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2009年2月

閑話休題で……歌舞伎座建て替えをどう思う?


浅草寺の観音裏にある「『暫』の像」について、補足して説明しようとはじめたのに、長くなってしまったなぁ……。

とりあえずまだ続くので、少し閑話休題。

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昨日、あるマンガ家さんと浅草に関する仕事について打ち合わせをしていたら、雑談として「歌舞伎座の建て替えについてどう思いますか?」って聞かれた。ついこないだも別の人に聞かれたし、どうも、歌舞伎好きで、しかも浅草のような街と多少なりとも関わって仕事をしていると、歌舞伎座の建て替えに一家言あると思われてるらしい。まぁ確かにあるんだけど……。

すでにご存知の方も多いと思うが、東京・東銀座にある歌舞伎座は、来年の4月の公演が終わると、建て替え工事のために一旦閉鎖される。それに伴って、いま歌舞伎座では、1年4か月にも渡って「さよなら公演」というイベントをやっている。


『毎日新聞』2009年1月29日号より一部抜粋

  ■歌舞伎座:五代目、複合ビルに 松竹が建替案提出
   松竹は28日、老朽化のため10年の4月公演を最
  後に建て替える歌舞伎座(東京都中央区)=写真・平
  田明浩撮影=の新施設計画案を東京都に提出したと明
  らかにした。現在と同様の唐破風(からはふ)の屋根
  をつけた劇場棟と高層オフィス棟で構成する複合ビル
  になるという。約120年の歴史を誇る歌舞伎座にと
  って4度目のリニューアル。“五代目”は伝統を引き
  継ぎながら、新たな要素を加えた都心の名所となりそ
  うだ。
  (引用ここまで)


ということで、こんなアンケートがあったので、ぜひ投票をどうぞ。



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歌舞伎座については、次回以降の記事でも少し触れるし、改めて歌舞伎座についてもちゃんと書きたいと思っているので、そこで建て替えについての自分の気持ちも書こうと思っている。

せっかくここに来てくれた人は、歌舞伎座のことをよく知らない人でも、よかったら暇つぶしにアンケートにポチっとしてみてください。
ついでに、この記事のコメント欄にご意見でも書いてもらえれば、今後の記事の参考にさせてもらいたいと思います。


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19世紀は歌舞伎の大転換期……その2

■「河原乞食」が抱え続けたコンプレックス

さて、前回の記事の続きで、ようやく本題。

今回も、各写真をクリックすると拡大画面が見られる。

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江戸末期から明治時代にかけて、19世紀のおよそ100年、世の中は明治維新の風に吹かれて激動の時代だったが、この19世紀は歌舞伎界にとっても、大きな転換期となった。

まずこの時期、鶴屋南北と河竹黙阿弥という二大作者が、名作狂言を次々と生み出す。この2人は、現在の歌舞伎ファンの知名度も高く、100〜200年経ったいまでも人気の高い演目を数多く残している。
鶴屋南北(正確には4代目だが、狂言作者として特筆すべきは4代目だけなので、一般的には4代目は省略されることが多い)は、『東海道四谷怪談』などの作者だ。
もともと「ケレン」と呼ばれる派手な演出の狂言を書いてきたが、『東海道四谷怪談』では、「戸板返し」「仏壇返し」など新しいケレンを駆使し、残忍な殺害風景、妖艶な濡れ場、さらに時代を反映した世相を取り入れ、リアリティ感のある恐怖の舞台を作り出した。
このようにリアルで写実的なストーリーは、「生世話物」というジャンルを確立したとされている。

余談だが、昨今の落語ブームに関連した記事や文章の中で、三遊亭圓朝を紹介するとき「『四谷怪談』を創作した」との表記があるが、これは明らかに説明不足。『文七元結』が圓朝の創作で歌舞伎に移入されたため、それと混同して、「四谷怪談」も落語から歌舞伎に移入したような書き方も見られる。
たしかに落語の新作『四谷怪談』を創作したのは圓朝だが、『東海道四谷怪談』は圓朝が生まれる前に完成しており、圓朝が歌舞伎から落語へと取り入れたものだ。
ちなみに『東海道四谷怪談』の原典は、『四谷雑談集』と言われている。噂話・誹謗中傷などを集めたスキャンダル集だが、その中の話に『忠臣蔵』の設定を絡めて創作された。

下の錦絵は、歌川国貞による『夢結縁草戸』。『東海道四谷怪談』を描いている作品で、左から“八重がきおひめ(お梅のことか?)”岩井紫若(7代目・岩井半四郎)、“お岩ゆう霊”五代目・尾上菊五郎、“民谷伊右衛門”5代目・市川海老蔵(7代目・團十郎)。

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もう一人が河竹黙阿弥。
「知らざぁ言って聞かせやしょう」の弁天小僧 菊之助でお馴染みの『青砥稿花紅彩画』(通称:白浪五人男)や、以前の記事で少し紹介したこの上野・下谷界隈が舞台となる『天衣紛上野初花』(通称:直侍・河内山)、中村勘三郎の舞台に椎名林檎が音楽を担当して話題となった『三人吉三廓初買』(三人吉三巴白浪)など、現代の舞台でも、数多くの作品が上演されている狂言作者だ。
七五調の流暢な台詞を端役の登場人物にまで徹底して配し、歌舞伎に独特のリズムを作り上げ、また、義太夫や清元を効果的に使った演出で音楽性を高めた。
そして、ストーリーとしては、江戸の庶民の抱えている不条理感を作品内にちりばめ、その因果応報に苦しむ様を描きだした。これについて僕は、幕末という時代のうねりの中で、支配階級である武士たちが政治と世情を不安定にさせることに対して、江戸文化の中心だった庶民たちが漠然と感じていた不安感や、自分たちの力では世情の不安定さから脱却できない焦燥感などを、見事に描いたと解釈している。

