【週刊 石のスープ】本当に想定外だったのか!?」その1
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■三陸地域の被害を見たときの驚き
2011年3月11日以降、原子力安全・保安院と東京電力本社の記者会見に参加したり、厚生労働省に取材したりしながら、その時に抱えていた仕事を仕上げて、ようやく16日から本格的に被災地の取材を始めた事は、以前書いたと思う。
(中略)
さて、水戸から始まった取材は、宮城県仙台市、名取市、亘理町、七ヶ浜町、多賀城市、利府町、福島県相馬市、南相馬市など、何度かに分けて取材しているうちに、あっという間に3月が終わってしまった。ちょうど、今回の震災で津波被害が大きかった東北3県の半分から南側の沿岸地域を中心に取材をした事になる。
この段階で僕は、相馬市、南相馬市、仙台市、七ヶ浜町、それにいわき市などを今後の取材の中心にしようと考えていた。本来のフィールドワークである学校や教育現場を継続取材したい考えていて、そのうちいくつかは目星がついたところだった。今後のことを考えたら、あまり取材範囲を広げると大変になるし、時間的にも予算的にも、北に行けば行くほど負担が大きくなる。
それに、相馬市や仙台市で津波被害の悲惨な状況は十分に見たつもりだったので、北に向かう事に、あまり興味がわかなかった。
この頃は、ほとんどフリーランスライターの渋井哲也さんと二人で動いていたので、
「とりあえず、石巻には行くけど、それより北方面については、渋井さんの意思に任せるよ。『運転手として連れていけ』と言われれば、4月一杯は付き合うけど、基本的に僕は、仙台や七ヶ浜以南を中心に取材を続けるつもり」
と渋井さんに伝えた。
3月31日、僕らは相馬市や浪江町にいた。浪江町は、警戒区域内(当時は避難指示区域)内で牛のエサやりを続けているエム牧場に行き始めた頃。相馬市は、磯部中学校の生徒たちが集団で避難している避難所に何度か行き、僕の顔を覚えてくれた子が何人かできた頃だった。そのまま相馬や浪江にとどまって継続取材したいと思ったのが本音だった。だから、渋井さんから
「石巻市の被害は大きいというし、行くべきだと思う」
と誘われなければ、その時は宮城県石巻市に移動することすらなかったかもしれない。
とにかく、4月1日、石巻市に向かった。
※この後の記事(小見出しのみ紹介)
■三陸地域を南北に走る国道45号線
【おまけコーナー】ジャーナリズムとは何か
■僕はジャーナリストではない
■明確な答えを出せないまま過ごした1年
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