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2010年2月

浅草寺の節分会

またまたまたまた、すっかり報告が遅くなったが、2月3日に浅草寺で行われた節分会の写真をいくつかアップ。

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いつものように、「浅草の風」にもっとたくさんの画像を投稿しているので、もしよければそちらもどうぞ。
「浅草の風」浅草の節分の様子(その1〜10)

それから、今回はインターネット新聞「JanJan」にも投稿したので、そちらもよければ、ぜひどうぞ。
「千秋万歳、福は内! 浅草寺の節分会

「JanJan」への投稿は久しぶりだったんだけども、今後は浅草の大きな行事は、「JanJan」などにも投稿して広く伝えていきたいと思ってる。まぁ、浅草観光の足しになればってことで。

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ということで、すでにまったく時期を外してしまっていた記事だけど、とりあえず「忙しく仕事しています」という近況報告をかねて。


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大手メディアに「声」が届く日は来るのか?

今多くのジャーナリスト・マスコミ関係者が雪崩を打って大手メディアを批判しているのは、決して小沢・民主党擁護だけではない。むしろ小沢批判をしている者もたくさんいる。

そうした声に対して、大手メディアは、「所詮、フリーのライターや個人の声だ」と思って甘く見ない方がいい。
批判している側と、批判されている側、そのどちらに説得力があるか、受け手にはちゃんと伝わってる。
ネット時代に「説得力」を甘く見るメディアは、必ず受け手に見捨てられる。

「若手から小沢批判が出ない」と民主党を嘆く大手メディアが多いが、実は、自分たちこそ内部から改革できない危機感ない組織になっているという自覚が、組織全体にない。
「記者クラブ問題」「再販制度」「クロスオーナーシップ」、こうした既得権益がなくなったとき、今批判されていることから現実逃避するメディアは生き残れないという危機感はないのだろうか?

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前述した大手メディアの既得権益を一斉に剥奪する「メディア構造改革の時代」は、驚異的なスピードですぐ目の前に来ている。それなのに、大手メィアは驚くほど暢気だ。

例えば、一連の「検察リーク問題」で大手メディアの「反論という名の言い訳」を見ていると、悲しいほど説得力がない。新しい時代に対応できるセンスが見られない。
「自分たちはネット社会に対応できてる」と考えているんだろうが、自分たちへの批判をダイレクトに受けながら、結局「言い訳」をしかできてない現実が、センスのなさを何よりも表してる。

2ちゃん、アルファブログ、mixi、ニコ動、Twitter、なぜそこに人が集まるか?
そこには「説得力のある声」があり、しかも自ら声を発することができるからだ。
そうした新しいコミュニティを活用するセンスがないことは致命的だと言わざるを得ない。

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メディアの双方向性については、実は大手メディアこそ古くから取り組んでいた。
すべての新聞は昔から「読者・視聴者の声」を掲出し続けている。放送も視聴者を番組に参加させようとしてる。
しかし、受け手の「声」をメディアコンテンツの一部として利用しただけで、彼らは本気でその「声」を聞いていなかったのかもしれない。
少なくとも、大手メディアの経営者クラスは、受け手の「声」をきとんと聞いてはいない。
受け手の「声」の窓口となる担当者に危機感があっても、会社全体で危機感を共有するに吐いたらないし、経営者クラスの幹部には彼らの危機感が理解・共有できていない。

だから大手メディアは、ネットのクリエーターが生み出すツールを後追いで利用しているだけで、自ら新しいビジネスモデルを確立できないまま「失われた20年」が過ぎた。

会社としては、一応、双方向性対応している「フリ」をしておく。しかし対処はしない。したときは「言い訳」で現実逃避。これが大手メディアが危機感のない証拠だ。
昔から「読者・視聴者の声」を掲載続けかつては双方向性を模索していたはずの大手メディアは、何時からこんなに傲慢になったのか? いつ謙虚さを取り戻すのか?