黙阿弥については、またいつか詳しく書きたいと思うが、とにかく、この二人の偉大なる狂言作者によって、幕末の歌舞伎はより洗練され、いよいよ文化としての完成度を高めていった。

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一方、歌舞伎役者も、自己改革を目指していた。

19世紀前半に活躍した7代目・團十郎は、市川團十郎家の権威を誇示するために、『暫』『勧進帳』など18本の演目を選出し「歌舞伎狂言十八番」と命名した。余談だが、これを摺り物にして箱につめ、贔屓客に配ったことから、得意なものを「十八番」と書いて「おはこ」と言うようになる。

7代目・團十郎が権威を誇示しようとしたのは、何よりも歌舞伎役者の地位が低かったためだ。江戸時代、とくに黎明期には、「河原乞食」と呼ばれ遊女と変わらないほど、歌舞伎役者の地位は低くかった。
歌舞伎が世に誕生したのは、江戸時代が始まった時とほとんど同時期だが、幕府は、江戸時代を通じて一貫して、世の中の風紀が乱れるとして歌舞伎を厳しく取り締まった。

歌舞伎で「大向こう」と呼ばれるかけ声がある。團十郎なら「成田屋っ!」、菊五郎なら「音羽屋っ!」というやつだ。あれは、歌舞伎役者の屋号。今でも商法の制度として残っている、あの屋号だ。
前述の通り身分制度の中で歌舞伎役者の地位は低く、本来「士・農・工・商」の下とされていた。「市川」「中村」「松本」などと苗字を名乗っているが、武士階級にしか苗字が許されない時代に、士農工商よりも身分の低い役者たちが苗字を持てるはずもない。役者たちが勝手に苗字を名乗り、幕府がそれを黙認していただけのことである。実際に、例えば歌舞伎興行の許可を求めるときなど、幕府に提出しなくてはならない文章を書く際には「中橋猿若座 歌舞伎役者 勘三郎」などと記していた。
それでは不便なことも多いため、一部の役者たちの中に商人の習慣に習って屋号を付けるものが出てきた。日本橋の商人が越後の国から出てきて「越後屋」(現在の三越デパート)と名乗ったように、家系の縁などから名付ける方法だ。これが、成田山新勝寺を信仰していた市川團十郎家の「成田屋」となる。
また、中村(猿若)勘三郎のように、役者でありながら、芝居小屋の支配人である「座元」を務めるものもいた。これはそのまま、芝居小屋の屋号である「中村屋」を名乗る(後に役者ではない座元も、苗字と屋号を混同しながら使用する)。現在では、多くの役者の屋号が苗字と別なのに対し、中村勘三郎家だけが苗字に「屋」を付けるだけなのは、こうした理由からだ。
さらに、人気のある者は「千両役者」(一年間で千両以上の契約。江戸中期ならば、おおよそ1億円くらいの感覚。ちなみに所得税はない)と言われるほど大金を稼いだため、そのお金で副業の商売を始めた者もおり、その商売の屋号を使う場合もあった。
こういう経緯から、どの役者も屋号を持つことになり、これが、歌舞伎役者の家系を屋号で呼ぶ風習として、今でも残ってるわけだ。

こうして役者の人気が庶民たちから高まり、また経済的な成功を収めた芝居関係者も多くなると、幕府もその存在を認めざるを得なくなってしまう。当時は、江戸の表通りは武家と商家しか家を建てることが許されていなかったが、幕府は歌舞伎役者に商人としての地位を持たせ、歌舞伎役者が表通りに家を持つことを認めた。
ただし、やはり身分としてはあくまでも士農工商の下に置き、風俗を乱し社会を混乱させる恐れがあるとして、吉原などの遊郭ととも常に厳しく管理した。幕府の取り締まりは江戸末期まで続く。例えば幕末(天保年間)になって、江戸に四散していた芝居小屋を、浅草の北側、後の猿若町にすべて集中させたのも、取り締まりの一環だった。

下の錦絵は、歌川広重『東都名所 芝居町繁榮之圖』。1843年頃の江戸猿若町。当時の賑わいがよく感じられる。

Cb09022202

このように役者をはじめとした歌舞伎関係者たちは、実態に則していない地位の低さをコンプレックスに感じながら、江戸時代を過ごしていた。
だからこそ、7代目・團十郎は、必要以上に権威を誇示しようとしていたし、この時期の役者たちは、鶴屋南北や河竹黙阿弥によって生み出された完成度の高い狂言に対し、その狂言が要求する演技に答えられるよう、自らの技術を磨き上げていったのだ。

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こういう中で、明治維新の風が吹き、歌舞伎界も維新の流れの中に巻き込まれていった。

まず、安政から幾たびかの大地震と火災、あるいは台風によって、すべての芝居小屋が集中した江戸猿若町は、度重なる普請工事を繰り返させられる。
そして、幕末から明治にかけての急激なインフレが起こる。
さらに戊辰戦争で、浅草のすぐとなりである上野の山が戦地となる。

