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2009年7月

『浅草においでよ!』H20年度版より【8】

「浅草においでよ!」平成20年度版より

粋な街 花の街 浅草さんぽ道

明るく、気さくで、親しみやすい
花街を彩る浅草芸者 [その2]

現在、東京には新橋をはじめ6つの花街がありますが、浅草には10軒の料亭と約50人の芸妓衆がいて、浅草花柳界を盛り上げています。
聖子さんは、踊りを仕事にしたいと芸者になった、人気の浅草芸者。私たちにとって、馴染みのあるようで、なかなか詳しく知ることのできない「芸者」について、少しだけ教えていただきました。

この記事は、『浅草においでよ!平成20年度版』に掲載された記事を、一部加筆・修正して転載したものです。

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■観光イメージ役、伝統文化の担い手……
■浅草芸者の“仕事”

 芸妓衆の仕事は、さまざまです。大きな目的としては、料亭のお座敷に来る客を「もてなす」ということ。
 まずは、踊りや音楽で芸を披露します。芸者とは「芸を売る者」で、日頃から稽古に励みお座敷で披露するのです。また、お座敷の遊びとしていくつかのゲームがあります。有名なものでは「とらとら」「金比羅船々」などがありますが、二人で勝負をして、負けると杯を飲み干す「罰杯」となります。
 もちろん、お座敷の基本は、客が会話や飲食を楽しむところ。踊りやゲームだけではなく、会話や飲食の間をとりもって、コミュニケーションの潤滑油となることも大事な「もてなし」です。

 こうした、お座敷でのもてなしのほかに、浅草芸妓衆は、もう一つの大きな役割を担っています。
 それは、観光地として賑わう浅草のあらゆる行事やイベントに華を添え、浅草の伝統文化を披露することです。浅草寺の節分会、金竜の舞、東京時代まつり、羽子板市、そして浅草でもっとも大きなイベントである三社祭など、普段は観音裏の料亭でしか見られない芸妓衆が、地元の行事の際に表へ出てくるのも浅草花柳界の特徴です。
 これが東京の他の花街との大きな違いで、こうした地域に根付いた活動や、浅草という下町気質が、明るく、気さくで、親しみやすい浅草花柳界の雰囲気を作り出しています。

「昔のように『一見さんはお断り』という料亭さんも少なくなったので、今のお座敷は以前に比べて敷居が低くなっていると思うんですけど、それでも花柳界のことを知らないと、芸者をお座敷に呼ぶのはちょっと勇気がいるかも知れませんね。
 でも浅草の芸者衆は、浅草の伝統行事に参加して踊りを披露させていただいたり、余興に華を添えさせていただいて、地域の方々とお付き合いしていますから、観光に来た皆さんの前に出ることも多いんですよ。
 今年は、私たちがいつもお稽古している踊りや邦楽を披露する『浅草おどり』(註2)が7年ぶりに開かれるんです。もちろん、私も舞台に立たせていただくことになっています。ぜひ観にきてください」

 観光イメージ役として、また伝統文化の担い手として、浅草花柳界は、浅草と切っても切り離せない存在なのですね。


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(註2)
「浅草おどり」
明治以降、関西では京都の「都をどり」など、芸妓衆による大きなイベントが開かれていた。それに対抗する形で、1925年(大正14年)に新橋の芸妓衆による「東をどり」が成功すると、東京の各花街で芸妓衆の芸を披露するイベントが開かれるようになった。「浅草おどり」は、戦後の浅草復興の一環として開かれて以降、浅草公会堂で不定期的に開かれ、2008年、7年ぶりに開催。
浅草芸妓衆が、日々の稽古で鍛えた伎芸を披露し、花街文化としての浅草の「粋」を舞台いっぱいに展開する。また、幇間が出演するのも「浅草おどり」の大きな特徴の一つ。かつては花柳界に欠かせない存在だった幇間も、現在では全国で浅草に所属している4人だけとなってしまった。つまり、幇間の芸が見られるのも、浅草ならではの特徴で、これも大きな楽しみの一つとなっている。

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『浅草においでよ!』H20年度版より【7】

「浅草においでよ!」平成20年度版より

粋な街 花の街 浅草さんぽ道

明るく、気さくで、親しみやすい
花街を彩る浅草芸者 [その1]

現在、東京には新橋をはじめ6つの花街がありますが、浅草には10軒の料亭と約50人の芸妓衆がいて、浅草花柳界を盛り上げています。
聖子さんは、踊りを仕事にしたいと芸者になった、人気の浅草芸者。私たちにとって、馴染みのあるようで、なかなか詳しく知ることのできない「芸者」について、少しだけ教えていただきました。

この記事は、『浅草においでよ!平成20年度版』に掲載された記事を、一部加筆・修正して転載したものです。

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■日本舞踊という“芸”を仕事にするため
■芸者の道を選んだ

 一口に「芸者」「芸妓衆」といっても、芸妓の仕事は、いくつかの役割に分類することができます。

 まず、見習いとしてお座敷に上がる「半玉」。「お酌」とも呼ばれますが、京都では「舞子」と言いお馴染みとなっています。「半玉」は、「玉代」(芸者を呼ぶための料金。花代ともいう)が半分だった事に由来しています。
 半玉がやがて一人前とみなされると「一本」と呼ばれるようになります。これは、江戸時代の芸者の玉代が「線香1本でいくら」と、線香の燃え尽きる時間で料金が決められていたためで、1本分の玉代をもらって初めて一人前の芸者として認められたということになります。
 そうした「一本」の芸者たちが、踊りを担当する「立方」と、三味線や唄や鳴り物などの演奏を担当する「地方」に分けられます。
 また、今では芸者といえば女芸者を指しますが、芸者が生まれた頃には男芸者が数多く存在していました。そうした男芸者がやがて少なくなっていくと、「幇間」あるいは「太鼓持ち」と呼ばれるようになりました。落語の世界にも、『うなぎの幇間』『愛宕山』など、幇間を主人公にした有名な噺が数多く、幇間はお座敷遊びに欠かせない存在だったことがうかがえます。

 こうした芸者をすべて総称したものが「芸妓」「芸妓衆」という言葉で、「芸者さん」「半玉さん」「お酌さん」、あるいは関西で「芸子さん」と、親しみを込めて呼ばれています。

 昔は、幼いうちに親の借金の形に身売りされて芸者になることが多かったようですが、もちろん、今ではそんなことはありません。代々花柳界に関わっていて芸者になるほか、「和服を着る仕事がしたい」「華やかな芸者さんに憧れて」などの理由で、高校や大学を卒業してから、花柳界に入る人がほとんどです。

 浅草の人気芸者、聖子さんは、日本舞踊が好きだったために、浅草花柳界に入ったそうです。

「私は出身が新潟なんですけど、3歳の頃から、母の影響で踊りを始めたんです。高校を卒業する前から、長年やってきた踊りを活かせる仕事がないかしらって考えるようになったんですね。その時はまだ、花柳界のことも芸者のことも何も知らなかったんですけど、たまたま芸者が踊りを活かせる仕事であるということと、浅草に花柳界があることを知って、詳しく話を聞いてみたいと思ったのがきっかけです。
 それで、見番(註1)に問い合わせてお話を聞いて、芸者になることを決めました。最初は、見番の事務長さんからも、遠くから上京して芸者になるのは相当な覚悟が必要だからってお話いただいたんですけど、それでも絶対に芸者になるって決めて上京してきたんです」


→→[その2]へつづく

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(註1)
「花街のシステム」
戦前の花街は、芸妓が所属する「置屋」、芸妓を呼んでお座敷を提供する「待合」、料理を作って出す「料理屋」の3つの業種で成り立っていた。そのため、「三業地」とも呼ばれた。戦後、待合と料理屋を合わせて「料亭」と呼ぶようになった。その置屋と料亭の仲介役となるのが、「見番」と呼ばれる組合制度。
客の要望に合わせ料亭が見番に芸妓衆を手配する。見番は、各置屋と調整をして料亭に芸妓衆を送りだす。
浅草では、料亭や置屋が所属する「東京浅草組合」が見番となっており、料亭と置屋の手配のほか、浅草の行事や地域とのパイプ役も担っている。
また、芸妓衆の日頃の稽古場としても場所を提供しており、浅草花柳界全体を統轄する役目として、欠かせないシステムだ。

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『浅草においでよ!』H20年度版より【6】

「浅草においでよ!」平成20年度版より

浅草には、江戸の情緒が生きている

桂文珍 インタビュー

この記事は、『浅草においでよ!平成20年度版』に掲載された記事を、一部加筆・修正して転載したものです。

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桂文珍
かつら・ぶんちん

1970年に桂小文枝(五代目桂文枝)に入門。若い頃から注目株として高く評価され、「花王名人大賞」など数々の賞を受賞。また、テレビでも番組司会を務めるなど、お茶の間の人気者となる。近年はとくに高座での人気が高く、2007年10月から2008年4月にかけて、全国52か所を巡る独演会ツアーを成功させる。プライベートでは、バイク、乗馬、飛行機操縦など、多趣味な面も。著書、DVDなども多数

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 2006年11月に初開催し、現在では毎週末に雷5656会館で開かれている「よしもと浅草花月」。名前の通り吉本興業所属の芸人が集い、あらたな注目スポットとして浅草で人気を集めている。その「浅草花月」が、今年7月から月に1度“浅金寄席”と銘打って、上方落語の寄席を開いてる。桂三枝、笑福亭仁鶴とともに“浅金寄席”の三本柱となり、定期的に高座へ上がる桂文珍師匠に、お話をうかがった。

「昔から吉本は、浅草には何かとお世話になってきたんですが、『浅草花月』っていう場ができたことで、こうして定期的に皆さんとお会いする機会が増えたってことですね」

 上方落語界の念願だった定席の寄席「天満天神繁昌亭」が2006年に大阪で建てられ、上方落語会は今、活気に溢れている。

 「競争原理のなかで磨かれていくものもあるが、社会資本のようにある程度守ってあげなくちゃいけない芸というのがあって、寄席で若い噺家が芸を磨くっていうのは、とても重要なんですね。そういう意味では、『繁昌亭』も、『浅草花月』も同じです。若手を育んでいくところがあって、そこで芸を磨いた人たちが、あらゆるエンターテインメントを相手にマーケットのなかで勝負していく。その両方の場が必要なんですね。もちろん若手だけじゃなく、私らも皆さんの前で修行させていただくと……、ものすごい模範的な回答だったかな」(笑)

