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19世紀は歌舞伎の大転換期……その2

■「河原乞食」が抱え続けたコンプレックス

さて、前回の記事の続きで、ようやく本題。

今回も、各写真をクリックすると拡大画面が見られる。

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江戸末期から明治時代にかけて、19世紀のおよそ100年、世の中は明治維新の風に吹かれて激動の時代だったが、この19世紀は歌舞伎界にとっても、大きな転換期となった。

まずこの時期、鶴屋南北と河竹黙阿弥という二大作者が、名作狂言を次々と生み出す。この2人は、現在の歌舞伎ファンの知名度も高く、100〜200年経ったいまでも人気の高い演目を数多く残している。
鶴屋南北(正確には4代目だが、狂言作者として特筆すべきは4代目だけなので、一般的には4代目は省略されることが多い)は、『東海道四谷怪談』などの作者だ。
もともと「ケレン」と呼ばれる派手な演出の狂言を書いてきたが、『東海道四谷怪談』では、「戸板返し」「仏壇返し」など新しいケレンを駆使し、残忍な殺害風景、妖艶な濡れ場、さらに時代を反映した世相を取り入れ、リアリティ感のある恐怖の舞台を作り出した。
このようにリアルで写実的なストーリーは、「生世話物」というジャンルを確立したとされている。

余談だが、昨今の落語ブームに関連した記事や文章の中で、三遊亭圓朝を紹介するとき「『四谷怪談』を創作した」との表記があるが、これは明らかに説明不足。『文七元結』が圓朝の創作で歌舞伎に移入されたため、それと混同して、「四谷怪談」も落語から歌舞伎に移入したような書き方も見られる。
たしかに落語の新作『四谷怪談』を創作したのは圓朝だが、『東海道四谷怪談』は圓朝が生まれる前に完成しており、圓朝が歌舞伎から落語へと取り入れたものだ。
ちなみに『東海道四谷怪談』の原典は、『四谷雑談集』と言われている。噂話・誹謗中傷などを集めたスキャンダル集だが、その中の話に『忠臣蔵』の設定を絡めて創作された。

下の錦絵は、歌川国貞による『夢結縁草戸』。『東海道四谷怪談』を描いている作品で、左から“八重がきおひめ(お梅のことか?)”岩井紫若(7代目・岩井半四郎)、“お岩ゆう霊”五代目・尾上菊五郎、“民谷伊右衛門”5代目・市川海老蔵(7代目・團十郎)。

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もう一人が河竹黙阿弥。
「知らざぁ言って聞かせやしょう」の弁天小僧 菊之助でお馴染みの『青砥稿花紅彩画』(通称:白浪五人男)や、以前の記事で少し紹介したこの上野・下谷界隈が舞台となる『天衣紛上野初花』(通称:直侍・河内山)、中村勘三郎の舞台に椎名林檎が音楽を担当して話題となった『三人吉三廓初買』(三人吉三巴白浪)など、現代の舞台でも、数多くの作品が上演されている狂言作者だ。
七五調の流暢な台詞を端役の登場人物にまで徹底して配し、歌舞伎に独特のリズムを作り上げ、また、義太夫や清元を効果的に使った演出で音楽性を高めた。
そして、ストーリーとしては、江戸の庶民の抱えている不条理感を作品内にちりばめ、その因果応報に苦しむ様を描きだした。これについて僕は、幕末という時代のうねりの中で、支配階級である武士たちが政治と世情を不安定にさせることに対して、江戸文化の中心だった庶民たちが漠然と感じていた不安感や、自分たちの力では世情の不安定さから脱却できない焦燥感などを、見事に描いたと解釈している。

黙阿弥については、またいつか詳しく書きたいと思うが、とにかく、この二人の偉大なる狂言作者によって、幕末の歌舞伎はより洗練され、いよいよ文化としての完成度を高めていった。

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一方、歌舞伎役者も、自己改革を目指していた。

19世紀前半に活躍した7代目・團十郎は、市川團十郎家の権威を誇示するために、『暫』『勧進帳』など18本の演目を選出し「歌舞伎狂言十八番」と命名した。余談だが、これを摺り物にして箱につめ、贔屓客に配ったことから、得意なものを「十八番」と書いて「おはこ」と言うようになる。

7代目・團十郎が権威を誇示しようとしたのは、何よりも歌舞伎役者の地位が低かったためだ。江戸時代、とくに黎明期には、「河原乞食」と呼ばれ遊女と変わらないほど、歌舞伎役者の地位は低くかった。
歌舞伎が世に誕生したのは、江戸時代が始まった時とほとんど同時期だが、幕府は、江戸時代を通じて一貫して、世の中の風紀が乱れるとして歌舞伎を厳しく取り締まった。