この混乱によって、各芝居小屋は客足が遠のいていく。
下の錦絵は、「月の光によって人物の影が描かれた」作品として有名な広重の『名所江戸百景 猿わか町よるの景』だが、同じ絵師の作品ながら上に示した『芝居町繁榮之圖』とは異なり、猿若町に賑わいが感じられない。1856年の作品なので、災害による復興中の中、やや客足が遠のいていた時期なのかもしれない。

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一方、徳川幕府に替わり政権を奪い取った明治政府もまた、歌舞伎界を規制しようとしてきた。
明治元年(1968年)にはすでに、江戸三座といわれた「中村座」「市村座」「森田座」に対して、猿若町からの移転を勧告する。
さらに、日本の西洋化を目指していた政府高官や知識人などが、歌舞伎に対して「文明国家として相応しくない」と非難する。

明治に入り世情が安定する中で歌舞伎人気もようやく戻りつつあったが、歌舞伎界は「文明開化」という時代の波にさらされ、さらにコンプレックスを深めていくことになっていった。
こうした時代の風を受け、歌舞伎界は自ら変わろうとする……

ということで、もう少し続くので、続きは次回に。


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19世紀は歌舞伎の大転換期……その1

■今も昔も変わらない『暫』の姿

前回、「浅草寺の顔」というテーマで写真を掲載した。
その際に、9代目・市川團十郎がモデルとなった「『暫』の像」を紹介し、「19世紀は歌舞伎の大転換期だった」と書いた。

所詮は僕もあらゆる書籍からの“読みかじり”でしかないが、数年前、「19世紀の歌舞伎の転換期」について、自分なりに整理して書いたものがあるので、それを大幅に加筆・修正してみた。
各写真は、クリックすると拡大画面が見られる。

前回の記事のコメント欄に掲載しようと始めたが、あまりに長くなったので、改めて記事として掲載する。
しかも今回は、『暫』の話と團十郎のルーツだけで長くなってしまったので、実際に9代目・團十郎と「19世紀の大転換期」については、次回以降に……。

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前回の記事では顔のアップだけだったが、上の写真は「『暫』の像」全体をうつしたもの。
『暫』というのは、古典歌舞伎の代表的な狂言の一つ。
歌舞伎を見たことない人も、「ぁぃゃ しばらくっ。しぃばぁらぁくぅ〜っ」という台詞は、何となく見聞きした覚えもあるのではないだろうか。

『暫』というのはもともと独立した演目ではなかった。一つの「型」のようなもので、毎年11月に行われる「顔見世」と呼ばれる興行の際、色んな演目の中で、その時々の登場人物の「暫」が披露された。悪人が善良な人を殺そうとする瞬間に、「暫く!」といって主人公が花道から登場し、善良な人を助けるというパターン。江戸中期までは、とくに歴代・團十郎の出る座の顔見世興行で披露するのが、一つの形式になっていた。
現在は、後述する7代目・團十郎が独立した演目として選定し、9代目・團十郎が改編した台本を元に、上演されている。主人公は鎌倉権五郎景政。

実は僕も、以前はこの辺のことをちゃんと理解していなかった。「昔はいろんな登場人物で『暫』を演じた」というのはどの本にも書いているので、何となくは理解していたが、ちゃんとイメージ出来ていなかったのだ。

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数年前、浮世絵の本を読んでいた時、「『暫』の碓井貞光役を演じる〜」というキャプションの付いている錦絵を見て、「あれ? 鎌倉権五郎景政じゃないの?」と思い、ここで初め気がついた。
上の錦絵は、歌川国政による『市川蝦蔵の暫』という絵で、歌舞伎の「暫」をモチーフにしているが、モデルの登場人物は「碓井荒太郎貞光」(役者は後の5代目・團十郎)。同じ絵をボストン美術館で所蔵していることもあって、海外でも知られた絵だ。僕が理解できた絵はこれ。
つまり、僕が舞台で見ている『暫』は鎌倉権五郎景政であって、この何度も見ている有名な浮世絵で描かれているのは、この絵の主人公とは別人物だったというわけ。ほぼ同じ化粧・隈取り、ほぼ同じ衣装(『暫』の衣装は、袖が正方形になっていて特徴的)の絵なので、何となく僕の知っている『暫』だと思っていたが、実際にはまったく違う演目(『清和二代遨源氏』)に登場する主人公の絵ということだ。

こういう小さいことの積み重ねが、知らない人に取ってはストレスになって、歌舞伎をより判りづらくしていると思うが、歌舞伎界とその周辺以外から観た視点で解説してくれている本は、残念ながら少ない。

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上の墨摺絵は、2代目・團十郎の『暫』を描いた浮世絵(絵師:鳥居清倍)。この絵のモチーフとなった演目は不明だが、すでに隈取りも衣装も、現在の『暫』の原型がはっきりと感じられ、それ以上に、この絵に描かれた團十郎の構えた姿は、一番上の写真、浅草の「『暫』の像」の構えとそっくりだと分かってもらえるだろう。
ちなみに、初代・團十郎が最初に『暫』の型を取り入れたのは『参会名護屋』という演目で、初代から現代に至るまで、演目や登場人物の名前は違っても、『暫』のアウトラインは変わっていないという。

