今年からしばらく、映画だけじゃなくて、歌舞伎も芝居も少し控えている。
なのでビデオやテレビ以外では、試写を含めてたまにしか映画を観ていない。
それにしても、今年は話題作や期待作が、ことごとく外れている。
映画が楽しめないなんて、なんて不幸な一年なんだろう……。
ということで、今年の後半で個人的に最も期待していた東宝の大作『沈まぬ太陽』は、期待通りに素晴らしい出来になっているだろうか、と映画館に足を運んだ。
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最初に結論を書いておくが、この映画、どんなに甘く評価しても「凡作」。本音ではもう少し辛口に言いたいが、まぁこの原作を映画化したという関係者の苦労だけは評価できることはたしかだ。
近年の大作で、必ずと言っていいほど絡んでくるテレビ局や新聞社だが、本作の「制作委員会」にテレビ局も新聞社も入っていない。航空会社をスポンサーに持つテレビ局や新聞社などは、制作に絡みたくてもできなかったのだろう。つまり、現在のテレビ局や新聞社は、この作品の制作に協力し、山崎豊子が問いかけようとしたテーマを掘り下げることができないということだ。これは、今のマスメディアの本質を表している。
そういう意味で、この作品が映画化されたということに敬意を表してギリギリ「凡作」ってことにしておきたい。
これから先は、この映画の駄目さ加減について長々と書いているだけなので、映画を楽しんだ人や、これから楽しむつもりの人は読み飛ばしてもらった方がいいと思う。
山崎豊子の同名作品が原作だ。
原作は、他の山崎作品と同様に、いくつかの大きなパートに分けて実在の事件や社会問題をモデルにし、主人公たちの人生などをリンクさせている作品だ。
70年代、企業によって行われた労働組合分裂工作をリンクさせ、かつて「国民航空」の労働組合委員長として活躍しながら、会社の露骨な報復行為で左遷人事にあい、精神崩壊の寸前まで追い込まれ、左遷先のアフリカでハンティングに没頭する主人公を描いた「アフリカ編」。
1985年に起きた日航機墜落事故(作中では「国航ジャンボ機墜落事故」とされる)について、実在する被害者や遺族の姿を紹介し、日航機墜落事故がどんな事故だったのか、またその遺族たちがどのような深い悲しみを受けたのか、航空会社はどのような対応をとったのか、そして、遺族たちはどうやって希望を見出していったのか、主人公を「遺族お世話係」として狂言回しにすることで、モデル小説というよりも、丁寧なドキュメンタリー、ルボルタージュとして描いた「御巣鷹山編」。
そして、墜落事故以降、腐敗している航空会社を立て直すために政府の肝煎りで経済界から迎えられた「会長」の右腕となった主人公を通して、半民半官企業の組織腐敗、企業内の醜い争い、さらに日本政府の政治的駆け引きなど、山崎豊子らしく日本社会に切り込んだ「会長室編」。
この3編による長編小説だ。
とくに「御巣鷹山編」については、「小説」としては反則と言っていいほどにリアルな描写のルポルタージュとなっていて、その点だけで言えば、山崎豊子の作品の中でも秀逸な一冊だと思う(例えば『二つの祖国』でも、やはり東京裁判をモデルに事実関係をなぞっているが、裁判記録をベースとしているせいか、この作品ほど心が揺さぶられる表現は少ない)。
原作に少しでも思い入れのある作品が映画化された場合、大抵は厳しい評価になってしまう。だから、インターミッション(休憩時間)も含めておよそ3時間半の間、できるだけ原作を読んでいることを前提としないで、映画のいいところを見つけようと試みた。
しかし、残念ながらこの映画の脚本や監督は、まったくと言っていいほど評価できない「下手糞な映画」だった。
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まず一番気になるところは、全体の構成だ。
映画が始まって数十分、基本的に時系列通りに進んでいく原作とは違い、時系列をバラバラにして60年代、70年代、80年代のカットがランダムに流されていく。
昔からよくあるクロス・カッティングという手法だが、とくにこの数年、世界的にも度々使われていく手法で、観客を軽く混乱させながら、ストーリー展開を最終的に上手く結びつけて、時系列をバラバラにした妙味によって観客の想像力を刺激し快感を与える。
ところが、この映画では、前半のランダムな時系列の構成が、まったく効果的ではない。ただただ、時系列をバラバラに貼り合わせただけで、まったく意味がない。
