戦争の空気を読みすぎた落語界……〈はなし塚〉
昨日は、12月8日。
1941年(昭和16年)、日本がハワイ諸島の真珠湾を攻撃し、宣戦布告をして太平洋戦争が開戦された日だ。
子ども時分の我が家では、8月15日の終戦記念日と同様、味も素っ気もないすいとんを食べさせられて、随分嫌な日だと思っていた。
薄〜いダシ汁に少しだけ醤油をたらしたような吸い物の中に、うどん粉をこねた固まりとわずかな菜っ葉が入っているだけ。僕の母親はいつも懐かしそうに食べていたが、子どもにとっては不味いったらこの上ない。飽食の時代の食生活で育った子どもたちに、当時の不味い食事を取らせる事で、戦争に対して嫌悪感を持たせるというのは、わかり易い反戦教育だった。
その母親は6歳の冬、浅草から隅田川を渡ったところにある向島で太平洋戦争開戦を迎えたわけだが、母親の記憶では、幼くても世の中の暗い空気は感じられたという。
それでも幼かった母の記憶に残る戦時下の浅草は、少しは華やかだったらしい。当時の浅草といえば日本有数の繁華街だったので、ほかの街よりは賑わっていたのだろう。
向島や浅草は、終戦間際には東京大空襲で甚大な被害があったということもあり、今でも戦争の記憶が残る史跡も多い。多くの文化的な史跡と並んでいるので一見目立たないが、平和を尊ぶ気持ちも浅草には根深く残っている。
前置きが長くなったが、最近、このブログでは落語の話題も多いことなので、今日は落語と平和に関係する史跡を一つ紹介したい。
田原町の駅近く、本法寺に建立されている「はなし塚」だ。
はなし塚
この塚が建立された昭和十六年十月、当時国は太平洋戦争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目について自粛を強いられていた。落語会では、演題を甲乙丙丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する話、廓話五十三種を選び、禁演落語として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作と言われた『明烏(あけがらす)』『五人廻し(ごにんまわし)』『木乃伊取(みいらとり)』等を含み、高座から聴けなくなった。
「はなし塚」は、これら名作と落語会の先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語の台本等が納められた。
戦後の昭和二十一年九月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められた。
平成十六年三月
台東教育委員会
(「はなし塚」脇に建てられている説明文を原文ママに転載)
要するに、当時の大日本帝国政府の意向にそい、落語界側が自ら、吉原を舞台にした「廓噺」、現代のテレビでも自粛するようなお色気たっぷりの「艶笑噺」、そのほか、浮気な女房と亭主の関係を滑稽に描いた夫婦もの、女性の嫉妬心が元ですったもんだのある噺、若者と娘が“不純”な関係になったり駆け落ちしたりする噺などを「禁演落語」として選び、台本とともに塚に埋めて自粛したというわけだ。
コメント欄に全53作の題名を書き起こしておく。説明文にもある通り、今でも高座によくかけられる古典落語の名作も数多いので、興味がある人は、コメント欄で確認してほしい。
当時、落語に限らず、映画、芝居、書籍、雑誌、新聞など、あらゆるものが規制対象とされ、法律によって検閲を受ける事が義務づけられていた。政府にとって都合のいい「理想的な道徳観」を国民に押し付け、それに合わないものは「時勢に適合せず」という評価になった。こうした規制は、一部、明治時代からあったものだが、日中戦争が膠着し、太平洋戦争へと突入していく頃には、規制が強化されていき、厳しい規制のもと、多くのエンターテインメントやメディアは、戦時体制の大日本帝国政府に協力して生き延びるか、協力する事を拒み表現を束縛されるかを選択させられた。
そして、多くの“表現者”たちが戦争に加担させられていく。
後に“昭和の名人”と呼ばれる古今亭志ん生や三遊亭圓生も、落語慰問として満州に訪れるなど、落語界からもいろいろな形で協力をしたようだ。
新聞などが最たるものだが、消極的に協力するのではなく、積極的に戦争へ協力していこうという動きもあった。
今風な言葉でいえば「空気を読む」というわけだが、当時の記録を見ると、世の中の空気を気にしすぎて、思考力を低下させ、日本全体が戦争へと突入していった事が伺える。
「禁演落語」も、過剰と思えるほどの自粛っぷりで、当時の空気を読んだとしても自粛する必要性をあまり感じない演目まで含まれている。
検閲で当時の政府に睨まれては興行をさせてもらえず、収入を得ることができなくなってしまうエンターテインメント業界としては、やむを得ない選択だったのだろう。
戦争が終わり演目が復活した後も、「禁演落語」という恥ずかしい過去を忘れないよう、「はなし塚」は当時の面影のままに残っている。
「はなし塚」が建立されている本法寺の外塀には、落語家をはじめとした寄席芸人、定席の席主など、落語関係者たちの名前が、赤い文字で掘られている。上の写真の中には、文楽、志ん生、圓生、三木助などの名人から、僕の好きな馬生、色物の江戸家猫八や染之助・染太郎の名前も見られる。
禁演落語が復活して約8年後の1954年に、落語関係者たちが外塀を寄贈したそうだ。当時の関係者たちのなかでは、「禁演落語」に対する後悔の念がとても強かったと言われるが、その気持ちを後世に残そうということらしい。