前回の記事でも描いたが、初代・團十郎の出現によって、江戸歌舞伎は大きく飛躍した。
長くなるので大雑把に説明すると、初代・團十郎は「荒事」と呼ばれる歌舞伎の重要なジャンルを確立した。ド派手な衣装、六法を踏んだり見得を切るようにデフォルメされた表現方法、荒々しい演技の演出方法を取り入れた芝居が「荒事」だ。
よく知られた演目では『勧進帳』の弁慶や、以前の記事で書いた『義経千本桜』の狐忠信などが、「荒事」の代表的な作品。もちろん『暫』の鎌倉権五郎景政もそう。

この「荒事」の出現と、それを颯爽と演じる初代・團十郎の姿を、江戸の庶民はとても喜んだ。現在でも「荒事」の主人公が出てくると劇場が盛り上がるが、高揚感が高まる作品が多い。ほぼ同時期に「和事」を確立した上方の発展と、江戸歌舞伎の発展は、ここから大きく異なっていくが、ともにこの時期に現代に通じる歌舞伎を完成させた。

初代・團十郎の生み出した「荒事」は、二代目・團十郎によってさらに洗練され、上方の「和事」から写実性なども取り入れて完成したと言われている。
初代・團十郎と二代目・團十郎の演技は次第に神格化して語られるようになり、「現人神」とも「荒人神」とも言われるようになる。
こうしたことから、市川家は江戸歌舞伎の宗家として扱われるようになり、現代も同様に、市川團十郎は歌舞伎の世界では別格の扱いとなる。

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ということで、この『暫』は市川團十郎の代表的な演目の一つというわけだ。とくに現代の『暫』の台本を残した9代目・團十郎にとっても代表的な作品となった。
だからこそ、9代目・團十郎が活躍した時代に芝居小屋が集中していた浅草に、代表作である『暫』を演じる姿が記念像となって残っているわけだ。

初代から当代である12代目・團十郎までの、それぞれ世代について知りたい人は、下記のサイトを参考にどうぞ。
江戸東京博物館「市川團十郎と海老蔵」展


またまた、いつものように前段だけで長くなってしまった。
「19世紀の大転換期」という本題については、次回以降に続く。


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浅草寺の「顔」……その2


前回の記事の続き

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浅草寺本堂裏にある「『暫』の像」。
幕末から明治にかけて「劇聖」と呼ばれた9代目・市川團十郎がモデル。

歌舞伎は、いろんな変遷はあるものの、17世紀後半に、現在と通じる歌舞伎のスタイルが出来あがった。これは東西での大きな流れの中で起こったものだが、江戸においては、初代・團十郎の登場が最大級の出来事だった。その後、何度かの発展期を通って約200年、江戸末期から明治にかけて、歌舞伎は大転換期を迎えた。この大転換期、とくに明治期に中心となって舞台で活躍したのが「団・菊・佐」と呼ばれる3人の人気俳優たちで、9代目・團十郎はその一人だ。

当代の團十郎(十二代)や、その息子である海老蔵とは直接の血縁関係ではないので、こうしてアップで見ても面影は感じられない。ちなみに当代の團十郎は、7代目・松本幸四郎(当代・幸四郎のお爺さん)の孫になる。


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上の4つの顔は、浅草神社にある2対の狛犬。
個人的には右上の顔が好きだが、どれもなかなかいい顔だ。


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最後に、浅草神社で猿まわしの実演をしていたチビ猿・コナパ。
浅草神社では、休日(不定期)に猿まわし師と猿が実演を見せてくれている。
このコナパはまだ1歳ほどで、まだまだ訓練中らしい。やや練習不足で人前も不慣れだったようで、実演が終わった後、猿まわし師のお兄さんにしがみついて離れなかった。
もし浅草神社で猿まわしをみかけたら、最後まで見た上で“おひねり”をあげてくださいな。

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今回紹介した「顔」の場所は、下の地図で確認できる。

Cb09021708

最初に書いた通り、今回の記事のダイジェスト版を、「浅草の風」というブログにも投稿した。
このブログを運営している方は個人なのだが、浅草観光案内に一役も二役も買っているので、僕も少しばかり応援させてもらっている。

とにかくその更新回数と、浅草の様子を伝えるタイムリーな写真の数がすごいので、良かったらぜひ、そちらも覗いてください(左のサイドバーからも、ジャンプできます)。


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浅草寺の「顔」……その1


1週間ほど前になるが、浅草寺で「顔」をテーマに写真を撮ってきたので、散歩写真を紹介。

一部、というか半分くらいは「浅草の風」に投稿した写真と重なるので、もう少し詳しい説明をつけてみた。

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宝蔵門から仲見世方向に向いて左手(弁天山方向)にある「母子地蔵」。
『明日のジョー』や『ハリスの風』を描いた漫画家・ちばてつやがデザインし、1997年に建立された。
ちばてつやは子どもの頃、戦時中を満州で過ごし、戦後引き揚げて帰国した。兄弟が多かったため満州では兄弟たちの面倒をよく見させられたが、幼い兄弟たちに絵を描いてあやした。弟であり『キャプテン』などを描いた漫画家・ちばあきおは、てつや少年が描く絵を喜んだという。タイトルは失念したが、当時の様子を描いた作品を読んだことがある。
兄弟の面倒を見、平和を求める気持ちの強いちばてつやらしく、母子像はとても優しくて心温まる笑顔だ。


