ていると、悲しいほど説得力がない。新しい時代に対応できるセンスが見られない。
「自分たちはネット社会に対応できてる」と考えているんだろうが、自分たちへの批判をダイレクトに受けながら、結局「言い訳」をしかできてない現実が、センスのなさを何よりも表してる。

2ちゃん、アルファブログ、mixi、ニコ動、Twitter、なぜそこに人が集まるか?
そこには「説得力のある声」があり、しかも自ら声を発することができるからだ。
そうした新しいコミュニティを活用するセンスがないことは致命的だと言わざるを得ない。

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メディアの双方向性については、実は大手メディアこそ古くから取り組んでいた。
すべての新聞は昔から「読者・視聴者の声」を掲出し続けている。放送も視聴者を番組に参加させようとしてる。
しかし、受け手の「声」をメディアコンテンツの一部として利用しただけで、彼らは本気でその「声」を聞いていなかったのかもしれない。
少なくとも、大手メディアの経営者クラスは、受け手の「声」をきとんと聞いてはいない。
受け手の「声」の窓口となる担当者に危機感があっても、会社全体で危機感を共有するに吐いたらないし、経営者クラスの幹部には彼らの危機感が理解・共有できていない。

だから大手メディアは、ネットのクリエーターが生み出すツールを後追いで利用しているだけで、自ら新しいビジネスモデルを確立できないまま「失われた20年」が過ぎた。

会社としては、一応、双方向性対応している「フリ」をしておく。しかし対処はしない。したときは「言い訳」で現実逃避。これが大手メディアが危機感のない証拠だ。
昔から「読者・視聴者の声」を掲載続けかつては双方向性を模索していたはずの大手メディアは、何時からこんなに傲慢になったのか? いつ謙虚さを取り戻すのか?

*  *  *  *  *  *  *

僕は、最近批判してばかりけど、まだどこか大手メディアに期待している部分があり、大手メディア批判者たちから「甘い」とよく言われる。しかし、出版と違って放送・新聞の世界は、大手マスメディアがまだまだ生き残ってもらわないと困る部分もある。「長い」「デカイ」、大手企業にはそれだけである種の価値がある。

甘いかもしれないが、大手メディアで受け手の「声」の窓口を担当している人たちには頑張ってほしい。
現代において「メディアの最前線」にいるのは記者でも幹部でもなく、実は読者たちであり、そこに繋がって彼らだからだ

彼らが説得力のある意見を会社の中に伝え、それを大手マスメディアがそれを謙虚に受け取ったとき、もう一度大手メィア信用できる時が来るかもしれない…って、やっぱり甘いかもね。


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