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僕は、最近批判してばかりけど、まだどこか大手メディアに期待している部分があり、大手メディア批判者たちから「甘い」とよく言われる。しかし、出版と違って放送・新聞の世界は、大手マスメディアがまだまだ生き残ってもらわないと困る部分もある。「長い」「デカイ」、大手企業にはそれだけである種の価値がある。

甘いかもしれないが、大手メディアで受け手の「声」の窓口を担当している人たちには頑張ってほしい。
現代において「メディアの最前線」にいるのは記者でも幹部でもなく、実は読者たちであり、そこに繋がって彼らだからだ

彼らが説得力のある意見を会社の中に伝え、それを大手マスメディアがそれを謙虚に受け取ったとき、もう一度大手メィア信用できる時が来るかもしれない…って、やっぱり甘いかもね。


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「検察リーク」なんていらない社会に

現在、「検察のリーク」という問題が、いろいろと取り上げられている。

僕は、「検察のリーク」なんてものは批判されてしかるべきだと考えている。

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「リーク問題」の前に少々前置きを。

基本的人権を有する民主的社会とは、突き詰めれば「個人の尊厳を互いに認め合う事」であり、その社会では、国家が国民の権利を侵害する「冤罪」は、社会にとって何よりも重大な罪。極論として、殺人事件よりも冤罪事件の方が、社会が注視すべきことだというのが僕のスタンスだ。

「取り調べを完全可視化をすると、起訴率が下がり、犯人を取り逃がす可能性が高くなる」「取り調べを完全可視化するなら、同時に、警察や検察の捜査権限を拡大すべき」という意見があるが、これには違和感がある。
どちらを優先すべきかと言えば、民主社会の原理としては、個々の犯罪を見逃しても、国家犯罪である冤罪防止の方が優先されるべきだ。 もっとも現実の法整備上は「どちらを優先すべきか」というのはナンセンスで、どちらも段階的に同時進行すれば問題ないんだけど……。

さてここまでは前置きだ。

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「公務員のリーク是非論」は、冤罪問題と同じで、結局は社会の在り方の問題。ならば原則として「公務員のリーク」は認めるべきじゃない。

公務員まで話を広げると面倒なので、ここでは「警察・検察のリーク」に絞るが、警察や検察に限って言えば、「取り調べ完全可視化」と「公開公式会見」があれば、「検察のリーク」は必要ない。
現状は、情報が公開されてない中で国民が情報を得るために、必要悪として存在しているだけで、個々の事件について公式の見解が発信されていれば、リークの必要性はなくなる。

「検察のリーク」の問題は、意図的に世論誘導するためマスコミが利用された時、圧倒的に情報を持っている検察側が有利であり、それよりも情報の少ない被疑者も、被害者も、あるいはマスコミも、それに抗うのが困難になる。まして裁判員制度の中にいる一般国民は尚更だ。
前述した通り国家権力による国民の権利侵害は何より危険視すべきことなのに、情報を持つ検察側だけが有利な状態は異常だ。
現状はリークによって楽したいマスコミが、必要悪として自ら作り上げた「権力との馴れ合い」=「記者クラブ制度」を活用し、相手にも利用されているだけのことだ。

そのことで、部分的に情報公開されているかのように錯覚するけども、実際には、常に「検察からの一方的な情報」と「相手側の見解」と「マスコミの直感」という、極めて歪で曖昧な情報が、マスコミを通じて知らされているに過ぎない。現状の日本社会は、民主的社会としては異常だということを認識すべきだ。

そんな歪な状態の社会よりも、真っ当な情報が常に誰からもアクセス可能な状態になっている社会の方が、民主的社会として健全である事は間違いがない。だから「検察リーク」は、やっぱり批判されて当然だし、必要悪として存在するからと言って、許していいものではない。

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もちろん、これは検察組織の腐敗・違法行為があった場合の「内部告発」を否定するものではない。それから、公開されている情報のチェックや隠された情報を、マスコミやジャーナリストたちがどれだけ発見し真実の姿を報道できるか、そこで内部情報を得る事は、当然あってしかるべき。
僕は、こうしたジャーナリストたちの調査によって得られたものを指して「検察のリーク」と言っているわけではない(池田信夫は、「広義の意味でのリークは当然ある」と誤摩化しているが、そういう意味でリークを問題視しているのではない)

