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19世紀は歌舞伎の大転換期……その3

●明治政府にすり寄った歌舞伎界

「19世紀は歌舞伎の大転換期」というテーマで記事を書き始めておきながら、その後、すっかり時間が経ってしまった。
「『河原乞食』の抱え続けたコンプレックス」を書いてから約3週間、ようやくその続き。

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すでに一大産業として確立していながら低い地位に甘んじてきた歌舞伎界は、明治に入り、露骨なまで政治へアプローチをかけ、自ら明治政府にすり寄って地位向上を図り成功させる。
現在の歌舞伎が本来の大衆文化ではなく、格調高い伝統芸能として扱われるのは、この時期の影響が大きい。

まず、徳川に替わって日本を治めることになった明治政府の歌舞伎界への対応だが、徳川幕府と変わらず厳しいものだった。
安政年間に浅草の北に位置する猿若町に集められた各芝居小屋は、明治元年(1968年)には移転するように命じられる。動乱の世からようやく落ち着き、歌舞伎人気も少しずつ以前の活況を取り戻しつつあったなかでの移転話だ。当初は各歌舞伎小屋も躊躇していたが、明治5年(1872年)になって守田座が新富町に移転し(新富座となる)、他の芝居小屋も東京各地へと移転を進めていった。

下の写真は、現在の浅草6丁目にある「浅草猿若町碑」。今では当時の面影はまったくなく、いくつかの石碑が残っているだけだ。

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さらに明治5年、明治政府は更なる干渉をする。
以下、干渉の内容について、『歌舞伎の歴史』(今尾哲也 著/岩波新書)から引用する。

   第一に、「高い身分の方や外国人が見物するように
  なるから、淫らな男女関係を惹き起こす原因となった
  り、恥ずかしくて親子が一緒に見ることの出来ないよ
  うな狂言を演じてはいけない。道徳教育の足しになる
  ような狂言を作れ」。
   第二に、「芝居というものは本来善をすすめ、悪を
  懲らしめることを趣旨としなければならないのは当然
  のことであるが、それに加えて、今後は狂言綺語(作
  り話)と呼ばれることを禁止すべきである。たとえば、
  今までは、羽柴秀吉という名前を真柴久吉と変えてみ
  たり、織田信長のことを小田春長と変えて上演してき
  た。(中略)名前だけではない。何事につけても、事
  実に反するようなことをしてはいけない」
  (原典:『明治文化全集』第24巻)

(引用以上)

要するに、
「身分の高い人間も見るような高尚な文化という意識を持て」
「外国人が見て日本文化を下品だと評価されないようにしろ」
「時代物(歴史的背景のある狂言)は、荒唐無稽な作り話ではなく、史実に基づく筋立てにしろ」
ということだ。

そもそも歌舞伎とは、「傾く(かぶく)」ことから始まったと言われる。
「傾く」というのは、「常軌を逸した行い」「自由奔放な振る舞い」「異様な身なり」という意味であり、破天荒で型破りな行為を指したものだ。出雲の阿国という女性が、歌舞伎踊りを披露してから約250年余、江戸や大阪の庶民たちに大衆文化としてしっかりと根付き、すでにある程度の完成度に到達していた。
それを高尚にと言われても、歌舞伎界にとっても、歌舞伎に足を運んでいた観客にとっても、すぐに「はい、そうですか」と受け入れられるものではなかっただろう。

ただし、当時の歌舞伎小屋は、暑くなれば男女構わず半裸状態になったり、興奮した観客同士で喧嘩になったりと、たしかにあまり誉められた環境ではなかったようだ。
下の錦絵は、江戸中期(1740年頃)に奥村政信によって描かれた『芝居浮絵』という浮世絵。これを見る限りそれほど破廉恥な環境だったとは思えないが……。

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それにしても、「狂言綺語」の禁止というのは、これまでの歌舞伎を全否定することに近い命令だった。
徳川幕府の規制によって、歌舞伎や文楽は、世相を直接描くような狂言を作ることを禁止されていた。そのため、例えば、18世紀初頭の元禄時代、日本中で話題だった「赤穂義士の仇討ち」騒動を狂言にする際に、大石内蔵助を大星由良之助、浅野内匠頭を塩冶判官、吉良上野介を高師直、などと名前を変えて『仮名手本忠臣蔵』という人気狂言を作り出した。
少し補足説明しておくと、『仮名手本忠臣蔵』の前に赤穂義士を描いた作品がいくつかあり、近松門左衛門が人形浄瑠璃として作った『碁盤太平記』が人気を博したことから、時代を室町時代の歴史文学である『太平記』になぞるようになった。そのため、塩冶判官や高師直など、室町期の歴史上の人物が、『仮名手本忠臣蔵』の中心人物として登場することになる。
さらに『忠臣蔵』に限って言えば、たしかに日本中で「赤穂義士の仇討ち」が話題になった背景には、当時「犬公方」とまで言われた5代将軍・徳川綱吉の治世に対する不満もあっただろう。しかし、多くの庶民とっては、そうした政権批判だけではなく、太平の世に命をかけて「義」を貫いた赤穂義士たちに対する純粋な賞賛こそが、何よりも心を熱くさせた要因だったろう。そして『仮名手本忠臣蔵』は、単なる仇討ちという事件経過だけの物語だけでなく、「おかる・勘平」「力弥・小浪」「師直・顔世御前」という歴史的事実にはないサイドストーリーを膨らませ、本筋である仇討ちと上手く絡めることで、「歌舞伎三大狂言」と言われるほどに人気のある狂言へと発展していった。

