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「検察リーク」なんていらない社会に

現在、「検察のリーク」という問題が、いろいろと取り上げられている。

僕は、「検察のリーク」なんてものは批判されてしかるべきだと考えている。

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「リーク問題」の前に少々前置きを。

基本的人権を有する民主的社会とは、突き詰めれば「個人の尊厳を互いに認め合う事」であり、その社会では、国家が国民の権利を侵害する「冤罪」は、社会にとって何よりも重大な罪。極論として、殺人事件よりも冤罪事件の方が、社会が注視すべきことだというのが僕のスタンスだ。

「取り調べを完全可視化をすると、起訴率が下がり、犯人を取り逃がす可能性が高くなる」「取り調べを完全可視化するなら、同時に、警察や検察の捜査権限を拡大すべき」という意見があるが、これには違和感がある。
どちらを優先すべきかと言えば、民主社会の原理としては、個々の犯罪を見逃しても、国家犯罪である冤罪防止の方が優先されるべきだ。 もっとも現実の法整備上は「どちらを優先すべきか」というのはナンセンスで、どちらも段階的に同時進行すれば問題ないんだけど……。

さてここまでは前置きだ。

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「公務員のリーク是非論」は、冤罪問題と同じで、結局は社会の在り方の問題。ならば原則として「公務員のリーク」は認めるべきじゃない。

公務員まで話を広げると面倒なので、ここでは「警察・検察のリーク」に絞るが、警察や検察に限って言えば、「取り調べ完全可視化」と「公開公式会見」があれば、「検察のリーク」は必要ない。
現状は、情報が公開されてない中で国民が情報を得るために、必要悪として存在しているだけで、個々の事件について公式の見解が発信されていれば、リークの必要性はなくなる。

「検察のリーク」の問題は、意図的に世論誘導するためマスコミが利用された時、圧倒的に情報を持っている検察側が有利であり、それよりも情報の少ない被疑者も、被害者も、あるいはマスコミも、それに抗うのが困難になる。まして裁判員制度の中にいる一般国民は尚更だ。
前述した通り国家権力による国民の権利侵害は何より危険視すべきことなのに、情報を持つ検察側だけが有利な状態は異常だ。
現状はリークによって楽したいマスコミが、必要悪として自ら作り上げた「権力との馴れ合い」=「記者クラブ制度」を活用し、相手にも利用されているだけのことだ。

そのことで、部分的に情報公開されているかのように錯覚するけども、実際には、常に「検察からの一方的な情報」と「相手側の見解」と「マスコミの直感」という、極めて歪で曖昧な情報が、マスコミを通じて知らされているに過ぎない。現状の日本社会は、民主的社会としては異常だということを認識すべきだ。

そんな歪な状態の社会よりも、真っ当な情報が常に誰からもアクセス可能な状態になっている社会の方が、民主的社会として健全である事は間違いがない。だから「検察リーク」は、やっぱり批判されて当然だし、必要悪として存在するからと言って、許していいものではない。

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もちろん、これは検察組織の腐敗・違法行為があった場合の「内部告発」を否定するものではない。それから、公開されている情報のチェックや隠された情報を、マスコミやジャーナリストたちがどれだけ発見し真実の姿を報道できるか、そこで内部情報を得る事は、当然あってしかるべき。
僕は、こうしたジャーナリストたちの調査によって得られたものを指して「検察のリーク」と言っているわけではない(池田信夫は、「広義の意味でのリークは当然ある」と誤摩化しているが、そういう意味でリークを問題視しているのではない)

ということで、一方的に垂れ流される「検察リーク」の現状は、やっぱり批判されてしかるべき存在で、「取調べ完全可視化」と「公開公式会見」の実現とともに、段階的にでも解消すべきことだと思う。


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