ということで、一方的に垂れ流される「検察リーク」の現状は、やっぱり批判されてしかるべき存在で、「取調べ完全可視化」と「公開公式会見」の実現とともに、段階的にでも解消すべきことだと思う。


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社会で起きる事のマインド

2月3日、週刊朝日の編集長が東京地検に出頭要請を受けた!──

こうした情報がインターネット上で飛び交い、「検察による言論弾圧か!?」とちょっとした騒動になった。
というのも、1月から週刊朝日では、ジャーナリスト上杉隆の検察批判の記事を大きく取り上げており、大手マスメディアでは取り上げない「特ダネ」をスクープ的に打ち出していたからだ。

そのことについては、山口一臣編集長がネット上で事の経緯や顛末を書いているので、興味のある人は読んでほしい。

お騒がせして申し訳ありません
http://www.wa-dan.com/yamaguchi/

誌面じゃ読めない「検察の『抗議』に抗議」のウラ話
http://www.wa-dan.com/kougisho/

2月5日、山口編集長が上記「お騒がせして申し訳ありません」という記事で正式に事情を説明したことで、この騒動は一応収束に向かった。

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3日と言えば浅草寺の節分会で撮影していて、たまたま休憩中に携帯で「週刊朝日が検察に出頭要請を受けた!」という情報を知った。しかし、取材中ということもあり、その後もしばらく忙しかったので、野次馬として騒動をじっくりと眺めることもできず、時おり事実経過を見ながら様子を伺っているという状態だった。

5日の山口コメントまで、ネットでは「祭り」状態と言われるような大騒ぎだったが、実際にはそれほど大騒ぎするほどの事でもなかったというのが実態のようだ。

そもそも、僕が知ったのは当事者である上杉隆が発信した情報だったけども、家に帰ってからネットで確認したところ、最初にこのことをネット上に流したのは有田芳生だった。
そのことを知った段階で、僕的にはかなり引いてしまった。
なぜなら僕は、10年くらい前から、有田芳生なんてジャーナリストだと思ってないし、その発言の信憑性を信じてなかったからだ。
まぁそれは置いておいて、そこに朝日新聞が「週刊朝日編集部に確認しましたが、出頭要請なんてありませんでした」と、中途半端に参加して、「祭り」は興奮と混乱の渦に巻き込まれていった。


当事者の上杉隆は仕方ないとしても、朝日新聞も「出頭要請なんてなかった」と中途半端な情報だけで事実経過を詳しく説明する事もせず、
これまた有田芳生が、朝日新聞の発信した情報に、中途半端な反論して煽っていった。中には、冷静に情報を流したフリーランス・ジャーナリストもいたが、朝日新聞も有田芳生も無責任で、火に油を注ぐが如く「祭り」を煽ったに過ぎない。
そのうちに「出頭定義論」なんてつまらないことでまた盛り上がる。

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そうして結局は、週刊朝日の山口編集長の書いている通りそれほど大きな問題ではなかったようだ。
週刊朝日の記事が事実であるか、検察の反論が事実であるか、そのことはとても大事な事だけど、今回の検察抗議については、これほど「祭り」になるほどの大事じゃなかった。

良いか悪いか別にして、検察や官庁が抗議する際に版元や新聞社を「呼び出す」なんてことは日常茶飯事だ。これを「出頭要請」と言えばその通りだが、大げさな事ではなく、まぁそれだけマスコミ(雑誌を含む)と検察や官庁なんて互いに近くて親しい存在だって事。
有田芳生は、互いの関係をよく知ってるんだから、中途半端な情報を出したり、検察を批判するのなら、のこのこ検察に出向くことが当たり前のマスコミも批判するべきだった。ところが有田芳生は、まったく客観性を欠いた情報まで垂れ流した。確実に祭りを煽ってたのだ。