下の錦絵は、歌川豊国作の『東都高輪泉岳寺開帳群集之図』。『忠臣蔵』の登場人物が一堂に会して品川の泉岳寺に参詣するという想像図。
クリックすると大きな画面になるので、参考までも見てほしいが、左から、斧定九郎、おかる、早野勘平、寺岡平右衛門、大星由良之助、小浪、戸無瀬、加古川本蔵、一文字屋才兵衛、という珍しい一枚。
「狂言綺語」から派生した歌舞伎の世界観を否定してしまえば、こうした魅力的なキャラクターたちが作り出されることもなかっただろう。

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引用文に出てくる「羽柴秀吉という名前を真柴久吉と変えてみたり、織田信長のことを小田春長と変えて」というのも、同じような流れの中で、いつしか観客に定着した「隠語」である。隠語と言っても誰でもわかるほどなのだから、隠れてもいないのだが、そこが日本文化の「建前」であり、まぁ誰でもわかるほど常識的な隠語でも、あえて徳川幕府の顔を潰さないようにすることで、幕府も歌舞伎界も、お互いに適度な距離を保ってきたわけだ。

こうした「狂言綺語」という手法は、単に幕府からの抑圧をかわすためでけではなく、前述した『仮名手本忠臣蔵』のサイドストーリーのように、歌舞伎狂言をフィクションとして完成度の高いエンターテインメントへと昇華していくために、大きな役割を担っていた。

これを、明治政府はいきなり禁止しようとしたのだ。

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これらの明治政府の対応は、当時「文明開化」と呼ばれ強引に進められていた「欧化政策」の一環だった。
当時、欧米への海外視察によって、産業革命を終えたアメリカやヨーロッパの文化を直視した明治の高官たちは、カルチャーショックを受けると同時に、日本文化が低く見られることへのコンプレックスを抱き、「欧米各国に恥ずかしくない国づくり」を目指していた。
そうした明治維新から富国強兵への明治政府に対する僕なりの評価は、改めて別の機会に書くことにするが、単純に否定することはできない。

ただ、僕に言わせれば、「狂言綺語の禁止」などという無茶な要求は、地方から「東京」へと出てきて大手を振って歩いている田舎者の明治高官たちが、江戸や上方という世界有数の都市が作り上げてきた文化を理解できずに、あるいは理解しようとする努力もせずに突きつけた横暴だ。

この記事の冒頭で、「歌舞伎界が明治政府にすり寄った」と表現したが、まさにこうした横暴とも言える要求に対して、歌舞伎界はすり寄っていったのだった。

以前、『文七元結』について書いた記事で少しだけ触れたが、『文七元結』を創作した落語家・三遊亭圓朝は、我が物顔で闊歩する明治政府の高官たちに対して「これが江戸っ子だ!」と啖呵を切るように、(かなり極端ではあるが)見事なまでの江戸っ子像を描いてみせた。
それに対して歌舞伎界は、全体としては渋々ながらも、明治政府にすり寄っていくことを選んだ。まさに「すり寄った」結果として、歌舞伎は、現代では日本を代表する古典芸能として、他の古典芸能の追随を許さないほど高い地位を気づくことに成功したのだ。

当然ながら当時、多くの歌舞伎関係者は、大いに戸惑ったに違いない。
前回の記事で紹介した河竹黙阿弥も、江戸時代はあれほど数多くの優れた作品を現代に残している狂言師だったが、狂言綺語の規制や黙阿弥独特のリズムである七五調を否定された制限の中では、高い評価を得られるようなことはなかった。

しかし、そうした歌舞伎界の中で九代目・市川團十郎は、確信的な自信を持って、新しい歌舞伎の創作に挑んでいったのだ。

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あぁ……、本当は3回で書き上げるつもりだったのに、書き出すと止まらない。
もう少し続くので、続きは次回に……。


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