 若い頃から江戸落語の噺家たちと交流を持ち、東京の独演会でも常に人気を集めている文珍師匠は、浅草の風情についてもよくご存知だ。

 「浅草の人たちっていうのは、芸人にとても暖かいですよね。それが、浅草って街の空気なんでしょうね。実はね、普段着の着物や和装小物は、浅草で揃えてることが多いんですよ。この帯も新仲見世通りのお店ですし、祭道具のお店で小物なんかを揃えてるんです。食べ物のおいしい店も多いしね。だから、ちょくちょく一人で浅草の街を歩いてるんですよ。そうすると、『師匠、今日は出てるの?』なんて気軽に声を掛けてくれてね。おしゃべり上手の人も多いしね。そういうところは、大阪に似ている部分も感じますね。いつの間にか、東京はどこか余所々々しい街になってますけど、東京というか、江戸の日本人ていうのは、本当はそういう国民性だったんでしょうな。だからね、観光に来て東京駅の周りとか観ると、冷たい感じを受けるかもしれませんが、浅草に来れば『どっこい江戸情緒が生きている』って感じることができるんですね」

 江戸情緒の香る浅草に来て、「浅草花月」で上方落語を楽しむのも、オツというものだろう。


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『浅草においでよ!』H20年度版より【5】

「浅草においでよ!」平成20年度版より

縁ある噺家が語る、浅草の魅力

三遊亭歌る多 柳家小里ん インタビュー[その4]


昨今の落語ブームで、落語を聴きに浅草へ訪れる人が増えている。
そこで、浅草にお住まいの柳家小里ん師匠と三遊亭歌る多師匠に対談をお願いした。
落語ブームについて、そして浅草の魅力やお薦めの楽しみ方など、浅草をよく知るお二人から、興味深い話を聞くことができた。──

この記事は、『浅草においでよ!平成20年度版』に掲載された記事を、一部加筆・修正して転載したものです。

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■落語に出てくる昔の情景を思い浮かべながら
■浅草を散歩する

——お二人から、この『浅草においでよ!』の読者の皆さんにお薦めする浅草の楽しみ方というのがあれば、ぜひ教えていただけませんでしょうか?

歌る多 最近は着物ブームっていうのかしら、着物を着る方も増えていると思うんですけど、浅草にくれば頭の天辺から足のつま先まで、全部揃いますから、そういう楽しみ方で浅草に来る人もいるんじゃないかしら。

小里ん 銀座の呉服屋だとか違って、高級じゃない物が揃うっていうのもいいんだよ(笑)。

歌る多 桁が一つくらい違うかも知れませんね(笑)。お店の人も親切ですから、着物に慣れてなくって何となく興味を持ってるだけで浅草に来ても、安心して一式揃えることができちゃうのは、すごく有り難いと思いますよ。

小里ん 僕は、やっぱり観音裏の雰囲気が好きなんですよ。歩って風情を感じるだけでもいいんだよね。何となく花街の艶っぽさもあって、それでいて落ち着いた雰囲気っていう感じだね。旨い店を知ってればそこに行きながらでもいいし、旨い店を見つけるためでもいいんだけど、そうやって何かを食べに行ったついでに、観音裏を散歩でもしてくれれば楽しんでもらえるんじゃないかな。

——落語の噺のなかで浅草の風情が出て来ることもあると思うんですが、浅草の街が出てくるお薦めの噺はありますか?

歌る多 私が最近、好んで高座にかけているのは『悋気の火の玉』ですね。浅草の花川戸に店を構える堅物の旦那が根岸にお妾さんを作るんですけど、嫉妬する本妻さんとお妾さんが火の玉になって、竜泉にある大音寺の上でぶつかり合うんです。

小里ん 場面として浅草が出てくる噺はいくつもあるけど、浅草じゃないと絶対に駄目だって噺っていうのは、実はそんなに多くないんだよね。そういう意味じゃ、『付き馬』なんていいんじゃないかな。吉原から浅草までの様子を説明しながら噺を進めていくわけだから、浅草の情景を知るって意味じゃ面白いよね。

——お二人の『悋気の火の玉』や『付き馬』を聴いてから、当時の浅草を思い浮かべながら散歩するのも楽しそうですね。最後に読者に向けて一言メッセージをお願いします。

歌る多 浅草にお寄りの際には、ぜひ演芸ホールにも足をお運びください。

小里ん 寄席には色んな楽しみ方があるんで、まぁ気軽に楽しんでいってください。


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『浅草においでよ!』H20年度版より【4】

「浅草においでよ!」平成20年度版より

縁ある噺家が語る、浅草の魅力

三遊亭歌る多 柳家小里ん インタビュー[その3]


昨今の落語ブームで、落語を聴きに浅草へ訪れる人が増えている。
そこで、浅草にお住まいの柳家小里ん師匠と三遊亭歌る多師匠に対談をお願いした。
落語ブームについて、そして浅草の魅力やお薦めの楽しみ方など、浅草をよく知るお二人から、興味深い話を聞くことができた。──

この記事は、『浅草においでよ!平成20年度版』に掲載された記事を、一部加筆・修正して転載したものです。

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■浅草で暮らしているからこそ分かる
■浅草の魅力

——話は変わりますが、お二人とも幼い頃から浅草という街をよくご存知なわけですが、生活者として、浅草の魅力というのはどういうところでしょうか?

小里ん 僕なんかは、催し物が多いってことが一番だね。東京で育った人っていうのは、昔から変わらない山があったり川があったりっていうことは、ほとんどないじゃないですか。だから、子どもの時から変わらないっていうのは、季節毎の祭事だったり催し物ってことになるんだよね。浅草は、そういう変わらないことが多いんですよね。三社祭があって、ほおづき市があって、羽子板市があってなんてね。毎年全部に行くわけじゃないけど、いつでも催し物の近くにいて、「お、今日は植木市がやってるな」っていって顔を出したりするのが、僕は好きだね。

歌る多 私が感じるのは、住んでいる人たちの昔からの気質っていうかしら、生活している人たちの関係が、すごく緩やかでいいんですよ。うちの大家さんにはとても良くしてもらってるし、近所には小里ん師匠のような大先輩がいらっしゃるし、下町に暮らしている人たちの暖かさっていうのが、本当に居心地がいいんですよ。

小里ん ほかの繁華街と違って、住んでる人がたくさん残ってるっていうのが大きいよね。銀座だ新宿だってとこに比べると、そこに住んで、そこで仕事してるって人が多いでしょ。長く住んでて、そこで仕事してる人がいるから、新しく引っ越してきたりとか、よそから来た人に、優しく対応してやりたいって思うだろうし。遊びに行くだけとか、仕事をしに行くだけの街だったら、生活者との繋がりとかできないでしょ。

——たしかに浅草に住んでいる方たちって、昔から住んでいる人が多いから繋がりも強いですね。

歌る多 師匠といっしょに仲見世とか歩いていると、あちこちから声かけられるんで、まっつぐ歩いていられないですから(笑)。三社祭の時に師匠の家にお邪魔すると、こっちがセキュリティを心配しちゃうくらい、色んな方が自由に出入りしてますもの。師匠のお宅だけじゃなくて、皆さんのお宅で、そういう自由な行き来というか、お付き合いがあるんですよね。

小里ん 僕はずっといるから、あんまり意識しないけど、一時はさ、酔っぱらいだとか怪しい奴が多かったりして、「夜になると歩くの怖い」なんて言われて、若い人に嫌われちゃったこともあるかもしれないけど、最近は六区のあたりもきれいになったし、雰囲気も随分よくなったね。

歌る多 以前の浅草は夜が早くて、寄席が終わってからちょっとどこかに行こうって思っても、なかなかお店がなかったんですけど、最近は女の人や若い人でも、割と気軽に立ち寄れるお店が遅くまでやっててくれるし、外から浅草にくる方も、随分来やすくなってるんじゃないでしょうかね。

小里ん 一時期、「浅草って寂れたでしょ」なんて言われたけど、仲見世なんて寂れたことないんだよね。観光客なんて一年中来るんだから。寂れたのは、映画に来る客が少なくなった六区の辺りだったんだよね。でも、ROXができたり、若い人向けの店ができたりして、また最近になって盛り上がってきてるよね。

→→[その4]へつづく

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『浅草においでよ!』H20年度版より【3】

「浅草においでよ!」平成20年度版より

縁ある噺家が語る、浅草の魅力

三遊亭歌る多 柳家小里ん インタビュー[その2]


昨今の落語ブームで、落語を聴きに浅草へ訪れる人が増えている。
そこで、浅草にお住まいの柳家小里ん師匠と三遊亭歌る多師匠に対談をお願いした。
落語ブームについて、そして浅草の魅力やお薦めの楽しみ方など、浅草をよく知るお二人から、興味深い話を聞くことができた。──

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■生で聴くからこそ楽しめる
■落語のライブ感

——数年前から落語ブームと言われています。女流落語家が増えている要因にも繋がると思うんですが、ブームを実感することはありますか?

歌る多 寄席のお客さんは増えていますね。ただ、同時に「この人が出るから行くんだ」って目的のお客さんも増えてます。昔の寄席って、ふらっと来てふらっと入るって感じだったと思うんです。そういう意味では、昔と今では寄席の在り方も変わってきてるんだろうなぁって感じます。

小里ん 昔っから寄席に来ていたお客さんと、ブームになって来るお客さんがいるから、まぁ違ってくるのは仕方ないな。そもそも寄席っていうのは、必ずしもいい芸を観るとか、いい噺を聴くって目的だけで行く場所じゃなかった。芝居は高いし、映画も見飽きたし、寄席に行くより仕様がないっていうくらい、娯楽の少ない時代だったんだな。だからお客さんも、落語を聴くだけじゃなくて、その日の番組全体の流れを読んで楽しむとか、演者とお客さんのやりとりを楽しむとか、お客さんも一緒になって寄席って場所を支えてくれてた。そういう場所だったんだ。

歌る多 今のブームに乗って来ていただいているお客さんが、今後も通ってくれるようなものを、私たちが提供していけば、ブームじゃなくて固定客になってもらえると思うんです。10日に一回とは言わなくても、年で3〜4回寄席に行くのが娯楽のサイクルだっていうお客さんが増えてくれれば……。浅草演芸ホールの場合は、つくばエクスプレスが開通したことで、沿線からいらっしゃるお客さんが目に見えるように増えているのも確かなんです。いま増えつつあるお客さんたちに満足して帰ってもらって、また来たいって思わせないといけないという意識は、私たちも強く持ってます。

小里ん たしかに今のブームがキッカケになって、寄席に通うお客さんが定着してくれればいいんだけどね。これまでの寄席の形態だけでやっていける時代じゃなくなっちゃった部分はあると思うよ。ホールだ何だって、落語はいくらでも聴けるからね。

歌る多 落語協会のホームページでも、無料で落語動画を公開しているんですけど、落語を聴くっていうだけなら、今はテレビやインターネットでいくらでも聴ける時代です。だけど、落語協会で動画を配信している目的は、それを観た方たちが、寄席へ来てほしいということなんです。ところが、映画とかと違って、寄席に慣れない方は、どうしても気軽に入りづらいっていう印象を持たれてしまうようですね。