本法寺で外塀の詳しい事を聞かせてもらおうお願いしたが、先々代のご住職の時代の事であり、当時の記録がなく詳しい事は分からないらしい。いずれ浅草文庫にでもいって、資料をあさってみたい。
2002年からは、毎年8月31日に、落語芸術協会が主宰して「はなし塚まつり」というイベントが開かれ、禁煙落語が復活したことを祝っている。
父方の爺さんは、戦争に反対して投獄させられ、拷問にかけられた。勾留されたのが戦争終期だったこともあり、それほど長期間の投獄期間ではなかったそうだが、当時の拷問の様子は生前に何度か聞かせてもらった。
今は曲がりなりにも民主主義の世の中となり、「表現の自由」が保証されている。
「戦争」という空気が、どこからともなく意図的に流されたとしても、真っ向から反対するスタンスを崩さないでいたい。
そのために世間から「KY」と呼ばれたとしても、僕はいっこうに構わない。
【名 称】はなし塚
【住 所】東京都台東区寿2-9-7
長瀧山 本法寺 境内
【MAP】「長屋界隈」の地図は→こちらをクリック←
地図上の「29」番が「本法寺」「はなし塚」
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コメント
【「禁演落語」全53題一覧】
「明烏」「栗餅」「磯の鮑」「居残り佐平次」「氏子中」「お茶汲み」「おはらい」「お見立て」「親子茶屋」「紙入れ」「蛙茶番」「首ったけ」「廓大学」「後生鰻」「五人廻し」「駒長」「子別れ」「権助提灯」「三助の遊び」「三人片輪」「三人兄弟」「三枚起請」「品川心中」「白木屋」「せんきの虫」「紺屋高尾」「辰巳の辻占」「付き馬」「突き落とし」「搗屋無間」「つづら」「つるつる」「とんちき」「二階ぞめき」「錦の袈裟」「にせ金」「白銅」「万歳の遊び」「一つ穴」「引越しの夢」「ひねりや」「不動坊」「文違い」「坊主の遊び」「庖丁」「星野屋」「木乃伊取り」「宮戸川」「目薬」「山崎屋」「よかちょろ」「悋気の独楽」「六尺棒」
投稿: 真公 | 2008年12月10日 (水) 14時25分
【補足の話】
僕が日本映画の傑作中の一本だと評価する「幕末太陽傅」(1957年/川島雄三監督)は、『居残り佐平次』をベースに、『品川心中』『三枚起請』『お見立て』などの廓話をちりばめて構成されている映画だが、こうして戦争中に禁止された演目を見てみると、「禁演落語」が復活しなければこの傑作も生まれなかったことになる。
話はちょっとそれるが……、三谷幸喜脚本の舞台作品で『笑の大学』という芝居がある。
ちょうど「禁演落語」が選ばれて「はなし塚」が建立された頃を時代設定にし、検閲官と脚本家が、一つの脚本をめぐって何度も書き直しをしながら7日間を過ごすという二人芝居だ。
西村雅彦と近藤芳正が主演した'96年の初演を生で観たが、これは本当に素晴らしかった。僕の観劇歴の中で5本の指に入るほどの舞台だと思っている。今では自他ともに認める三谷幸喜好きだが、それまでは「まぁまぁ好き」という程度だった三谷幸喜のことを、これほど好きになったのは、あの舞台を見たお陰だ。
'98年の再演舞台と、役所広司と稲垣吾郎が演じた2005年の映画版が、DVDで発売されている。当時のエンターテインメント業界がいかに気を使っていたか、その雰囲気は伝わるかもしれない。
とくに映画版は、戦時下の浅草六区の雰囲気を再現しているので、機会があれば観てほしい一本だ(残念ながら、'96年の初演舞台の方が圧倒的に傑作だったのだが、こちらはDVD化されていない。難しいと思うがDVD化されることがあれば、初演版をお薦めする)。
投稿: 真公 | 2008年12月10日 (水) 14時26分
とても興味深い言論と表現に纏わるお話ありがとうございました。本筋とは関係ないのですが私が気を引かれたのは、戦後封印されていたお噺の代わりに納められた戦時中の落語台本です。検閲されたお噺もあったでしょう、もしかしたら戦中の新作もあったかもしれぬと興味津々です。今後チャンスがあったら調べてみようかと思いました。
投稿: 白沢すいか | 2011年6月18日 (土) 18時55分
>すいかさん
たぶん、スイカのアイコンの方ですよね? 返事が遅れてスミマセンでした。
たしかに、その台本も気になりますね。恥ずかしながら、気がつきませんでした。そのうちに、調べてみて報告したいと思います。
投稿: 真公(CRAFT BOX) | 2011年6月29日 (水) 19時52分
>「戦争」という空気が、どこからともなく意図的に流されたとしても、真っ向から反対するスタンスを崩さないでいたい。
私は常々疑問に感じているのですが、戦争に反対するってどういう意味なんでしょう? 日本政府が到底承服しかねるハルノートを受け入れ、日本を困窮へ誘ということでしょうか? それともアメリカですら日本の回線は安全保障と言っているのに、戦うのは嫌だから、ただ我慢してろとでもいうのでしょうか?
あるいは話し合いで解決すべきとでも言いたいのでしょうか? してましたよ話し合い。乙案、甲案だして戦争回避に努めましたが、結局アメリカを聞く耳を持たずハルノートを突きつけましたね。元々日本に戦争を起こさせるのが目的だったのですから当然ですね。
ようするに敵国の意向があるのに、無条件で戦争に反対することは不可能ではないでしょうか?
投稿: 風のマルタ | 2013年6月 7日 (金) 22時47分