歌舞伎で「大向こう」と呼ばれるかけ声がある。團十郎なら「成田屋っ!」、菊五郎なら「音羽屋っ!」というやつだ。あれは、歌舞伎役者の屋号。今でも商法の制度として残っている、あの屋号だ。
前述の通り身分制度の中で歌舞伎役者の地位は低く、本来「士・農・工・商」の下とされていた。「市川」「中村」「松本」などと苗字を名乗っているが、武士階級にしか苗字が許されない時代に、士農工商よりも身分の低い役者たちが苗字を持てるはずもない。役者たちが勝手に苗字を名乗り、幕府がそれを黙認していただけのことである。実際に、例えば歌舞伎興行の許可を求めるときなど、幕府に提出しなくてはならない文章を書く際には「中橋猿若座 歌舞伎役者 勘三郎」などと記していた。
それでは不便なことも多いため、一部の役者たちの中に商人の習慣に習って屋号を付けるものが出てきた。日本橋の商人が越後の国から出てきて「越後屋」(現在の三越デパート)と名乗ったように、家系の縁などから名付ける方法だ。これが、成田山新勝寺を信仰していた市川團十郎家の「成田屋」となる。
また、中村(猿若)勘三郎のように、役者でありながら、芝居小屋の支配人である「座元」を務めるものもいた。これはそのまま、芝居小屋の屋号である「中村屋」を名乗る(後に役者ではない座元も、苗字と屋号を混同しながら使用する)。現在では、多くの役者の屋号が苗字と別なのに対し、中村勘三郎家だけが苗字に「屋」を付けるだけなのは、こうした理由からだ。
さらに、人気のある者は「千両役者」(一年間で千両以上の契約。江戸中期ならば、おおよそ1億円くらいの感覚。ちなみに所得税はない)と言われるほど大金を稼いだため、そのお金で副業の商売を始めた者もおり、その商売の屋号を使う場合もあった。
こういう経緯から、どの役者も屋号を持つことになり、これが、歌舞伎役者の家系を屋号で呼ぶ風習として、今でも残ってるわけだ。

こうして役者の人気が庶民たちから高まり、また経済的な成功を収めた芝居関係者も多くなると、幕府もその存在を認めざるを得なくなってしまう。当時は、江戸の表通りは武家と商家しか家を建てることが許されていなかったが、幕府は歌舞伎役者に商人としての地位を持たせ、歌舞伎役者が表通りに家を持つことを認めた。
ただし、やはり身分としてはあくまでも士農工商の下に置き、風俗を乱し社会を混乱させる恐れがあるとして、吉原などの遊郭ととも常に厳しく管理した。幕府の取り締まりは江戸末期まで続く。例えば幕末(天保年間)になって、江戸に四散していた芝居小屋を、浅草の北側、後の猿若町にすべて集中させたのも、取り締まりの一環だった。

下の錦絵は、歌川広重『東都名所 芝居町繁榮之圖』。1843年頃の江戸猿若町。当時の賑わいがよく感じられる。

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このように役者をはじめとした歌舞伎関係者たちは、実態に則していない地位の低さをコンプレックスに感じながら、江戸時代を過ごしていた。
だからこそ、7代目・團十郎は、必要以上に権威を誇示しようとしていたし、この時期の役者たちは、鶴屋南北や河竹黙阿弥によって生み出された完成度の高い狂言に対し、その狂言が要求する演技に答えられるよう、自らの技術を磨き上げていったのだ。

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こういう中で、明治維新の風が吹き、歌舞伎界も維新の流れの中に巻き込まれていった。

まず、安政から幾たびかの大地震と火災、あるいは台風によって、すべての芝居小屋が集中した江戸猿若町は、度重なる普請工事を繰り返させられる。
そして、幕末から明治にかけての急激なインフレが起こる。
さらに戊辰戦争で、浅草のすぐとなりである上野の山が戦地となる。

この混乱によって、各芝居小屋は客足が遠のいていく。
下の錦絵は、「月の光によって人物の影が描かれた」作品として有名な広重の『名所江戸百景 猿わか町よるの景』だが、同じ絵師の作品ながら上に示した『芝居町繁榮之圖』とは異なり、猿若町に賑わいが感じられない。1856年の作品なので、災害による復興中の中、やや客足が遠のいていた時期なのかもしれない。

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一方、徳川幕府に替わり政権を奪い取った明治政府もまた、歌舞伎界を規制しようとしてきた。
明治元年(1968年)にはすでに、江戸三座といわれた「中村座」「市村座」「森田座」に対して、猿若町からの移転を勧告する。
さらに、日本の西洋化を目指していた政府高官や知識人などが、歌舞伎に対して「文明国家として相応しくない」と非難する。

明治に入り世情が安定する中で歌舞伎人気もようやく戻りつつあったが、歌舞伎界は「文明開化」という時代の波にさらされ、さらにコンプレックスを深めていくことになっていった。
こうした時代の風を受け、歌舞伎界は自ら変わろうとする……

ということで、もう少し続くので、続きは次回に。


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