小里ん それは、経験だな。子どもの時から映画を観たことないって人は、ほとんどいないけど、親が寄席にいく人じゃないと、寄席に行った経験ないってのは仕方ない。

歌る多 慣れればどうってことないんだけど、寄席に慣れないと、最初の一歩を踏み出すのに勇気が必要みたいで、どっか構えて行かなくちゃいけないって思われちゃうんでしょうかねぇ。よく噺のネタで「歌舞伎座は一番いい着物を着ていくが、寄席には普段着で入っていく」なんて使われますけど、本当に畏まるようなところじゃないんですよ。

小里ん 伝統文化っていうか、古くからある重みっていうのを感じさせちゃうんだろうな。雑誌で寄席の紹介のされるときも、けっこう小難しい扱いにされちゃったりするんだよ。「文豪が通った」なんてさ、そういうんで寄席に行くことが高尚なもんだって感じさせる記事なんかも多いからね。たしかに、インターネットだDVDだって簡単に落語を見ることができるけど、それを楽しむのと、寄席に来て噺を聴くのとは、また別の楽しみなんだよね。生っていうか“ライブ”っていうのは、家のパソコンやテレビの前で見るのとは違った楽しみ方で、そこは、昔っから変わらないんだな。

歌る多 やっぱり生で聴くと、ハプニングもあれば、少しずつ違うところもあるし、最近は、放送コードというか放送局やDVDを販売する企業に自主規制があって、テレビやDVDにはできない話もありますからね(笑)。生でしか観られないネタっていうのがたくさんあるってことです。

→→[その3]へつづく

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『浅草においでよ!』H20年度版より【2】

「浅草においでよ!」平成20年度版より

縁ある噺家が語る、浅草の魅力

三遊亭歌る多 柳家小里ん インタビュー[その1]


昨今の落語ブームで、落語を聴きに浅草へ訪れる人が増えている。
そこで、浅草にお住まいの柳家小里ん師匠と三遊亭歌る多師匠に対談をお願いした。
落語ブームについて、そして浅草の魅力やお薦めの楽しみ方など、浅草をよく知るお二人から、興味深い話を聞くことができた。──

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柳家小里ん
やなぎや・こりん

東京都浅草出身。1969年、柳家小さん(五代目)に入門し、小多けと名乗る。1974年、二つ目に昇進し小里んに改名。1983年、真打ち昇進。古典の滑稽話を得意とし、風貌やしゃべり方が師匠である先代小さんをどこか忍ばせる。とくに「廓噺」に定評がある。自身も吉原文化を研究し、頭の中で当時の情景を思い浮かべ街並を再現すこともできるという

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三遊亭歌る多
さんゆうてい・かるた

東京都南千住出身。1981年、國學院大學を中退し、三遊亭円歌に入門。1993年、女性初の真打に昇進。男視点で描かれている古典落語を、女性が演じても無理がないように解釈し見事に演じる。とくに「悋気の火の玉」など、女心を扱った演目は目の肥えた寄席の客からも高い評価を受ける。落語家としての活動のほか、講演や司会業などでも活躍


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——今日は、お時間をいただきましてありがとうございます。まずは、浅草に縁ある師匠の二人が、落語の世界に入られたキッカケを教えていただけますでしょうか?

小里ん そりゃ、落語が好きだってことしかないね。両親が、芝居だとか映画だとかと一緒に寄席演芸も好きで、小さい頃から連れてってもらって。とくに落語が好きになってね。僕の家は浅草の寿町ってとこなんだけど、人形町の末広って寄席が好きだったから、そこで落語を聴いてたんだよね。僕が子どもの頃の浅草には、演芸ホールもなかったし、落語の寄席がなかったんですよ。松竹演芸場っていうのがあったけど、伝助さん(大宮敏充=喜劇役者)が出てたり色物の寄席だったし、昭和20年代後半、新宿末廣亭の出店があったけど、2〜3年でやめちゃって。昭和39年に浅草演芸ホールが開業するまでは、浅草に定席の寄席はなかったんですよ。

——歌る多師匠は、もともと南千住のご出身ですが、やはり、子どもの頃から寄席に通って落語家を目指していたんでしょうか?

歌る多 昔は日曜になると、父が自転車で浅草に連れてきてくれましたけど、寄席に連れて行ってもらったことはないんです。高校の時、いただいたチケットで銀座博品館劇場で落語を聴いたのがキッカケで落語の興味持つようになって、落語会や寄席に通うようになったんです。大学に入った頃には、どうしても噺家になりたくて、失敗するなら若いうちの方がいいって、大学1年の時、大学を中退して入門しちゃいました。親は反対したんですが、私って向こう見ずなところがあるから、「こうったらこう!」って思い込んで、とにかく噺家になろうって決めちゃったんですよ。

——歌る多師匠は、女性で初めて真打ちになられましたが、当時はまだ女流落語家そのものが珍しかったですよね?

歌る多 私が入門する前にも女性の噺家はいましたけど、私が入門した頃は一人でしたから、男ばかりの世界で当時は苦労したこともありました。それから少しずつ増えてきて、とくに最近になってずいぶん増えて、東西合わせて30人弱くらいかしら。とくに最近になって増えてますから、もしかしたら、もう30人超えてるかもしれませんね。

→→[その2]へつづく

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『浅草においでよ!』H20年度版より【1】

本年度版の発行にともない、昨年度(平成19年度)版の『浅草においでよ!』の中から、いくつかの記事をこのブログに転載しておくので、昨年度版をまだ読んでいない人がいたら、よかったらどうぞ。

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「浅草においでよ!」平成20年度版


【目次】

■巻頭対談
 縁ある噺家が語る、浅草の魅力
 三遊亭歌る多さん 柳家小里んさん 対談インタビュー
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■特別インタビュー
  浅草には、江戸の情緒が生きている
  桂文珍さん インタビュー
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■特集企画
 浅草さんぽ道
  ◆明るく、気さくで、親しみやすい 花街を彩る浅草芸者
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  ◆半玉さんと歩く浅草“芸道”名所めぐり

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本年度最新の『浅草においでよ! 平成21年度版』は、浅草商連加盟店、浅草各駅、浅草文化観光センターなどで配布しています。


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選択するということ


よく、「カレー味のうんこ、うんこ味のカレー、食べるならどっち?」なんていう質問に対してを“究極の選択”などという。

まぁ、この質問に関していえば究極でもなんでもなく、「うんこ味のカレーを食べる」という人が多いだろう。
僕は以前、ある人間関係においてやや強制的にドリアンを定期的に食べなくてはならなかったんだけど、いつも(これって、絶対にうんこ味)と思いながら食べていた。本当にうんこ味かどうかは別にして、あの味を思えば、うんこ味を喉に通す事はそれと大きく変わるとは思えない。そもそも、まずいカレーを食べても衛生的な不安はないが、どんなにおいしくてもうんこを食べるのは衛生的に不安が大きい。

おっと、こんなくだらない事を力説するのも馬鹿馬鹿しい。

言いたいのは、こんなくだらない質問なら、自分の価値観やアイデンティティによっていくらでも選択は可能だという事だ。
なぜならば、こういう質問の多くは、結局は自分だけの責任で選択すれば済む問題だからだ。

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では、こんな質問はどうだろう。
「他人の子どもを殺さないと、自分の子どもが殺されてしまう」という局面で、他人の子どもを殺すことができるだろうか?
これは、自分の命の選択ではなく、自分以外の命の選択だ。

僕はこれについても、子どもが出来たあたりから結論を出していて、結論を先に言えば、「たとえ自分の子どもが殺されても、他人の子どもは殺さない」という事にしている。
自分の中で、命の重さという事においては、他人だろうと自分だろうとまったく差がないからだ。つまり、どちらも自分の命ではない以上、僕には結論は出せないわけで、自分の子どもが殺されることで他人の子どもが助かるなら、それで仕方ないということだ。
もちろん、この質問が「他人を殺さなければ、自分が殺されてしまう」という局面だったとしても、同じように他人を殺す事はない。そして、僕が戦争に対してはっきりと絶対反対という態度を取っているのは、そういう覚悟を持っているという事だ。

そのことは自分の子どもたちにも、はっきりと明言している。

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例えば、自分が病気になったとする。
Aという治療を施せば、自分のこれまでの人生と同じように歩むことはできないが、長生きする可能性は高い。
Bという治療を施せば、自分のこれまでの人生と同じように歩むことはできるが、長生きする可能性は低くなる。
こうした時にどんな選択をするか、癌のように人生観を問われる病気を告知するようになった現代、それぞれの方たちが葛藤し、選択している事だろうと思う。

忌野清志郎は、ボーカリストとして喉にメスを入れる事を拒んだ。癌転移になってからは、放射線治療も拒んだという。
それはそれで、忌野清志郎であり栗原清志としての人生の選択だったわけで、僕には何も言う権利がない。

僕の周りには、癌や治療困難な病気と闘っている人が何人かいる。

みんな、自分の哲学によって、それぞれの局面で自分なりに選択をしているんだろう。
自分のアイデンティティや人生で培ってきた哲学で、ある程度結論を持ちながら選択されているようだ。

僕はそうした選択をしている人たちに対して、いつも何も言えず、ただただ背中を見ているしかない。
せめて、馬鹿みたいに思われてもいいから明るく降るまい、どんな困難な選択を迫られている人にも微笑みかけていきたいとだけ思っている。

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子どもを持つ親の中には、もう少し複雑な選択を迫られる局面がある。

子どもの命に関わる選択は、どういう結果になるとしても、その選択肢を選んだ親の責任になる。本当は親に責任なんてないんだけども、もし悪い結果になってしまったとき、「あの時、別の選択をしていれば……」という後悔の念を拭うことはできないだろう。
自分の命であるならば、「自分が選んだ事だ」と開き直ることもできるだろうが、自分の子どもの命だから、そう簡単には開き直れない。

子どもが出来る前、大学生くらいの頃から、僕はこういう選択をいつかしないといけないと考えてきた。
そういう選択を迫られたとき、自信を持って選択できない人は、子どもを作るべきではないと考えていたので、自分に子どもが出来た時も、本気で中絶することを考えた。なぜなら、僕にはそんな選択をする心構えがまだなかったからだ(だったら完全な避妊しろって話ですよね。そうなんですよ。でもね、そのへんが僕の若気の至りでして、だからこそ中絶せずに子どもを育ててきたわけです)。

結局、そういう局面になったときの選択肢を選べないままに僕は生きてきた。
実際に親が子どもを育てる時に迫られる選択は、「どちらも危険と安全が同じくらいのパーセンテージ」という時は少なく(ほとんど存在すらなく)て、どちらかが安全から危険に大きく切り替わったときに、消去法で選択すればいいという局面が、圧倒的に多い。
だから、僕は選択肢を選べないまま、選ばないまま生きてきた。