余談だが、有田芳生がジャーナリストではなく、単なる野次馬だと痛感するのは、第一報段階から「普通、抗議があれば出向くのが社会の常識」などと煽ることに見られる。
有田芳生が本当にジャーナリストなら、「出頭要請」が当たり前の検察を批判するだけでは、無責任だ。有田芳生にはこうした態度は以前から見られ、僕は彼の事をほとんど信用していない。

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さて、それはさておき。今回の一連の「祭り」は、この社会の出来事をとてもわかりやすく表していたと思う。

「祭り」の参加者たちは、老若男女さまざまだったろう。社会経験の少ない若者も多かったと思うが、社会経験が豊富で、社会的地位のある人もたくさんいたはずだ。
しかも、有名ジャーナリストや巨大マスコミまで「祭り」に参加していた。そうしたメジャーな人たちが参加しているからこそ、祭りに参加した一般の人たちも、いつも以上に興奮したはずだ。

僕はこのところ、小沢一郎の一連騒動で、検察やマスコミの対応を批判している。
そうした「小沢騒動」の中で、検察の中で起きている事、国会議員たちの右往左往ぶり、どう見ても冷静さを欠いた大手マスコミの報道……、一般的に「エリート」と思われる人間たちも、今回の「祭り」で大騒ぎをしていた人たちと、実は同じレベルのマインドで動いていたにすぎないはずだ。

だからこそ、検察にも、政治家にも、マスコミにも、噂話にも、同等に「見る目」が必要になる。結局はメディアリテラシーの問題に収束してしまうわけだが、今回の「祭り」は、メディアリテラシーを考える上でも、とても参考になる事例だったと思う。


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責任のとり方として、朝青龍の引退は当然

昨日の夜、上野の辺りは雨がやんだので、板橋までスクーターで出かけた。すると、王子の辺りから雪が少しずつ舞い始め、板橋はそれなりの雪が降って来た。

で、今朝、板橋から帰ってくる時、板橋の路地には雪が積もってた。
今さらながら、板橋と上野なんて10キロ程度しか離れてないのに、随分と気候が違うんだなぁと実感。

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寒い中、スクーターで走っている時は、運転に支障がない程度に考え事をして寒さを忘れるようにしている。
スクーターを走り出してすぐ、信号で止まった時に横の車の中に朝青龍の記事が載っていたんで、朝青龍のことを考えて40分の道のりを過ごした。

夜にでもブログで書こうかなぁと思っていたら、夕方に朝青龍が引退する意向を示した。

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朝青龍の引退は「当然」だ。

僕の周囲には「朝青龍は引退する必要がない」などという人もいるが、「朝青龍が好きだから」という気持ちから引退に反対する人は別にして、責任論を持ち出して引退に反対するのは、ちょっと違うと思う。

日本社会はそういう責任のとり方を前提としている社会だ。
日本社会に問題がないなんて、まったく言うつもりはないが、少なくとも「今回の朝青龍には引退するほどの責任はない」なんて社会と、今の日本社会なら、今の日本社会の方がよほどまともだ。

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例えば、こんなケースならどうだろう?


高校野球の夏の甲子園出場をかけて予選を戦っていたある高校の野球部キャプテンが、予選出場中のある日、夜の10時頃に近所の公園で花火などをやって大騒ぎをし、その挙げ句に友人たちと乱闘騒ぎを起こして警察沙汰になった。
乱闘相手の高校生は全治1か月ほどの大怪我を負ったという情報もある。

この事件が発覚当初、騒動を起こした高校生は、学校や高野連に対して「夜中に兄弟喧嘩をして、近所に迷惑をかけてしまった。近所にも謝った。兄弟も仲直りした。反省している」と説明。そのまま予選をキャプテンとして勤め、見事に甲子園出場を決めた。

ところが、この乱闘騒ぎが明るみになり話題になると、今度は「よく覚えてない」と言い出し、その後何日も経ってから、「乱闘相手と示談書を交わした」と報告。それ以上の説明はしない。


このケースなら、下手をすれば高校全体が甲子園出場停止。高校は出場できても、乱闘を起こしたキャプテンは謹慎になり、甲子園に出場する事はないだろう。

あるいは、こんなケースはどうだろう?