「長い原作をまとめるにあたって、時系列をバラバラにすることで何となくまとまっているように展開できそうだし、最近流行っている手法だから、取り入れちゃおうかな」って程度の思いつきで脚本を書いたしか考えられない。むしろ、時系列通りに進めた方が、全体のストーリ展開がスッキリして、長時間、画面を見続けなければいけない観客の負担が減るはずだ。
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また、途中でインターミッションが入る。つまり休憩時間、芝居でいうところの「幕間」だ。
最近は少なくなったが、昔の大作映画では、インターミッションが入ることも少なくなかった。昔は、高温の映写機によってフィルムが熱くなり過ぎて火事になることもあり、そうした対策からも長時間の映画の場合は休憩時間が入れざるを得なかったが、最近はそうした必要性も少なくなっているため、インターミッションの入る作品は少なくなった。
この映画では、あるシーンで突然カットアウトして画面が暗転し、インターミッションの告知が入る。何の前触れもなく、テレビドラマなどのCM前の盛り上げや、余韻や、フェードアウトなど編集処理などもなく、突然インターミッションが入る。
何であのシーンで、あのタイミングでインターミッションを入れたのか、どう考えてもわからない。
どのシーンでぶった切ろうと、製作者の勝手にすればいいのだが、そのインターミッションの入れ方も、映画製作者の手法の一つとして評価されて然るべきだ。
映画の場合は、視聴者がチャンネルを変えてしまう可能性のあるテレビドラマと違って、過度な演出は必要ないが、それでも休憩の間に、観客が、それまでのストーリーを整理したり、あるいは今後の展開を予想しつつ期待したり、ストーリー上の不明な点について想像したりすることを前提としてインターミッションを作るべきだ。その点は、芝居とまったく同じだ。
しかし残念ながら、あのタイミングでインターミッションが入る合理的な理由が皆目見当たらない。
もしかしたら、インターミッションが入ることを考えずに編集が終わった後、観客層を考慮して、展開はまったく考慮せずに適当な場所で休憩時間を入れたんじゃないだろうか? そんな杜撰な編集を想像してしまうほど、なぜあそこでインターミッションが入るのか不明だし、上映再開後、休憩が入ったことなんてまったくおかまいなしに、突如としてストーリーが始まっていく。
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全体の展開についてもう一ついうと、これは脚本の問題が大きいのだが、原作のストーリーを主人公目線でしか追わずに脚本を書いているために、主人公以外の周辺で起きている出来事が、あまりにもおざなりだ。
出てくる登場人物の絡み方が断続的で、ストーリーに連続性がない。観客が忘れた頃に、突然、重要な登場人物が再び現われる、そしていつの間にかその登場人物の存在が消える、その連続だ。
そういえば、主人公が左遷されたいたアフリカから、いつ、どんな経過で帰国したかも説明されていなかったにもかかわらず、前述したバラバラの時系列の中で、左遷されている主人公と、帰国してパーティに出席している主人公がランダムに登場するので、原作を知らずに観ている人は「主人公はいつ帰ってきたんだ? 帰ってくるためにプライドを捨てなくてはならないはずだが、どうなったんだ?」と疑問を持つだろう(原作では、いろいろあって主人公の左遷が国会問題になり、救済措置で帰国でき、そして件のパーティまで10年ほどの時間が経っていることになっている)。
脚本家は、原作を削り過ぎて説明不足になっていることは意識しているはずだ。だから、台詞の中で何となく説明を入れていく。脚本のいたらなさを、豪華なキャストの演技で補完しているのは、この映画の数少ない救いだ。しかし、脚本の粗さに対してアリバイ的に台詞に入れているだけだから、けっして自然な台詞ではないし、おざなり感がタップリだ。観客はそうした粗さを、何となくストレスとして感じながら、主人公以外の登場人物の変化を見続けなければならない。
普通、これだけ多くの登場人物を描く場合、ある程度群像劇として、主人公とは離れたエピソードについても深く描写して、全体のストーリーにふくらみを持たせる。もちろん原作はたっぷりと膨らんでいる群像劇だ。
しかし、この映画の脚本は、登場人物はたくさん出しておきながら、主人公と直接関係のない描写については、ほとんど膨らませない。