そんな僕が40歳になってから、「不惑」という言葉に少し拘っているのは、僕が不惑とはほど遠い、まだまだ未熟な親であると感じているからだ。

え? そんな事をいちいち考えて親をやってる奴は少ないって?
まぁ、そりゃそうだ。

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去年、僕と同じ年の友達が、高齢出産の初産で元気な赤ん坊を産んだ。
そして、今年の春、別の少し若い友達に子どもが生まれ、この秋には、後輩の子どもが生まれる。
これからも、もっともっと僕の周りには新しい命が芽生え、それと同時に、親になる奴が増える。

僕も大学生の頃と違って、「こんなことを考えておかなければ、親になるべきではない」なんて青臭い事は言わなくなった。
でもまぁ、親はいろいろ選択を迫られることがあるので、どんな困難な選択を迫られるとしても、冷静に判断できるだけの覚悟は、いつでも必要なんだと思う。

どんな選択をするかは、それぞれが決めるしかない。「正解」はたくさんあるはずだし、きっと「不正解」なんてものはないんだろうと思う。

自分の事だけを考えていれば良かった人間が、自分以外の命の重さを感じながら生きることを選択したとき、親になるってことなんだと思う。

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ワークショップの講師なんかもやってたりする


度々書いてきているが、僕は表立っては出版の編集者という肩書きなんだけども、まぁ色んな仕事をやっていたりする。

色んな事をやっているため、よく知らない人からは、僕がどんな職能の人間なのか、今ひとつ分かってもらえない事が多い。大雑把に言えば別にまったく違う分野というわけではなく、どれも出版や広告の仕事と繋がっている事なんだけども、まぁ仕方ないかも知れない。子どもたちや家族ですら、実際に僕がやっている仕事を理解していないと思う。

で、昨日もいつもとはちょっと違う仕事だった。今回はそんな仕事を紹介したい。

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二足歩行ロボットの格闘技で、「ROBO-ONE」」というイベントがある。日本はもちろん、世界的に見ても割と大きなイベントとして有名だが、まぁテレビ中継されているわけではないので、ロボットに興味のない人は知らないだろう。

おもちゃのバンダイ、「ガンダム」を作っているサンライズ、ロボット精密機械メーカーの近藤科学など、国内のロボットと関係する企業たちが協賛金を出し合って運営しているイベントで、日本全国で二足歩行ロボットの競技会を開いている。

何で僕がこのイベントに絡んでいるか、話すと長くなるので割愛するが、まぁイベントのときにフロアディレクター的な手伝いをしている。要するに、現場における何でも屋さんだ。

18日〜20日までの3日間、有明のパナソニックセンターで、『2009夏!ロボットサミット』というイベントが開かれ、その中でROBO-ONEの大会も開かれていたのだが、別の仕事で忙しかったので3日目の昨日だけ手伝ってきた。

といっても、今回は途中参加だったこともあり、いつものようにフロアディレクターではなく、パナソニックセンターで開かれた「親子でロボットを作ろう!」というワークショップの講師役。

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「ロボット」といっても、TAMIYA製のボクシングファイターというキットを使って組み立てるだけなので、プラモデルを作るようなもんだ。
およそ1時間半ほどで組み立てられる簡易キットだが、小さい子どもだけだと少し難しいので、お父さん、お母さんが奮闘する場面も多かった。

僕は、作り方のポイントとなるところを説明したり、組立説明書では分かりにくいところをフォローしたり、あるいは組み立てが難しいところを手伝ったりするだけで、実は講師というほど偉そうな事は何もしてない(笑)。

組み立てると、下の写真のようにボクシング型の格闘技ロボットが出来あがる。

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そう言えば、僕も昔からかなりガンダムが好きだけども、ガンプラにはハマらなかった。プラモデルはたくさん作ったが、もっぱらお城シリーズ、江戸の街シリーズ、屋台シリーズなんてジオラマ系のプラモデルばかり組み立てていた。
正直言うと、今でも自らロボットを組み立てる気にはなれない。
ROBO-ONEはとても面白いイベントだからこれからも関わって行くだろうが、選手として出る気にはならないだろう。この辺は、昔からプレイヤーになるよりも裏方の方が好きだった現れなんだろうと思う。

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上の写真は、今回のROBO-ONEに出場したロボットたちの記念撮影。
後ろに若いお姉さんが二人写っているが、こちらはROBO-ONEガールなので、ロボットではない。念のため。

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今回のように親子参加型のイベントを手伝っていると、たびたび親子のワークショップなどを手伝うことがあり、こんな事も僕の仕事の一部だったりする。
ということで、今回はいつもとは全然違う仕事の紹介でした。

ROBO-ONEについては、また改めてお知らせするので、もしタイミングが合えば、一度ぜひ遊びにきてくださいな。


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何が正しくて何が間違っているのか


先日、田原総一郎がテレビ朝日『朝まで生テレビ』という番組の中で、拉致被害者に関して「生きていない」可能性を言及した発言に対して、拉致被害者の両親が、田原総一郎を相手に1000万円の損害賠償を求める民事訴訟を起こした。

最初に言っておくが、僕はずっと以前、まだ北朝鮮に対する情報が少なかった頃(まだ韓国の情報すら少なかった頃)から、北朝鮮に対して強い疑念を抱いていたし、拉致をされた人がまだ北朝鮮にいるならば、なんとかして帰国してほしいと願っている。とくに横田めぐみさんのご両親は、以前、講演会も聞きに行ったことがあり、拉致家族会の先頭に立ち続けてきたご苦労に対して、とても敬意を払っているつもりだ。

一方、田原総一郎に対してはというと……、これまで発表したいくつかのルポの中になかなか面白い調査報道だと思える本もあると思うし、ジャーナリストとして一定の評価はするものの、例えば森喜朗など、僕が総理大臣としてまったく無能極まりないと思っている政治家に近づき過ぎて、政治ジャーナリストとしてはバランス感覚が麻痺したまま、エキセントリックな発言が多過ぎるために、全体としてはあまり好きな人物ではない。

それから、今回の田原発言と訴訟についての詳しい経緯や事実関係については、ここでは説明しないので、詳しく知りたい人は自分で探してほしい。

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さて、本題だが、今回の訴訟には賛同できない。
(まぁ、僕が賛同しような反対しようが、誰一人として痛くも痒くもないだろうが……)

田原総一郎が「外務省も(横田めぐみさんと有本恵子さんが)生きてないのは分かってる」と断定した事は、舌禍と言われても仕方ないだろう。それについては、本人も同番組をはじめ、別の番組、Podcast、紙媒体などで度々謝罪をしている。本人が認めているし、行過ぎる発言だったのは事実と言っていいんだろう。

だが、まず最初に、政治討論番組で、拉致被害者が亡くなった事を前提に議論をすることは、何の不思議もない。そして、ジャーナリストが、それぞれの持っている情報と信念に基づいて、ある仮説や十分に可能性がある出来事を発表し、そのことを議論する事は、とても健全なことだ。
そこでは、被害者感情なんて二の次、三の次にされることも当たり前。「当たり前」と書くと誤解を受けるかも知れないが、冷静な判断と議論が必要な時に、誰かの感情を慮って大事な議論が出来ないのは本末転倒だ。感情的な部分をまったく無視するというのではなく、冷静な仮説や事実を陳列した上で、人間の抱く感情を踏まえるべきだということだ。

田原総一郎が、拉致被害者の二人が死亡している可能性について、まるで既成事実であるかのように発言し、本人が散々謝罪したあとも、それでも許せないという家族が、金銭を要求する事については、ある程度は仕方のないことだろう。

ただ、放送倫理・番組向上機構(BPO)に申し立て、さらに1000万円という高額訴訟を起こすほどの問題かというと、僕はまったく賛同できない。
なぜなら田原総一郎は、「拉致被害者が死亡している」という見出しの原稿を書いて金を儲けたわけでもなければ、そういう番組を作って放送したわけではないからだ。要するに、これは単なる舌禍騒動であり、事件でもなんでもない。

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僕が、拉致被害者の家族のみなさんに対して気持ちでは応援していると言っても、実際にろくな支援もしていないし、そういう意味では「救う会」にしても「拉致議連」にしても、家族のみなさんたちにとってはとても有り難い存在だろう。彼らの足を引っ張るつもりは毛頭ない。
ただ、どうも「救う会」などが家族会や日本全体の世論をたびたびミスリードしていることが気になって仕方がない。

気になることはいくつかあるが、その一つが、横田めぐみさんの写真が捏造されているとされた騒動だ。
現在も、「救う会」のホームページには、「横田めぐみさんのものとして公表された写真」というページがあり、いまでも疑惑として公表している。

僕は、この問題が表面化してすぐの頃から、「本当に捏造したと言いきれるのだろうか?」と疑問を持った。
なぜなら、テレビでさかんに流されていた「捏造疑惑」は、どれもいい加減な検証しかしていなかったからだ。
そして、すぐに「救う会」のホームページで「捏造疑惑」の中身を確認したのだが、やはり捏造疑惑はいい加減な検証だったと確信した(僕が検証したのは、現在のホームページで[A]とされている写真のみ)。

僕自身も画像修正について知識があるし、何人か画像をいじるプロたちとも話したが、僕が出した結論は「ホームページに出ている情報からは、捏造の可能性について否定も肯定も出来ない。つまり捏造とは言いきれない」だった。
もちろん今でも、捏造の疑惑について「それが捏造と断定できない理由」を一つひとつあげることもできる。

そこで、「救う会」に対して電子メールで「たしかに捏造の可能性は否定しないが、捏造だと断定できる事実は認められない」という旨の連絡をした。もちろん、一つひとつについて反証し、具体的な理屈も説明したし、僕の実績についてもきちんと理解してもらえるプロフィールもつけた。さらに、それでも確証があると言うなら、具体的に質問させてほしいし、もし可能なら捏造を指摘したカメラマンと皆さんの前で会って議論してもいい、とも書いた。
そして「北朝鮮という如何わしい国家に対して強烈な憎悪を抱くのは理解するし同調するが、断定できるほどの証拠もないのに断定して批判するのは、結果として北朝鮮側を同じ手法を使っていることになる。そうした無理な論法は、いずれ日本国民にも伝わり、世論の支持も離れてしまうことになるだろう。何よりも、被害者や家族のみなさんたちを、いい加減な情報でミスリードするのは、明らかに行き過ぎと指摘せざるを得ない(当時、家族のみなさんがテレビ番組に度々出演させられて、救う会の発信した「捏造疑惑」の広報をさせられていた)。“ニセ遺骨騒動”も収まらない中で、こうした捏造疑惑を抱きたくなる気持ちもよく分かるが、冷静な検証をしてほしい」という旨のメッセージを送った。
しかし、このメッセージに返事はなかった。