Cb09021702

母子像の目の前にある二尊仏。
手ぶれの画像で情けないが、向かって左は勢至菩薩、右は観世音菩薩。
像の高さは、約2.4メートル、台座を入れても約4メートルほどの高さだが、昔は「浅草大仏」と呼ばれたらしい。

僕は仏像に詳しいわけではないが、個人的には、どちらの顔も、浅草寺周辺の仏像でもっともいい顔をしていると思う。


Cb09021703

影向堂の敷地にある阿弥陀如来像。
1945年3月10日の東京大空襲で、浅草寺の本堂は焼け落ちてしまった。それから戦後約10年、1955年まで、影向堂が浅草寺の仮本堂として務めた。僕のお婆さんなんかは、とても馴染み深かったらしい。今の影向堂は、1994年に改修されたもの。
影向堂の中の菩薩様たちの顔は撮影できないので、外にある阿弥陀様を撮影。

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→その2につづく


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新御徒町周辺で初のカフェ……〈cafe Title〉


今から約4年前、このブログを始めてすぐに“稲荷町カフェ”という見出しで「カフェ・メイプル」を紹介した。
メイプルは、カフェというより、この界隈で古くからあるコーヒーショップ。“安い・不味い”のベローチェが稲荷町の交差点に出来て以来、徐々に客足が遠のいているようだ。
稲荷町界隈でコーヒーを飲むなら、マクドナルドやベローチェではなく、ぜひメイプルのような地元のコーヒーショップを利用してほしいと思う。

と、そんな気持ちで書いたのだが、当時、この界隈には小洒落た“カフェ”なんてものは存在していなかった。
女子が好きそうな雑貨、ヨーロッパの田舎を感じさせる内装・外観、一つ一つが不揃いだけど雰囲気のある家具や食器、そしていわゆる“カフェ飯”のランチ……そんなものが揃ってる店を“カフェ”と言うのだろうが、仕事の打ち合わせで女性スタッフが来てくれても、そういうカフェは上野か浅草まで行かないと連れて行けなかった。

ところが、2年ほど前、新御徒町の駅からすぐの路地にカフェが出現。それが「cafe Title」。

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照明はほどよく暖かみのある明るさで、内装も家具もかわいい。オリジナルバッグの店内販売もしていて、店内に飾られている。
バッグデザイナーがオーナーらしく、店内の雰囲気はまさに“カフェ”。

夜は一度だけしか行ったことがないので、僕が利用するのはもっぱらランチ。

日替りでメニューは変わるが、パスタを中心に、カフェ丼、プレートなどが5〜7種類ほど用意されている。昼も夜も、イタリア系のメニューが多い(ワインメニューもイタリアのワインが多い)。

味は、とくに可もなく不可もなく、まぁ普通。
ただ、味なんかよりも、この界隈に“カフェ”が出来たことが重要だ(笑)。
だって、とくに女子には多いと思うけど、「そこそこ旨いけど薄汚い店」と、「味は今一だけど雰囲気のいい店」があったとして、味よりも何よりも、店の雰囲気を味わうことを重視して後者を選ぶ時ってあるものだから。
僕なんかはむさ苦しいオッサンだけど、やっぱり後者を選びたい時だってあるもんだ。

そうそう、コーヒー関連の味は悪くない。
だから、昼時に大江戸線を新御徒町で降りて「昼飯のついでに本でも読みたいなぁ」なんて時は、一人でも利用している。

各テーブルにアンケートの用紙がおいてある。
回答に協力すると、割引券がもらえるらしい。

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駅からすぐ近いが、大通りから路地に入ったところにあるので、場所を知らない人には分かりづらいかも知れない。清洲橋通りを北に向かって歩いて、上の写真の看板を見たら、その路地を入るとすぐに店がある。ちょうど白鴎高校の南側だ。

この界隈は上野と浅草に挟まれ、ともすると忘れられたような存在で、都心の割にあまり大きな変化のない街だが、こうやって若い人向けの店ができるなど、少しずつ変化している。

Cb0902132

【店名】cafe Title(カフェ・タイトル)
【住所】東京都台東区元浅草1-6-7
【電話】03-5806-9895
【URL】→公式サイト←
【営業時間】月〜木曜=11:30〜15:00/17:00〜23:00
      金〜土曜=11:30〜15:00/17:00〜27:00
      日曜・祝日=定休日
【アクセス】都営大江戸線「新御徒町」駅の出口近く「元浅
      草一丁目」の交差点から、清洲橋通りを稲荷町
      方面(北)へ。一本目の路地を右折。すぐ左手。
【MAP】「長屋界隈」の地図は→こちらをクリック←
     地図上の「38」番がこのお店
【食べログ】cafe Title★★★☆☆ 3.0

↓食べログでは、ココで掲載した以外の店も紹介しています。
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寒いって書いたら、急に暖かくなった


前回の記事で、「暖冬だというけども、やっぱり冬は寒い」と書いたら、今週になって急に暖かくなってきた。

来週にも春一番が吹くそうな……。

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写真は、上野駅のパンダ橋。
左側の欄干に沿って座り込んでるのは、暖かな陽気に誘われて、ひなたぼっこするホームレスのオッサンたち。
景気の悪そうなオッサンたちとは対照的に右端に写っているのが、これでもかってほど存在感を示すサラ金と介護施設の馬鹿でかい看板。