だったら、むしろ登場人物をもっと削りこんで整理してしまうとか、ストーリー展開そのものを絞り込んでしまえばいいのに、原作のスケールの大きさを中途半端に表現しようとしているために、1960年代からおよそ30年間の長い時間を展開させる。しかし、ストーリーの奥行き感がまったく感じられない。
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「あの長編を200分にまとめただけでも立派」という評価はあまりにも馬鹿馬鹿しい。それが原作ものの映画を作る宿命だからだ。「大作をまとめた。そのまとめ方が優秀なのか、あるいは駄目なのか」で論じるべきで、原作のダイジェストを映像化するだけでは意味がない。
そういう意味で、この脚本のまとめ方は、まったく誉められない。
かつて、山崎豊子の大作をまとめたドラマや映画は数あるが、それらの作品と比べれば一目瞭然。まぁ、例えば、橋本忍が脚本を担当し、山本薩夫が監督した映画版『白い巨塔』などは本当に意味での名作で、今回の作品が足下にも及ばないのは仕方ないとも言えるのだが……。
比較という意味では、昨年公開された原田眞人監督の『クライマーズ・ハイ』が、やはり日航ジャンボ機墜落事故を取り扱っている作品だが、御巣鷹山の悲惨な描写は、『クライマーズ・ハイ』の方が圧倒的に素晴らしい映像になっている。そもそも、『沈まぬ太陽』のような群像劇こそ、原田眞人の得意とするところで、どうせ映画化されるなら原田眞人で観たかった気がする。
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こんな下手糞な展開の映画を作った脚本家や監督は、およそ3時間半もの長時間映画を製作するだけの技量やセンスを持ち合わせていないとしか評価できない。
はぁ……、全体の構成だけで、これだけ不満を言ってもまだ言い足りないほどだ。
映画の具体的なストーリ−については、ほとんど絡めずに評価しただけなのに……。原作と比べたら、この何倍もの文字数を、ただただ批判だけに使うことになってしまうだろう。
そもそも、なぜ「沈まぬ太陽」なのか、なぜ主人公はハンティングに没頭したのか、なぜ「アフリカ編」「御巣鷹山編」「会長室編」の3編を一つの作品の中で表現しようと思ったのか、なぜアフリカの大地で主人公は感情を爆発させ、そして再びアフリカの大地に立ったのか──
原作の言わんとしたことについて、この映画だけで理解することはまず出来ないだろう。
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最後の最後になったけども、やはり飛行機墜落を描写したシーンは、不覚ながら涙が込み上げてきた。実は原作を読んでから、事故の機内で書かれた遺書について、その言葉を思い浮かべるだけでも目頭が熱くなるのだが、映画でもやはり感情が揺れた。
ただ、これも、事故シーンだけでなく、その後の遺族たちの苦しみや葛藤について原作で山崎豊子が描いた描写に比べれば、その感動は原作から得られるものの方が圧倒的に大きい。
一つくらい映画で誉めるところを書いておこうと思ったが、そうするとついつい原作と比べてしまう。するとどうしても原作を読んでほしいと思う。
原作を読まずにこの映画を観て感動できるとしたら、それは、これほど監督や脚本がひどくてもそれを補ってあまりあるほど、原作が訴えいるテーマが現代人にとって心動かされるものだったということだと思う。
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ということで、今回はあまり薦める気にならない作品について紹介した。
山崎豊子作品の無駄遣い、豪華なキャスティングの無駄遣い、そして観ている観客の時間を無駄遣いしている。
3時間半もの時間をこの映画で潰すくらいなら、文庫本5冊にもなる原作を3時間半で斜め読みした方が、よほど山崎豊子が問いかけたテーマについて理解できるだろう。そう感じてしまうものだった。
最初に書いた通り、本当は、映画化されたことだけでも評価したいと思う。
こんなに批判を書いておいてなんだけども、やっぱり映画化されたことで映画館に足を運び、そしてその中から原作を手に取る気になる人がいるとしたら、それだけでも価値があると思う。
ただそれでも、否それだけに、極めて「残念な映画」だった。
【作品名】沈まぬ太陽('09/日本/202分)
【原作】
【監督】若松節朗
【脚本】西岡琢也
【出演】渡辺謙/三浦友和/松雪泰子/
鈴木京香/石坂浩二
【公式サイト】http://shizumanu-taiyo.jp/
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