「救う会」では、未だにホームページ上では捏造疑惑を発表しており、さらに「このホームページを見た専門家から写真[A]についてのご指摘の一部(H16.11.18)」という追加記事では、「めぐみさんの足まわりに白いふちどりがあるのは切り張りの証拠(WEBデザイナー)」などというまたまたいい加減な論拠をあげている。
あくまでも「このホームページを見た」ことが前提とするなら、印画紙に焼かれた写真をスキャニングするにしても、あるいはすでにあるデータ化されたものを使うにしても、webにアップする段階で、何らかの「加工」が施されているはずであり、基本的にはweb上で公開されている写真がどの段階でエッジを立てたのか分からないのに、白フチが入っていることが証拠となる事などあり得ない。公開されている程度の解像度しかないデータを見て検証したところで、「白フチの正体」など突き詰められないにもかかわらず、そんな断言をする人間はまともなプロではないだろう。
残念ながら、他の追加指摘についても、捏造の確証を得られるほどの証拠はあがっていないと断言できる(繰り返すが、もちろん捏造の可能性を否定はしない)。

こうしたやや“飛ばし”気味の発言は、拉致議連の議員などからも度々聞こえてくる。
僕が「救う会」や「拉致議連」から出てくる発言に、今ひとつ信頼できないのは、こうした適当な発言が多いからだ(僕の知人も救う会の活動していたりするので、同調できる部分もあることはあるが……)。

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捏造と断定できる証拠のない状態での決めつけた発言は、何も「救う会」だけではない。

日本政府そのものが、横田めぐみさんの“ニセ遺骨騒動”で、鑑定人が自らが「断定できない」と発言しているDNA鑑定を使って「ニセ遺骨だ!」と断定している。
救う会も、北朝鮮による写真の捏造が事実であると断定している。
田原総一郎は、本当に横田めぐみさんや有本恵子さんが亡くなっているか確証を示さずに断定している。

しかし、どれも科学的根拠は希薄であり、まだ確証にいたるほどの証拠は示されていない。

僕は、田原総一郎が断定的に論じた事で被害者家族を傷つけた事は、確かに過ちだろうと思う。
しかし、いい加減な証拠を持ち出して事実であるかのような発言を繰り返す「救う会」のやり方も、被害者やご家族対して誠実なやり方とは思えない。
日本政府が、“ニセ遺骨騒動”について軌道修正をしていないことも、被害者や家族だけでなく、日本全体を欺く大きな過ちだと思っている。

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今回、拉致被害者のご両親が、田原総一郎に謝罪を要求する気持ちに対しては、僕のような門外漢は何も言う資格がない。
ただ、今回の田原総一郎の舌禍発言の部分がすでに謝罪され修正されている以上、訴訟するだけの価値があるか疑問を抱かざるを得ない。

そもそも、政府内だろうが、マスコミだろうが、一般人の会話だろうが、被害者たちの生存説だけを議論の前提とする必要もないし、もしろ、死亡している可能性に付いても言及して議論をして行く事は、極めて健全な姿だ。

こうした意見は、何も僕のような門外漢だけが語っているわけではない。蓮池透「家族会」元事務局長のように、被害者の側にいる人たちからも、あまりにも一方向しか向いていない北朝鮮問題の議論の流れに対して、疑問を投げかている人もいる。

さらに僕は、田原総一郎を訴えた今回の訴訟問題は、司法制度の不健全な利用方法であり、拉致問題に何らかのタブーを作るため利用されるのではないかと危惧している。ここでも何度か紹介している「武富士・週刊金曜日/三宅訴訟」「オリコン・烏賀陽訴訟」「読売・押し紙問題黒薮訴訟」など、高額訴訟によってまともな報道に対して、言論封殺する動きと同じ流れだ。

間違っているのは、北朝鮮だけではない。
拉致問題がどういう方向に向かって行くべきなのか、「救う会」や「拉致議連」側からの発信だけに左右されず、冷静な議論を進めて行くべき時期は、もうとっくに来ているはずだ。


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今更ながら……<浅草・ほおづき市>


だいぶ遅くなったが、ようやく浅草ほおづき市の写真を整理した。

ほおづき市と四万六千日については、去年の記事で書いたので、詳しく知りたいときは→こちらをクリック←をどうぞ。

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※写真をクリックすると大きな写真になります


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下の写真2枚は、去年『浅草においでよ!』の取材でお世話になった稲村さんの露店。
毎年、浅草寺の東南角にあってとても縁起のいい場所に出している由緒ある店だが、今年は本堂工事のため、少し場所を変更。それでも、ロケーションはさすがに良い場所だった。

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で、今年も稲村さんが勧める酸漿を買ってきて、ベランダに飾ってみた。

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本当は「浅草の風」に投稿する予定だったが、さすがに10日以上も間が空くともう遅い。
せっかくもう少し色んな写真を撮ったので、今日以降、「メイプル・ブログ」に投稿する予定にしたので、よかったらそちらをどうぞ。

ということで、今回はこれだけ。


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間もなく、貧しく、美しく


ある編プロにどうしてもと頼まれて、他人がデザインしたデータの修正を請け負った。

本来はこういう仕事はお断りしているが、すでに色校正が上がっていて、明日の朝までに直して再入稿しないといけないにもかかわらず、デザイナーさんに連絡が取れないと言う。僕も他の仕事で忙しいが、困っている時はお互い様なのでまぁ仕方ないと思って引き受けた。

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編プロに行って、AB版2ページ(見開き)の色校正のゲラを見ると、それはとてもプロが創ったとは思えないデザイン・レイアウトだった。

例えば、改行が適当でバラバラだ。
クライアントから来るデータは、いい加減な作り方である事が多い。本来は原稿整理の段階で編集者が直すべきだが、原稿整理なんてしない編集者も増えている。そうしたいい加減な原稿をデザイナーがそのまま流し込んでしまったんだろう。

あるいは、「ジャスティファイ」という機能を使っていないために、1行1行、行の長さがバラバラだ。
そういうデザインを狙っているなら理解できるが、テキストデータとバックの画像がタイトに組み込まれているデザインなので、デザインのコンセプトから見て、狙ってバラバラにしているとは思えず、絶対におかしい。いい加減に考えて配置されていのだ。

版面もめちゃくちゃだ。
柱は、裁ち落とす際に切れてしまう可能性がある場所に配置されている(小口裁ち落としから約2mm)。
また、いわゆる「無線とじ」と言われる製本の雑誌だが、ノドから5mmくらいのところに文字が配置されているために、雑誌として仕上がった時にその部分は読めないか読みづらい(しかももう片方のページは、ノドから10mmくらい空いている)。

これはパッと見て気がついた事であり、細かく見ればおかしい点はまだまだ書き足りない。僕が日常で付き合っているデザイナーたちにこのデザインを30秒ほど見せれば、10人中10人が同じような指摘をするだろう。それほど基本的な事で、パッと見るだけで気がつくことだ。

あまりにも酷いので、デザインをできるだけ活かしながら、レイアウトはすべてやり直すことになった。

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断言するが、僕はこの仕事を担当したデザイナーをプロとは呼ばない。この仕事ぶりを見れば、僕が仕事を依頼する事はないだろう。

それでも編プロは「まだフリーランサーになって数カ月だけど、それまで1年間は編プロで有名な版元の雑誌を担当していたし、なかなか良いデザインする有望なデザイナーなんだ」という。

なるほど、バックに使っている素材などは、僕のセンスにはない。
ただ、そもそもバックに使っている素材は、どこかの素材集から借りた画像を単純に配置しているだけだし、こんな程度のデザインは、正直言って気の利いた素人でも出来る。
仮に、都立高校に通いながらデザインの勉強をしている僕の娘が作ってきても、たぶん駄目出ししただろう。実際つい最近も、「版面」がいい加減だったデザインに対してアドバイスをしたばかりだ。
あるいは、僕が広告制作会社で働いていた頃に、若いデザイナーがこれを作って先輩のところに持って行けば、ビリビリに破られて作り直しをさせられているかも知れない。
そういうレベルだ。

ただ僕に言わせれば、今回のトラブルについて、デザイナーの責任なんてほとんどない。
はっきり言って、これは編集者もしくはディレクターの責任だ。
色校正が出るまでに、何度か校正ゲラを確認しているらしい。その時点で、こんな初歩的で重大な欠点に気がつかない方がどうかしている。

もし本気で有望なデザイナーだと思っているなら、仕事をしながら基礎的な技術についてきちんと教えて育ててあげるべきだ。自分でそれが出来ないなら、ベテランのデザイナーさんに別の仕事で割りのいいギャラを払ってでも、若いデザイナーさんを育てることもお願いすべきだろう。あるいはギャラを半分に分けて、間にフリーランスのベテランのディレクターを入れて、若いデザイナーが足りない点をフォローしてもらったっていい。
仮にそれで編プロの利益が少なくなったとしても、それが出版業界の、人材への投資の一つの在り方だ(少なくとも昔はそうだった)。

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以前、この編プロを経由して広告の仕事をしたときも、撮影した写真がクライアントの要望に応えられず、スッタモンダした。最初からちゃんとしたカメラマンに頼めば無事に済んだにもかかわらず、「安物買いの銭失い」のようなカメラマンを手配したために起きたトラブルだった。

その仕事の時、僕は同時進行していた仕事が忙しく、うっかりメールを読み飛ばしてしまったことがある。
そもそも、「忙しいから」と断ったのに、「どうしても」と頼まれたから請け負った仕事だ。先に請け負った仕事を片付けてしまおうと、そっちの仕事に集中していた時に届いたメールだった。しかも、用件をまとめてメールをよこす人ではなく、何か思い立つと数行のメールを頻繁にくれるタイプの人だった。

メールのやり取りの中で、僕がつい「スケジュールがタイトなので、こちらではミスがあっても責任とれないので、きちんと校正を見てください」と送ったら、「言われなくとも、編集者が校正を見るのは当たり前で、そちらに責任転嫁する気はない」とプライドを傷つけてしまったということもあって、そんな僕の態度が気に入らなかったのかもしれない。
(余談だが、事前の雰囲気で危険を察知して指摘したのだが、実際に校正をろくに見ていないのは、今回のデザイナーの仕事ぶりを見れば明らかだ)

まぁ僕のミスは間違いないので、文句を言われても反論できないのは仕方ないが、やはり忙しい時に信頼関係のない編集者と仕事をするのは危険だと痛感させられた。

ところが、前述したように撮影した写真がスッタモンダしてトラブルになったとき、クライアントと編プロから相談されて、大事にならない方法で事を収め、最終的にはデザインを含めて気に入ってもらった広告に仕上げたために、編プロの態度も一変した。
お陰ですぐに別の仕事を依頼されたが、他に進めている仕事があるので断った。

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ギャラは安い、スケジュールはタイト、校正はろくに見ていない、素人のようなスタッフたちばかり、信頼関係もない。
僕の20年の経験では、広告でも出版でも、そういうやり方では良いものは出来あがらない。

前のカメラマンの時のトラブルも、今回のデザイナーとのトラブルも、つまらないことで余計な予算とエネルギーをかけるくらいなら、どうして端っから、ちゃんとしたギャラでちゃんとしたフリーランサーに依頼しないんだろうか?