寒かったり天候が悪いと、上野の狭くて天井の低い地下道に、ぎっしりとホームレスのオッサンたちが寝転んで、さすがにその異臭がキツくてたまらないので、陽気がよくて外にいてくれた方が、上野駅の利用者にとっては有り難い。

西郷さんの銅像でお馴染みの上野公園、それから隅田川沿いの隅田公園は、ホームレスの住処としてすっかり定着している。
5年前まで、隅田川沿いの高層マンションに実家があって、年に一度の花火大会の時はビュースポットだった。ただし、マンション住人を除けば、もっとも近いご近所さんは、隅田川に沿って集合住宅並にずらっと並んでいる段ボールハウスのホームレスたち。
そして、今僕が住んでいるこの長屋の周辺は、夜な夜な、定住段ボールハウスの持てない移動ホームレスのオッサンたちが、そこら中のビルの軒下に段ボールを組み立てて一夜限りのお泊り。

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前述したように何処かにこもって異臭がキツかったり、たまにこの長屋の裏の陰に隠れて糞尿をしてそのまま放置していくホームレスがいるんで、そういう実害はある。「犬じゃねぇんだからよぉ!」と腹も立つ。この界隈でも、元実家の近くでも、ホームレスがいることを迷惑だと感じている人もいるだろう。

でも僕は、実害に腹を立てることはあるとしても、ホームレスに対して特別な感情は持ってない。
昔から同情もしてないし、逆に存在していることを否定する気もない。散歩しているときに公園で気の良さそうなホームレスがいれば会話を交わすこともあるし、知り合いから炊き出しのカンパを求められればするし、ゴミをあさって散らかすホームレスを見れば注意して片付けさせる。
それが僕にとってホームレスとの距離感だ。

とはいえ、自ら一般社会との隔絶を望んでホームレスになってる人は別にして、社会の矛盾によって結果的に望まないのにホームレスをせざるを得ない人がいること、そういう社会に対しては、何らかの働きかけはしないといけないと考えている。
だからどうだというわけでもないんだけども……。


まぁ、こんな風景も、台東区の一つだということ。
それを含めて、「下町」だってことなんだと思う。

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自宅でフグ鍋もオツなもの……ふぐ・すっぽん〈辻むら〉


暖冬だというけども、やっぱり冬は寒い。

とくに僕の仕事場はビルに囲まれたボロ長屋の1階なので、日当りは悪いし、すきま風が入ってくるし、エアコンをつけたくらいでは底冷えは止まらない。
個人的にエアコンはあまり好きではないので、いつも電気毛布を膝掛にして、文字通り「頭寒足熱」で仕事をする日々。でも、いくら電気毛布を膝掛にしても、やっぱり寒いものは寒い……。

で、多くの人が冬になると鍋がおいしいと感じるわけだが、僕はきっと、人よりも何倍も鍋が旨いと感じながら食べてるんじゃないかなぁ、と勝手に思ってる。
ということで、僕は冬になると毎週のように鍋を食べている次第。

まぁ鍋にもいろいろあるわけだが、今日は、自宅でフグ鍋を食べるときに僕が利用している浅草のフグ・スッポン料理店「辻むら」の紹介。

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浅草の観音様(浅草寺)の裏手(北側)は、一般的に「観音裏」と呼ばれている。観音裏は、芸者さんを呼ぶ料亭から、路地裏にある小さな小料理屋、老舗の洋食屋、趣のあるカウンターバーなど、名店と言えばよいだろうか……、まぁ大人の店が多く、浅草の表玄関である雷門周辺とはまったく違い、静かで落ち着いた店が多い。
「辻むら」は、この観音裏にあるフグ料理店だ。

本店、別館、持ち帰り専門店と3店舗あるが、本店が本格フグ料理とスッポン料理、別館は懐石料理、そして持ち帰り店では、ふぐちりセットやふぐ刺しセットを販売している。

持ち帰りの「フグちりセット」は一人前2000円、天然のトラフグちりでも一人前4500円で、「セット」というだけあって、野菜、豆腐、おもち、薬味に、漬けだれまでが付いてこの値段だ。
「ふぐ霜ふり造り」も2000円から用意されているし、唐揚げ用のふぐ(頼めば揚げた状態にもしてくれる)や、フグの白子も販売している。

本店がかなり良心的な店で、一人前5000円からコース料理を楽しめこともあり、持ち帰り専門店でもリーズナブルに提供している。
といっても、「辻むら」はその辺のチェーン店とは違い、リーズナブルな値段が主流ではなく、本店や別館では天然のフグやスッポンを使った本格的な日本料理を楽しむことのできる店だ(一人平均的な予算は15000円ほど)。だからこそ、こうした安価なサービスも、安心して楽しむことができるというもの。

僕は冬場になると、年に何度かではあるが、この持ち帰り専門店で材料を買って帰り、家でフグちり鍋を楽しんでいる。
安価な一人前2000円のセットでも、フグの味は十分にしっかりとしているし、この値段でこの味なら、まったく問題がない。味気のない某店よりも、よほど安くて旨いフグを堪能できる。

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下の写真はスッポン鍋

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ちなみに本店では、5人集まれば一人25000円のセット料金で、コース料理が楽しめ、しかも芸者さん(2人?)を呼んでもらえる。一般的に料亭で芸者を呼んでお座敷をあげると、料理や人数にもよるが2〜4人で20万円弱かかると思うので、かなりリーズナブルだ。僕はここで芸者さんを呼んだことはないので、いわゆるお座敷遊びをどこまで出来るのかはちょっと不明だが、まぁ芸者体験入門として利用すれば面白いと思う(そのうちに、友人を集めて体験したら、また報告します)。

