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選択するということ


よく、「カレー味のうんこ、うんこ味のカレー、食べるならどっち?」なんていう質問に対してを“究極の選択”などという。

まぁ、この質問に関していえば究極でもなんでもなく、「うんこ味のカレーを食べる」という人が多いだろう。
僕は以前、ある人間関係においてやや強制的にドリアンを定期的に食べなくてはならなかったんだけど、いつも(これって、絶対にうんこ味)と思いながら食べていた。本当にうんこ味かどうかは別にして、あの味を思えば、うんこ味を喉に通す事はそれと大きく変わるとは思えない。そもそも、まずいカレーを食べても衛生的な不安はないが、どんなにおいしくてもうんこを食べるのは衛生的に不安が大きい。

おっと、こんなくだらない事を力説するのも馬鹿馬鹿しい。

言いたいのは、こんなくだらない質問なら、自分の価値観やアイデンティティによっていくらでも選択は可能だという事だ。
なぜならば、こういう質問の多くは、結局は自分だけの責任で選択すれば済む問題だからだ。

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では、こんな質問はどうだろう。
「他人の子どもを殺さないと、自分の子どもが殺されてしまう」という局面で、他人の子どもを殺すことができるだろうか?
これは、自分の命の選択ではなく、自分以外の命の選択だ。

僕はこれについても、子どもが出来たあたりから結論を出していて、結論を先に言えば、「たとえ自分の子どもが殺されても、他人の子どもは殺さない」という事にしている。
自分の中で、命の重さという事においては、他人だろうと自分だろうとまったく差がないからだ。つまり、どちらも自分の命ではない以上、僕には結論は出せないわけで、自分の子どもが殺されることで他人の子どもが助かるなら、それで仕方ないということだ。
もちろん、この質問が「他人を殺さなければ、自分が殺されてしまう」という局面だったとしても、同じように他人を殺す事はない。そして、僕が戦争に対してはっきりと絶対反対という態度を取っているのは、そういう覚悟を持っているという事だ。

そのことは自分の子どもたちにも、はっきりと明言している。

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例えば、自分が病気になったとする。
Aという治療を施せば、自分のこれまでの人生と同じように歩むことはできないが、長生きする可能性は高い。
Bという治療を施せば、自分のこれまでの人生と同じように歩むことはできるが、長生きする可能性は低くなる。
こうした時にどんな選択をするか、癌のように人生観を問われる病気を告知するようになった現代、それぞれの方たちが葛藤し、選択している事だろうと思う。

忌野清志郎は、ボーカリストとして喉にメスを入れる事を拒んだ。癌転移になってからは、放射線治療も拒んだという。
それはそれで、忌野清志郎であり栗原清志としての人生の選択だったわけで、僕には何も言う権利がない。

僕の周りには、癌や治療困難な病気と闘っている人が何人かいる。

みんな、自分の哲学によって、それぞれの局面で自分なりに選択をしているんだろう。
自分のアイデンティティや人生で培ってきた哲学で、ある程度結論を持ちながら選択されているようだ。

僕はそうした選択をしている人たちに対して、いつも何も言えず、ただただ背中を見ているしかない。
せめて、馬鹿みたいに思われてもいいから明るく降るまい、どんな困難な選択を迫られている人にも微笑みかけていきたいとだけ思っている。

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子どもを持つ親の中には、もう少し複雑な選択を迫られる局面がある。

子どもの命に関わる選択は、どういう結果になるとしても、その選択肢を選んだ親の責任になる。本当は親に責任なんてないんだけども、もし悪い結果になってしまったとき、「あの時、別の選択をしていれば……」という後悔の念を拭うことはできないだろう。
自分の命であるならば、「自分が選んだ事だ」と開き直ることもできるだろうが、自分の子どもの命だから、そう簡単には開き直れない。

子どもが出来る前、大学生くらいの頃から、僕はこういう選択をいつかしないといけないと考えてきた。
そういう選択を迫られたとき、自信を持って選択できない人は、子どもを作るべきではないと考えていたので、自分に子どもが出来た時も、本気で中絶することを考えた。なぜなら、僕にはそんな選択をする心構えがまだなかったからだ(だったら完全な避妊しろって話ですよね。そうなんですよ。でもね、そのへんが僕の若気の至りでして、だからこそ中絶せずに子どもを育ててきたわけです)。

結局、そういう局面になったときの選択肢を選べないままに僕は生きてきた。
実際に親が子どもを育てる時に迫られる選択は、「どちらも危険と安全が同じくらいのパーセンテージ」という時は少なく(ほとんど存在すらなく)て、どちらかが安全から危険に大きく切り替わったときに、消去法で選択すればいいという局面が、圧倒的に多い。
だから、僕は選択肢を選べないまま、選ばないまま生きてきた。

そんな僕が40歳になってから、「不惑」という言葉に少し拘っているのは、僕が不惑とはほど遠い、まだまだ未熟な親であると感じているからだ。

え? そんな事をいちいち考えて親をやってる奴は少ないって?
まぁ、そりゃそうだ。

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去年、僕と同じ年の友達が、高齢出産の初産で元気な赤ん坊を産んだ。
そして、今年の春、別の少し若い友達に子どもが生まれ、この秋には、後輩の子どもが生まれる。
これからも、もっともっと僕の周りには新しい命が芽生え、それと同時に、親になる奴が増える。

僕も大学生の頃と違って、「こんなことを考えておかなければ、親になるべきではない」なんて青臭い事は言わなくなった。
でもまぁ、親はいろいろ選択を迫られることがあるので、どんな困難な選択を迫られるとしても、冷静に判断できるだけの覚悟は、いつでも必要なんだと思う。

どんな選択をするかは、それぞれが決めるしかない。「正解」はたくさんあるはずだし、きっと「不正解」なんてものはないんだろうと思う。

自分の事だけを考えていれば良かった人間が、自分以外の命の重さを感じながら生きることを選択したとき、親になるってことなんだと思う。

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