ちゃんとしたフリーランサーというのは、例え少しくらい安いギャラでも、その編集者との信頼関係が出来ていれば請け負うものだ。
技術があれば、時間の許す限りタイトなスケジュールにも応じてくれるだろう。
経験によって危険を察知できるため、版元や編プロにとって耳の痛いと思うような指摘もズバズバと言うだろうが、それによって助かる事も多いはずだ。
頼まれれば、若いフリーランサーと交流を持ったり、アドバイスを送る事も惜しまないだろう。

もちろん、安いギャラで若いフリーランサーたちにチャンスが与えられている事を全面的に否定する気はない。むしろ、そういう若いデザイナーが成長するためにも、きちんとした目を持った編集者や、ベテランのフリーランサーの存在が、何よりも大事なんだと思う。

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「間もなく、貧しく」だけを最優先にするやり方は、結果として出来の悪い出版物を世に送りだしているだけで、出版文化に貢献しているとは思えない。「美しさ」がなければ、出版物としての完成度は高まらない。
世の中に出回っている出版物を見回しても、大手版元の雑誌や大手企業の広告ですら、腹立たしくなるほどレベルが低いものを見受けるようになった。
そんな出来の悪い出版物が、読者の活字離れを加速させる一因となっていると僕は考えている。

インターネットに比べてスピード感で圧倒的に劣る紙媒体だが、「読みやすさ」「視覚デザインの幅の広さ」は出版物の利点の一つであり、webデザインよりも勝っている点が多い。
にもかかわらず、出来の悪い読みづらい出版物を世の中に出すというのは、出版業界の自殺行為だ。

出版不況はたしかに構造的な問題が多いのだが、「活字離れ」「インターネットの普及」のせいにしているだけでなく、現状のシステムの中であっても、金を払うだけの付加価値を加えられていない原因を編集者たち自らが作り出しているという実態を、もっと客観的に受けとめるべきだ。

そして、版元や編プロがつねに「間もなく、貧しく、美しく」を求めるときに、それを創り上げるフリーランサーに対して、何を与えてくれるんだろうか?
時間も予算も出せないなら、せめて知恵を出してほしい。

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このブログ、最近は知り合いで読んでくれている人が増えてきているみたいだ(その割りにコメント少ないけど……)。ここで書いた編プロも見ているかもしれない。もし見ていたら、もう仕事の依頼は来ないだろう。
それは仕方がない。

ただ一つ言いたいのは、僕はその編プロの事だけを批判したくて書いているわけではない。
こういう仕事が確実に増えてきているという現状を、出版業界の他の人にも知ってほしいと思ったから書いた次第だ。

こんな僕ですが、良かったらぜひ仕事ください。


 ♪子ども騙しのぉモンキービジネス〜
  粋がったりビビったりして ここまで来た〜♫


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1988年の夏


昔撮った写真を探していたら、21年前の僕の写真が出てきた。

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20歳の頃だから、年齢はいまの半分。
体重はいまの3分の2。


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いま改めて聴き直して


マイケル・ジャクソンの楽曲を改めて聴き直しているけど、なかなか良い曲が多いと思う。

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これほど世界の音楽シーンを変えてしまった人は、リアルタイムでは他に知らない。
きっとビートルズが世の中に出てきた時も、同じような感覚が世界的に起きたんだろうと思う。

僕自身、彼の音楽から何らかの影響を受けたというファンではないけども、80年代当時、僕は“歌って踊れるお笑い兄ちゃん”みたいな感じでジョーパブみたいな飲み屋で働いていたので、「Billie Jean」や「Beat It」なんかはPVやライブビデオを見てフリを憶えたりしたことが懐かしい。「スリラー」のお化けダンスが象徴的と思っている人が多いかもしれないけども、当時のディスコなどでは圧倒的に「Billie Jean」などの影響を受けた踊りが流行っていた。

そんなマイケル・ジャクソンだけども、意外なほど音楽そのものの影響力は少なかった気がする。日本でもマイケル・ジャクソンをはじめとしたダンス・ミュージックがすごく流行ったけども、すぐにユーロ・ビートに取って代わられたし、いま、「マイケル・ジャクソンの系譜」といえるミュージシャンって、一体どれくらいいるんだろう? 明確にそうだと思える人は思い当たらない。

それでもやっぱり、当時のマイケル・ジャクソンはすごかった。
いつの間にか『KING of POP』と呼ばれるようになったマイケル・ジャクソンだが、昔はよく「ロックなのか、ポップスなのか?」なんて議論があった。だけども、音楽を最高のエンターテインメントとして巨大産業へと押し上げていったマイケル・ジャクソンの勢いを見ていると、そんな野暮なことはどうでもよかった。

以前少し紹介したTBSのラジオ番組『小島慶子★キラキラ』の中で、ノーナ・リーヴスの西寺郷太の音楽解説コーナーがあるんだけども、ちょうど、番組開始以来3ヵ月の間、ずっとマイケル・ジャクソンについての総括的な解説を続けていた。マイケル・ジャクソンのことを詳しく知りたければすごく分かりやすい解説だ。とくに「マイケル・ジャクソン、小沢一郎、ほぼ同一人物説」は面白かった。公式サイトのバックナンバーから探せば、Podcastで聴くことができる。

そんな中で、僕自身もマイケル・ジャクソンを聴き直していた矢先だった。
いま改めて聴き直すと、良い曲も多い。

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ということで、マイケル・ジャクソンの40年以上のキャリアの中でもっともピークにあったときの曲「We Are The World」をどうぞ。

この曲も本当に良い曲だと思う。
コメント欄に日本語訳も載せておくので、日本語訳を知りたければコメント欄をどうぞ。

この日本語訳を転載した→こちらの動画←は、日本語によるアーティスト名も標記されていて分かりやすい編集になっているので、もし誰が誰だか分からない人はそちらを……。

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ハッピー万歳野郎から、大馬鹿者たちへ


昨日は、夕方に昨日の記事をザックリと仕上げて、予約機能という奴で一旦アップしておいて、夜、子どもたちの家に行くことになっていたので、予約時間までに子どもたちの家で読み直して修正するつもりでいた。

夜になって入谷の交差点を通り、大勢の人で賑わっている朝顔市を横目に、子どもたちの家へ向かった。
ちょうど昨日は、入谷方面から浅草寺までの一本道である合羽橋本通りが七夕祭りの最中ということもあったので、どちらも楽しもうと人が集まったんだろう。

一時間ほどスクーターで走ってむこうに着くと、携帯電話に、珍しい人の名前で着信があった。ちょうど来月当りにその関係の奴らと集まろうということになっていたので、その件で連絡が会ったのだと思い折り返し電話をした。
しかし、むこうから返ってきた言葉は、後輩の死を知らせるものだった。

*  *  *  *  *  *  *

僕とその後輩は、何せ5歳も離れているんで、それほど親しかったわけではないけども、いろいろと心配をさせられる後輩だった。

10年ほど前だったか、もう少し前だったか、その後輩はかなり精神的に不安定(この言葉が適切かどうか迷うところだが、とりあえずそうしておく)になっていて、医者からのアドバイスを受けている時期だった。
そのことがキッカケになって久しぶりに会って以来、何度か電話をもらったり、会いたいと呼び出されて会ったりして、あまり医者や家族の邪魔にならない程度に、自分なりにケアをしていた後輩だった。

その後もたまに興奮して電話してくることもあったけども、徐々にそういうこともなくなり、それからしばらくしてかなり気持ちが安定してきたらしく、最近は時折手紙で近況を連絡してくる程度の関係だったので、いつの間にか僕の方も、心の片隅で心配するくらいになっていた。

そんな薄情な関係だったのであまり偉そうなことは言えないが、この後輩の訃報に「大馬鹿者め」という言葉しか思い浮かばない。

*  *  *  *  *  *  *

そんなことがあって自分の関係で伝えるべき人にだけ連絡し、子どもたちの家に入ると娘が落ち込んでいた。
どうやら、デザインの課題が上手く出来ずに悩んでいるらしい。
「もうできない。もうやめたい」なんて言葉を繰り返している。

話を聞くと、最近、スランプと言うか伸び悩みと言うか、モチベーションが上がらないらしい。どうも、本格的にデザインの勉強をはじめてみたら、学校にも予備校にも、自分よりも勉強していたりセンスがある奴がたくさんいて、鼻っ柱を折られたみたいだ。偉そうに「私には美術の素質がないんだと思う」だと。

僕に言わせれば、娘はまだ何も学んでいないし、本当の作品らしいものなんて何も創っちゃいないくせに「何が素質だ」と、笑ってしまうというよりも、情けなくて腹が立ってくる。

まぁ受験生なのでナーバスになっているとこともあるんだろうと、
「もう一度、自分がどんなデザインを創りたいか、そこから考え直してやり直してみな。一緒にブレストしてもいいし、一人で考えても良いし、とにかく受験をやめるなら止めないけど、受験を頑張ろうというなら、どんなに辛くても、泣き言言ってないで楽しんで創りな」
となだめた。

その後も泣きながらデザインをしていたが、最初に比べれば格段にデザインらしくまとまったところまで創りこんでいたので、やる気は落ちていても、多少の根性は残っているんだろう。

若い頃、すごい素質の奴らが周りにいて「こいつらには一生叶わないかも」と落ち込む気持ちは分からなくない。僕にも、同年代で目標にしていたクリエーターはいたし、たくさんのクリエーターたちから刺激をもらって自分なりにモノを創ってきた。自分の素質の限界を感じて、やる気が著しく落ちるのもよく分かる。

だけど、娘はクリエーターなりアーティストなりになるために、まだスタートラインにも立っていない。スタートラインに立つために準備運動をしている最中だ。これから、まだまだたくさんの素質に溢れた人たちに出会い、刺激を受け、切磋琢磨して成長していくことだろう。結果として、いま望んでいるデザインの仕事に就くのかわからないが、そういう創作活動の中で人生を楽しさを知ってほしいし、人間を磨いてほしいと思う。

*  *  *  *  *  *  *

気持ちがわかると言えば、僕は心が不安定な人の気持ちも分からなくない。数年前、かなりヤバい鬱状態になった。

当時のいろいろな記憶の中で、思い出すと今でも嫌な気持ちになるのは、駅にホームに立った時の感覚だ。
思っている言葉をそのままブツブツと口にしてしまう程の状態だったので、あまり外に出ないで引きこもっていたが、それでもどうしても出かけなくてはならない時もあり仕方なく何度か電車で出かけた。で、駅に立つとどんな駅でも、ホームに入ってくる電車に引き込まれそうになった。けっして死にたいのではなくて、本当に電車と線路に引っぱられような感覚で、ホームに電車が入ってくると柱や手すりに捕まってないと立っていられなくなり、ホームにしゃがみ込んだりしていた。

僕の場合は、まぁ生命力があるというか、何だかんだと死んでたまるかという気持ちが強かったのか「このままじゃ、本当にヤバい」と自覚して、自分なりに立ち直る方法を見つけ出した。
何年か前のCMで「鬱は三ヵ月」というキャッチフレーズがあったが、本当に後もう少し我慢していたら、僕は深刻な病状になっていたと思う。

だから、心が不安定になって死んでしまう人の気持ちが何となく想像できなくはない。もちろん、個々の人たちがどんな悩みを抱えていたのか、どれほど自暴自棄になっていたのか、どれだけ生きるのが辛かったのか、それは絶対に分からないけども……。

まぁ、そんなこんなで、ブログを読み返すことなんてすっかり忘れて、一日が終わった。
朝、入谷への散歩から始まって、色んなことがあった一日だった。
昔なら「不惑」であるべきだと諭される歳になったが、まだまだ不惑の境地には達せそうもない。

*  *  *  *  *  *  *

お〜い!
いま俺の周りで、悩みを抱えている奴!!