本店や別館は、コース以外の単品料理に値段が書いてない場合もあり、初めての時は値段に不安があるかもしれない。そういう場合、予め店員さんに予算を告げておけば、ちゃんとその範囲で収めてくれるから安心だ。

スッポン料理やフグ料理というと、少し敷居が高いと感じる人が多いだろう。
最近はリーズナブルな値段でチェーン展開しているところもあるが、やは有名な高級店は最低でも一人2〜3万円くらいの予算が必要となるので、お気軽なイメージにはならないのかもしれない。
浅草でフグといえば「三浦屋」や「三角」など有名店がいくつかあるが、「辻むら」を含めて浅草のフグ店の多くは、敷居もあまり高くなく気軽に入れるのがうれしい。

「辻むら」のご主人は観音裏界隈の地域振興のためにご尽力されているということもあって、お座敷上がりの芸者さんも帰りに立ち寄って食事をするなど、浅草花柳界との繋がりも深い。
だからこそ、浅草に足を運んだ人たちが、安心して料理を楽しんだり、芸者体験をしてほしいと願い、こうした値段で楽しめるコースを用意している。

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上の写真は本店の外観

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持ち帰り専門店は、クール便で全国発送もやっていて、「ぐるなび食市場」からも注文できる。
まぁ、最近はこうして遠くから注文も出来るし、「フグちりセット」なんてデパートでも簡単に買えるので、わざわざ買いに来るほどのことはないのかもしれないが、花街としてどこか艶やかであり、閑静な街並の観音裏に来た帰りにでも、土産に買って帰り、散歩で冷えた身体を鍋で温めれば、ひと味違った浅草散歩を楽しめるのではないだろうか。

鍋といえば、最後は雑炊。
フグ鍋の雑炊はダシがきいて本当に旨い。個人的には、鍋で身を食べよるよりも、フグ刺を食べるよりも、雑炊を食べるのが何よりも楽しみ。
自宅で食べる時は、夜に鍋をして、翌朝に雑炊を作る。これがまた格別だ。
寒い冬の朝も、この雑炊で一日を始めると元気に過ごせる。

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【店名】ふぐ・すっぽん料理 辻むら(本店)
【住所】東京都台東区浅草3-34-9
【電話】03-3872-4640
【URL】→公式サイト←
【営業時間】17:00〜22:00
     (休日は季節によって違うので要確認)

【店名】辻むら 持ち帰り専門店
【住所】東京都台東区浅草3-33
【電話】03-3872-4675
【ぐるなび食市場】→お取り寄せサイト←

【食べログ】ふぐ・すっぽん料理 辻むら★★★★ 4.0

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自衛隊は自浄できない……書籍『自衛隊員が死んでいく』

前回の記事に書いた通り、僕は、自衛隊という組織は解体的再編をすべきだと考えているが、僕のこの「確信」を裏付けてくれる書籍がある。

今回は『自衛隊員が死んでいく─“自殺事故”多発地帯からの報告』の紹介。

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自衛隊員が死んでいく―“自殺事故”多発地帯からの報告Book自衛隊員が死んでいく
―“自殺事故”多発地帯からの報告

著者:三宅 勝久
販売元:花伝社
Amazon.co.jpで詳細を確認する

この本は、自衛隊という組織を防衛論や憲法の観点から否定するものではない。
自衛隊の中で起きている「自殺問題」「虐め問題」「セクハラ問題」を切り口に、自衛隊の組織的体質に焦点をあてたルポルタージュだ。

自衛隊内で起こるこうした問題の背景については、著者の前著『悩める自衛官—自殺者急増の内幕』(三宅勝久 著/花伝社 発行)で詳しく分析されている。一言で言っていいか判らないが、自衛隊員の抱えるストレスが大きな要因となっていると、著者は指摘している。
それについては、僕も個人的に強く感じることがある。若い頃、複数の自衛隊員と友人・知人関係だったが、彼らのストレスが相当なものだったことを憶えている。そのために、酒、風俗、ギャンブルへの執着が強かった。当時の僕はそういう場所で生きていたが、客としてみる彼らは、他の客と比べても異常に執着が強い印象を持っていたし、その後に知り合った元自衛隊員から聞いた話でも、やはり相当なストレスを抱えながら過ごしていたことが伺えた。

本書では、そういうストレスが大きな要因となって起きる様々な隊内の問題について、当事者へのインタビューによって6つの事件を検証し、共通する問題として自衛隊の「隠蔽体質」を明らかにしている。

事件を追求する当事者──たとえば自殺問題では遺族、セクハラでは被害者本人──が、自衛隊に対して実態解明の調査レポートを求めても、自衛隊から帰ってくる答えは、彼らが求めた物とはまったく異なり、およそ期待に答えたとは言えないものばかりだった。
それぞれの問題について、自衛隊は何らかの関与については認めておきながら、およそ身内を庇っているとしか思えないような見解を繰り返している。しかし、その見解が実態解明とはほど遠いものであろうというのは、本書を読めば明らかだ。
また、近年の自衛隊の不祥事に関する対応を見れば、本書が主張する自衛隊の隠蔽体質の存在には説得力が感じられ、一方の自衛隊の見解には話の筋が通っていないと感じられる点が多いことが判る。