さる大学のラグビー部のレギュラー全員が、大学ラグビー選手権の決勝前夜、深夜まで繁華街で酒を飲み、周囲の人間と乱闘騒ぎを起こした。

しかし、選手たちも大学も、このこと徹底的に隠蔽し、翌日の決勝戦に出場させ優勝した。

この大学ラグビー部は、この数年の間に、集団婦女暴行事件、集団大麻事件などを繰り返し、昨年ようやく、大学ラグビーの公式戦に復帰したばかりだった。
選手の問題、大学の対応、どちらに対しても批判が集中している。


このケースだと、大学選手権の優勝は取り消され、社会人と戦うことになる日本選手権の出場も認められなくなるだろう。

例え話を挙げればキリがない。

オリンピックやWBCやワールドカップサッカーに出場する日本代表が、大会出場のために海外に行き、試合の前日に酒を飲んで大暴れして、現地の警察が仲裁するほどの騒動を起こす。
その事を所属協会に報告せず、さらに明るみに出たら嘘をついて隠蔽工作をし、最後まで事実について説明をしない。

こんなことになったら、半端な批判じゃ済まないだろうし、責任も重大になるのが当然だ。

そこには、アマチュアもプロもない。日本の国技だろうが、世界的なスポーツだろうが関係ない。品格の有る無しじゃない。

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上に挙げた大学や高校の例は、団体競技だ。団体競技の場合、その選手だけじゃなく、チーム全体で責任を追及される。
僕は、高校の部活で、チームの一人が問題を起こすとチーム全体が連帯責任を負わされるというのは、全面的に肯定するつもりはない。むしろ、批判したい場合が多い。

しかし、今回は個人競技だ。そして、その選手個人は、その競技で最も高い位にあり、最も責任の重い選手だ。
さらに選手だけではなく、そのマネージャー、監督(親方)、そうした「チーム全体」にも問題があるのが明らかだ。

高校生や大学生は、1年間公式戦に出られなければ、下手をすると永遠に出場することはできないかもしれない。人生に大きな影響があるほどの責任を取らされるという事だ。
高校生や大学生でさえ、今回の朝青龍と同じような問題を起こせば、当たり前にように重大な責任を取らされる。そして、それは(議論の余地はあるとしても)けっして全面的におかしいと言えるほど、間違った責任のとり方じゃない。

上に挙げた高校野球や大学ラグビーと、大相撲にはもう一つ共通点がある。
文部科学省が所轄だという事だ。
高校や大学には厳しい処分を容認している大学が、「国技」とも言われる大相撲の、さらにその最も責任の大きな朝青龍に対して、甘っちょろい処分で納得するなんて、そんなことはあっちゃいけない。

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いま、朝青龍の引退会見のダイジェストを見た。
どうやら、事件については詳しい説明をしなかったようだ。
事ここに至っても、騒動の説明、隠蔽疑惑についての説明をする気も見せない。
事件報道について言いたいことはあるが、詳しい説明する気はなく、引退という形で騒動の責任を取るという。

僕は、大相撲にしても高校野球にしても、あるいは一般社会での出来事にしても、「日本的な責任のとり方」について、問題がないとはいわない。
ただし、今回の朝青龍については、まったく同情の余地はないし、引退が当然であり、むしろ、これほどの問題を起こしても退職金や慰労金がでる「引退」は甘く、「除名」「廃業」の処分こそ妥当だったと思ってる。

個人的には、そもそも、朝青龍はあの時点で横綱に精進すべきじゃなかったと考えている。
横綱になったとしても、あの時点ではなく、もっと大相撲の最高位に相応しい人間になってから、横綱にするべきだった。そういう意味で、そもそも横綱審議委員会の「内規」に問題があるし、見直すべきだと思うが、まぁそれはまた別の機会に……


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