自分の素質の限界を感じて落ち込んでるお前、
何をやっても上手くいかなくて泣いてるお前、
大切な人との別れを経験したお前、
いつまでも結婚できないでいるお前、
ど田舎に住んでウジウジしてるお前、
その他、いろいろと悩んでる皆、

人生はハッピーに、明るく考えようぜ。
いつまでもクヨクヨ悩んでいる奴は、みんな大馬鹿者だ!

何? 最近までメソメソしていた俺に言われたくないってか?
馬鹿野郎、俺は何十年振りかで悲しいって感情がわき上がって、その対処に戸惑っていただけで、悩んでいたわけじゃねぇぜ。
お前ら、俺がどんだけ波瀾万丈な人生だったか知ってるだろ?

人生はな、どんな時にもハッピーだ!
自分がハッピーになるために、そして自分の周りの人たちがハッピーになってもらうために、どうすれば良いか考えようぜ。

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この曲は、細野晴臣がキヨシローの追悼に選んだ曲だ。
シンプルな歌詞のこの曲を100回でも1000回でも聞きやがれ。

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天気が良いので、朝顔も猫も元気たっぷり


今日は久しぶりにゆっくり出来る予定で、このブログの更新やら片付けやら、あるいは貯まっている課題(書類整理や出版の企画書づくり)をするつもりだったのに、午後になってから急にバタバタし出して、結局、あんまりゆっくり出来なかった。

まぁそうは言っても、朝はいつものように4時半頃に起き、今週から朝は少し散歩をしているので、先に散歩してついでに朝ご飯の食材でも買って来ようと思ったら、今日は入谷の朝顔市だ。ということで、カメラを持って散歩がてらに入谷まで行ってきた。

入谷の朝顔市(入谷朝顔まつり)については去年紹介したので、もし詳しく知りたい人は→去年の記事←をどうぞ。

朝顔市だけに朝早くから各露店は始まっているけども、さすがに5時だとお客はまばらで、仕入れのトラックなどが出入りしていたが、客がいない分、ゆっくりと写真が撮れた。
撮った写真は、いつものように「浅草の風」に、今日と明日に分けて投稿しているので、もしよかったらそちらもどうぞ。僕が投稿した写真は入谷朝顔市記事一覧の方が見やすいかも。

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写真を撮りながら歩いていると、まだ客もいないせいか、いつも以上に売り子さんに声をかけられる。が、なんと財布を持たずに来てしまったので、「すみません。今日は写真だけなんですぅ」と言い訳しながら歩いていた。
で、真源寺の近くのお店で、ちょうど日が射して明るく撮りやすい花があったので撮っていると、またもお店の人に勧められる。で、またも断って写真を撮らせてもらっていたら、売り子のおじさん、あんまり暇で退屈していたみたいで、いろいろと朝顔について教えてくれた。

Cb0907073

入谷の朝顔市で人気あるのは、上の写真の「団十郎」という柄らしい。以前から言っているように草花にはまったく知識がないので知らなかったが、江戸時代から人気のある品種のようだ。もちろん、歌舞伎役者の市川團十郎から来ていて、「おぉ、言われてみれば、市川家の柿色に似ている」と納得。しかも大きな花がつくところからも、代々の市川團十郎という役者が魅せてきたダイナミックな演技と結びついているらしい。以前に書いた記事で紹介した「暫」は、まさに柿色の大きな着物を着て演じるもので、江戸時代のスーパースターである團十郎の十八番の一つだ(そういえば、まだ團十郎の記事は完結していなかったのを思い出した……)。

おじさんの解説によると、上の写真ほど花びら全体が柿色に染まっているのが、良い団十郎だそうで、多くは下の写真のように花びらの外側が白くなってしまうらしい。
でも、僕的には外側が白いのもかわいいなぁと思うけど、そう思うのは素人のアカサタナってことなんだろう。

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せっかくのお薦めだけど財布がなければ仕方ない。「せっかくなんで明日また来ますね」と言うと「こいつは明日にはないよ。今日の午前中には売れちゃうねぇ」とのこと。さらにおじさん曰く「やっぱり朝顔市は朝来ないとね。朝来て、朝顔がどんな風に開くか見ないと、よく分かんないでしょ」だそう。
植物にあまり興味がないとはいえ、なるほどなるほどと勉強をさせてもらい、一通り撮影も終えて帰った。

ところが、考えてみると朝ご飯の食材を買いにもう一度出かけなくてはならなくて、だったら、せっかくなんでおじさんのところで朝顔でも買って行こうかと、今度はスクーターで再び朝顔市へ。
ということで、おじさんのお薦めする鉢を買ってきた。最後に、もう一つおじさん曰く「こんだけ大きな花を上手く育てられたらすごいもんだけど、なかなか上手くいかないんだよなぁ。兄ちゃん、頑張んな」とのこと。正直言ってきっと僕には無理なので、いま老人施設の手伝いをしているので、週末にでもその老人施設に持って行ってあげて、上手に育ててもらおう。下の写真は、スクーターに乗せた鉢。

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帰ってから朝ご飯を作って、先ほど書いた老人施設の手伝い仕事が今日入稿なんで、それを仕上げてから朝ご飯を食べて、今日撮ってきた写真やこのところ撮りだめたままの写真などを整理した。
もちろん、「浅草の風」「メイプル・ブログ」や、それからこのブログの記事のための写真整理。

午前中に、「浅草の風」や「メイプル・ブログ」にアップして、いよいよこのブログを書こうかと思ったら、お客さんから電話があって、急ぎの用事を頼まれてしまった。

「浅草の風」や「メイプル・ブログ」は写真だけなんで、写真の整理が終わればすぐにアップできるし、「メイプル・ブログ」にいたっては予約機能で2週間分くらいをいっぺんにアップしているっていうのもあるんで楽なんだけど、このブログは文字中心だからそうも行かない。
文章そのものは、暇な時やフッと思った時に荒原稿を書き溜めているんだけども、実際に記事として仕上げる前に、いろいろ調べ直したり本を読み直したりして、そうこうしているうちに「あれも書きたい、これも載せたい」って長文になっちゃったりしながら、原稿によっては、それなりに時間がかかってる。まぁ今回の記事みたいに他愛もないことを書いている時はまだしも、それでも10分、20分では仕上がらない。

「肝心の自分のブログを更新しないでどうする!」と、自分に突っ込みを入れながらも、昼からフル回転で仕事に邁進。もともと夕方には打ち合わせが入っていたんで、午前中ダラダラしていた分、今日はいつも以上に慌ただしかった気がする。

その間、「浅草の風」の風さんが、朝顔市の帰りに稲荷町まで足を伸ばしてくれたらしく電話をくれたが、ちょうど打ち合わせに行く直前で、残念ながら時間が合わずにお断りしてしまった。さんざんメイプルの宣伝をしているんで、メイプルに寄ってお茶していってくれたらしい。有り難いことです。

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で、そんなこんなでバタバタしていて気がつくと、いつもはうるさいくらいにまとわりついてくる猫さんたちが、今日は仕事部屋に来ない。そういえば、午前中にベランダで遊んであげてから、ずっと2階にいるみたい。
どうしたんだろう?と2階の様子を見に行くと、珍しく3匹仲良くベッドでゴロ寝。

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もっとも、僕が2階に上がったら起きてしまって、アンさんとドンさんは追っかけっこを始め、ビビさんは仕事部屋で僕の膝に乗ってきてしまった。
珍しく大人しいのも心配だけど、やっぱり騒がしいのはたまらない。

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もうちょっと忙しくてブログの更新もママならないが、「長屋界隈」も「浅草風情」も「活字生活」も更新するネタはたくさんあるんで、暇を見つけて書かなくては……。

そういえば、先日、ブログを読んだ友達から、「ブログの文章が長過ぎ。それと、雰囲気が固過ぎてコメントと書けない」と言われてしまった。う〜ん……。
長文なのは仕方ない。仕事と違って、あまり短くする気がなく、好きなだけ文字を書くためのブログだから。もっとも、これでも半分くらいに絞り込んでいるつもりなんだけど……。
まぁ、長文なのは許してもらうとして、コメントは遠慮せずどんどん残していってくださいな。

ということで、とりあえず今日はここまで。


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「けじめ」をつけに……〈加奈崎芳太郎のライブ〉その2

ということで、久しぶりに加奈崎さんの生唄を聴いた。
今回足を運んだのは、清志郎さんが亡くなったということがキッカケになっている。

僕が音楽関係の仕事をしていたというのは、実際にはこの加奈崎さんのプロモーションが中心だった。仕事としては他にもいろいろあったんだが、少なくとも加奈崎さんの仕事を手伝わなければ、深く音楽関係の仕事をすることはなかっただろう。

今から15年以上前になるが、ちょうど映画『119』(監督:竹中直人)の音楽監督を加奈崎さんが清志郎さんと一緒に担当していたり、『日本を救え!』というイベントを泉谷しげるや清志郎さんたちと一緒に展開している頃だった。
加奈崎さん個人の活動としても、RCサクセションのベースだった“リンコ”こと小林和生、同じくドラムの“コウちゃん”こと新田耕造の三人で「加奈崎トリオ」というバンドを組んでいて、川崎のクラブチッタなどで定期的にライブをやっている時期だった。

最初は、「元RCのメンバーに会えるけど、手伝わない?」と誘われて気軽に荷物運びの手伝いなんかをしていたが、憧れていたミュージシャンたちに会えたとしても、当然ながら友達になれるわけでもないし、そもそもそんなにミーハーじゃないし、まして音楽業界に興味があったわけでもなかった。
それでも、当時僕がいた広告業界はイベントの仕事も多くて現場の雰囲気にも慣れていたこともあってか、当時のマネージャーさんに頼まれていろいろ手伝っているうちに、僕が会社を辞めてフリーランスになったのを機会に、本格的に手伝うようになっていった。