自分の組織の中で問題が起きたことに対して、組織内で調査チームを作っても、およそ信憑性など確保できない。自衛隊に限らず、年金問題での社会保険庁の対応を見ても、あるいは一般企業が事故を起こした時を見ても、組織内の調査というのは身内に甘くなるのが世の常というものだ。

そして本書は、こうした自衛隊の隠蔽体質の延長線上には、旧日本軍との結びつきを強く感じさせると訴えている。

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著者の三宅さんと僕は、出版ネッツのメンバー同士であり、フットサルチームの仲間でもある。消費者金融問題を深く追及し、その執拗な追及によって大手の武富士から逆恨みを買い、『週刊金曜日』の掲載記事をめぐって5000万円という巨額な賠償請求という不当な名誉毀損裁判を起こされが、逆に反訴し、見事に裁判に勝った骨っぽいジャーナリストだ。

この2月20日(金)には、三宅さんの講演「自衛隊はいま」が開かれる。上の画像をクリックすると、チラシのPDFデータにジャンプするので、興味のある人はぜひ。
【追記】
2月20日の講演は残念ながら中止となったが、4月15日(水)に延期して行うこととなった。


【書 名】「自衛隊員が死んでいく
     ─“自殺事故”多発地帯からの報告」
【著 者】三宅勝久
【発行元】花伝社 http://www1a.biglobe.ne.jp/index/
【発行日】2008年5月25日
【体 裁】四六判/並製/216ページ
【定 価】定価1575円(本体1500円 + 税5%)
【ISBN】978-4763405203

【講演日】2008年4月15日 18:30〜
【会 場】出版労連
【住 所】東京都文京区本郷4-37-18 いろは本郷ビル2階
【資料代】500円
【主 催】出版労連


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自衛隊は解体されるべきだ


もう20数年前から、僕の中で変わってない哲学がある。
それは、戦争行為に対して反対の意志を貫いていくことだ。
だからもちろん、僕は日本国憲法の9条を強く支持している。

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「じゃぁ、日本の国防は? 安全保障は?」という問題は、ここで書き始めると長くなるので、いつかタイミングが合えばジックリと書きたいと思っている。
とりあえず、まぁすぐに「非武装」といっても、日本には日米安全保障条約があり、自衛隊という軍隊擬きの組織が存在しているし、実際に隣国である北朝鮮とでさえ国交がない段階では、「明日から非武装にしよう」といっても現実的ではない。

「だったら、自衛隊の存在を認めるの?」と言われれば、僕は現在の自衛隊を認めるつもりはない。

まず、災害に関する自衛隊の活動と現状の行政的役割については、高く評価しているし、それを否定するつもりはない。ただ、これが自衛隊という組織に所属していなければならない絶対的根拠は見当たらないので、これはすぐにでも、「災害救助隊」として独立すべきだと考える。他の「非軍事的」活動についても同様で、将来的にも必要な組織があれば、それは別組織として分離し独立させればいい、
で、残る軍事組織としての自衛隊については、すぐにでも「解体的再編」すべきだと考えている。
「再編」というのは、将来的なことは別にして、とりあえずは「防衛組織」の存在を認めるということ(将来的には完全解体すべきと考える)。

「どうせ防衛組織を持つなら、今の自衛隊でもいい」という人も多いと思うが、僕はそうは思わない。再編のために莫大な予算がかかるとしても、今の自衛隊は「解体的再編」をしない限り、絶対にまともな組織にならないと「確信」している。

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その理由の一つは、自衛隊(およびその母体となった警察予備隊以降の組織)の発展の中で、脈々と旧日本軍の思想・哲学を引きずっていること。これは、先の田母神俊雄の発言を見るだけでもよく判る。自衛隊の隊員教育に強い影響をもつ人間が、日本国家の意思とは反対のことを公然と主張し、隊員教育の場でもその思想を前提に行っていた可能性が強いということだ。もし本当にそのような隊員教育が行われていたならば、これは日本の行政組織として大問題だ。
このように、国家としての意思を無視するような行政機関なんて、どんな理由があるとしても認めてはいけない。まして「文民統制」が基本条件である民主主義下の軍事組織が、国家の意思を無視するなんてもってのほかだ。

もう一つは、自衛隊という組織がことごとく隠蔽体質で、組織内の自浄作用が働くようなものだとは思えないこと。これについては、この数年の自衛隊内の不祥事について、自衛隊内部からは、事件の真相を隠そうという意思しか見えてこないことからも明らかだ。
いま、一連の年金問題で「社会保険庁は解体的出直しをしなくてはならない」という議論があるが、これと同じように、自衛隊も解体的再編をしない限り、組織内の自浄作用など期待できない。

他にも書き出すと、これまたダラダラと長い文章を書くことになってしまうので、とりあえずはこの2つをあげておくけれども、まぁ僕としては、この2つだけでも自衛隊が解体的な改編をする相当な理由だと思っている。

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さて、何でいきなりこんなことを書いたかといえば、次の記事で紹介しする書籍のことを書く前に、まぁ僕の自衛隊に対する考え方を書いておいた方がいいかなぁって思ってのこと。

自衛隊のことだけに関わらず、僕があらゆる戦争行為を反対し憲法9条を支持する理由について、このブログではあまり書いてこなかったので、関連する本を紹介する前に、とても簡単ではあるけども一応書いておく。

ということで、次回につづく


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