もちろん、古井戸や加奈崎さんは嫌いじゃなかったし、少しずつ音楽業界に興味を持ったということあるんだけども、僕が加奈崎芳太郎というミュージシャンに惚れたのは、『最後の誘惑』という曲を聴いてしまったからだ。
この曲を聴くことがなければ、単なるお手伝いで終わっていたと思う。
そして、この曲をマイナーなままに埋もれさせてしてしまったのは、本当に僕の力不足だったと痛感している。

何だかんだと5年くらいは手伝わせてもらい、何枚かのアルバムの製作にも関わらせてもらったが、結局、僕は中途半端なところで加奈崎さんのスタッフを辞めてしまった。

90年代の加奈崎芳太郎は、ソングライターとしてもっとも“旬”だったと僕は思っている。
当時は、ジァン・ジァンの定期ライブごとに新曲を作っていて、バンド仲間のリンコさんや新井田さん、生田敬太郎など別のバンド仲間、マネージャー、ジァン・ジァンのブッキングマネージャー、二人のローディー(付き人)、僕のようなスタッフが数人、あるいはプロデューサーをはじめとしたレコーディングスタッフたち、そういう数多くの人たちが、加奈崎さんの作った新曲に対してズケズケとモノを言っていた時期だった。
もちろん、曲作りというのは基本的にお客さんに対しての真剣勝負だろうが、当時の加奈崎さんにとっての曲作りは、スタッフたちに対しての真剣勝負でもあったと思う。不遇の80年代を過ごして、90年代はソングライターとして充実している時期だったはずだ。
実際、今年の2月に発売された最新アルバム『Piano~Forte』に収録されている曲の半分近くは、90年代に創られた曲だ。本人にとっても、この時期の楽曲をアルバムとして残したい気持ちが強いんだろうと思う。

ちなみに、上で紹介した『最後の誘惑』を含めて10曲ほどのデモテープを作ったとき、清志郎さんに聴いてもらうために送ったら、清志郎さんから「デモテープ聴いたよ。何度も。すごくいいです。どの曲もミリョク的です。(中略)“神様あの子を……神様居るなら……”(『最後の誘惑』)がいちばん好きだな。何度聴いても泣きそうになるのさ。こんないい歌をよく書いたもんだな。(中略)古井戸よりいいよ。そこで歌っている音だから」とメッセージが届いた(当時のファンクラブ会報誌「加奈崎通信」から)。

本当にいい曲を創り出していた時期だった。
そういう時期に少しでも手伝いが出来たことは、僕にとってもとても素晴らしい経験だった。

そもそも音楽業界とは無縁なので、手伝うどころかいろいろと足を引っ張ってしまったが、それでも加奈崎さんは、今でも僕の「師匠」であることには間違いない(当時のスタッフたちは加奈崎さんを「師匠」という決まりになっていて、僕は未だに加奈崎さんに対しては「師匠」と呼んでいる)。

その師匠に対して、中途半端に投げ出す形になってしまったのは、僕の人生の中で大きな心残りの一つだ。

……てなことを思い出して、「ブログになんて書こうかなぁ……」と考えながら、昨日スクーターで走っていたら、そこは偶然にも、青梅街道の“鍋横”交差点だった。

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ここは、加奈崎さんが東京にいた頃に住んでいた街で、『さらば東京』という曲の詩にも「鍋屋横丁」と地名が組み込まれている。加奈崎さんを車で迎えに行く時にいつも通っていた道で、『さらば東京』のプロモーションのスチール写真の撮影ロケ地としても使った場所だ。
当時は僕も中央線沿線に住んでいたんで毎日通る道だったが、最近は年に1度くらいしか通らないし、まして上野からスクーターで行くことなんて滅多になく、何の意識もしないで加奈崎さんのことを考えながら、本当に偶然通りかかったんで、思わずスクーターを留めて交差点で感慨にふけってしまった。

*  *  *  *  *  *  *

今の加奈崎さんは、当時のように何人ものスタッフを抱えているわけではないが、それ以上に多くのファンの人たちや地元の支援者たちに支えられて、ある意味で当時以上に元気で、全国を飛び回って唄っている。

そして、音楽仲間として、友人として、刺激し合う相手として40年も付き合ってきた清志郎さんが亡くなったことをきっかけに、同じく40年以上の付き合いのある泉谷さんとともに、お互いのホームページであまり知られていない清志郎さんの素顔を書き続けている。

もちろん今さら僕には、加奈崎さん、清志郎さん、泉谷さんたちとの強い絆については何も手伝えることはない。僕なんかが手伝わなくても、もっと古い仲間たちが手伝うだろうし、加奈崎さんには今のスタッフさんたちもついている。

ただ、僕の中で加奈崎さんに対してやり残したことを取り返すために、ずっと考えていることがあった。それを形にするのだとしたら、僕が知る限り加奈崎さんの周りで適任者はそれほど多くないと思うし、今の僕ならそれが実現できると自負している。
その気持ちを改めて伝えておかなくちゃいけないと、清志郎さんが亡くなってからずっと考えていた。
だから、それを伝えるために久しぶりに加奈崎さんのライブに足を運んだ。

*  *  *  *  *  *  *

僕が考えていることが実現できるかどうか、まだ何も決まっていない。加奈崎さん自身が、いつその気になるのか、そもそもその気になるのかどうかすら決まっていない。

ただ、加奈崎さんがその気になった時に備えていつでも心づもりしておくことが、師匠である加奈崎さんに対してやり残したことへのけじめだし、清志郎さんが亡くなってからずっとメソメソしていた自分自身へのけじめの付け方だと思っている。


それから1週間がたった……。
あれから2ヵ月……。
もう僕は大丈夫だ。


Piano~ForteMusicPiano~Forte


アーティスト:加奈崎芳太郎
販売元:PONYCANYON INC.(PC)(M)
発売日:2009/02/18
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「けじめ」をつけに……〈加奈崎芳太郎のライブ〉その1


1970年代に「古井戸」というフォーク・デュオが日本の音楽シーンで活躍していた。
野太く圧倒的な声量を持つボーカル・加奈崎芳太郎と、R&Bなどを背景にした音楽性と繊細な詩的センスで曲を生み出したリードギター・仲井戸麗市の二人組だ。
仲井戸麗市は、古井戸解散後にRCサクセションの正式メンバーとして参加し、80年代の音楽シーンで活躍したので、見れば分かる人もいるだろう。

♪大学ノートの裏表紙に さなえちゃんを書いた〜
というフレーズの『さなえちゃん』が72年頃にスマッシュヒットしたので、その音源を聴くと思い出すという人もいるかもしれない。ちなみに、この曲を唄っているのは“CHABO”こと仲井戸麗市だ。

麻雀の話を書いたこないだの記事でリンクしていたのだが、数年前に『闘牌伝説アカギ』(原作:福本伸行)というアニメのオープニングソングに、『何とかなれ』という古井戸の曲が使用されて、最近の若い子たちの中で再評価されたようだ。

こうして古井戸を説明する時に『さなえちゃん』を紹介するのは、ちょっと躊躇するところで、本当は『ホスターカラー』あたりを聴いてもらった方が初期の古井戸らしいんだけども、まぁその辺のことを話すと長くなるので置いといて……、
とにかくその古井戸のメインボーカル・加奈崎芳太郎のライブが先週の土曜日にあったので、数年ぶりに生唄を聴きに大森まで足を運んだ。

*  *  *  *  *  *  *

この日のライブは、「古井戸らしきものを歌う」というのがテーマになっていたこともあって、当時のファンを含めてたくさん人が集まり、小さなライブハウスの会場は満員状態だった。

加奈崎芳太郎といえば、渋谷の山手教会の地下にあった伝説的な小劇場「渋谷ジァン・ジァン」で、約30年間、年に4回ずつ、同劇場が閉鎖するまで定期的にライブを続けていたのだが、80年代の一時期は客が数人しかいないときもあった(ちなみに、ジァン・ジァンは自主企画のホールなので、予約して金を払えば誰でも出演できるという劇場ではなく、何十年も定期公演を続けることが許されたのは、加奈崎芳太郎の他に、美輪明宏、イッセー尾形、永六輔やおすぎのトークライブ、津軽三味線の高橋竹山など数名だけ)。
ホームグラウンドであったジァン・ジァンの閉鎖後、長野県・諏訪に住まいを移してからは地元を中心に活動を続けており、東京でライブを観られる機会も随分と減ったためか最近は客の入りも上々のようだ。

久しぶりに聴いたライブは、相変わらず長いMCと圧倒的な声量が健在だった。
「古井戸らしきものを歌う」と客を呼んでおきながら、アコースティック・ギターではなくストラト(エレキ・ギターの名器)をピックを使わずに指で引き続けるという“ひねくれ方”も健在(笑)。
さすがに高音はつらそうだったが、それでも60歳とは思えないほどの音圧を感じさせてくれるボーカルはさすがだ。

古井戸解散後、もし周囲の勧める歌謡曲路線(例えばアリス解散後の堀内孝雄のように)にいけばメジャーシーンに残れる可能性もあっただろう。何と言っても歌が上手いから。実際、アルバムの変遷を見れば分かるように、加奈崎本人も周囲に促される形で妥協せざるを得なかった時期もあった。
もっとも本人が歌謡曲路線に満足いくはずもなく、メジャーシーンとかアルバムの売り上げとかとは縁の遠いミュージシャン街道を突っ走ることになる。
その反骨的な心意気が、60歳になってもなお「古井戸をストラトで」というズテージングに繋がっているんだと思う。

ライブに行く前の僕は、「エレアコ(エレキギターとアコースティックギターの間の子のような楽器)でやるのかなぁ? ハミングバード(ギブソン社のアコースティックギター)でやってくれないかなぁ」ってちょっと心配だったんで、その裏切りに「さすが、加奈崎!」と気持ちいい思いがした。

この日のセットリストはメモしていないので、どの順番で何の曲をやっていたかは書けないんだけども、終盤に『いつか笑える日』『陽炎』を聴かされた時には、思わずジーンと来てしまった。
これらの曲に対しての加奈崎芳太郎の気持ちも理解しているつもりだし、自分にとってはすごく好きな曲だし、このところの自分の色々な気持ちが心の琴線に触れてしまったんだ。

来週の土曜日(2009年7月19日)には東京の福生、翌日曜日(2009年7月20日)には荻窪、そして、8月29日(土)に加奈崎芳太郎が現在住んでいる諏訪の近く、長野県岡谷市で規模の大きなライブが開催される。

もし興味のある人は、ぜひ足を運んでみてください。
詳しくは、加奈崎芳太郎の公式ファンクラブのページから、左側のメニューバーにある「Live」をクリックすると、詳細が掲載されています。
8月29日のライブについては、→こちらのページ←に詳しく掲載されています。

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一旦アップして読み返したら、とんでもなく長いんで、とりあえず2回に分けることにしたんで、つづく……。

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