『芝浜』と『文七元結』に見る「50両」の価値
2週間ほど前、用事があって朝6時に羽田空港に行った帰りの事。羽田から湾岸通りを走って6時半を過ぎもうすぐ7時という頃、ようやく東の空が明るくなりかけてきた。場所は品川埠頭のすぐ近く。お台場へ架かっているレインボーブリッジの袂だ。
「お! こいつはひょっとすると……」
と思って品川埠頭に車を止めて、携帯電話のカメラで撮ったのが下の写真。
この朝焼けが、落語の中ではとても有名な『芝浜』の朝焼けだ(噺に出てくる芝の浜は、品川埠頭から1500mほど北に位置する港区芝浦あるいは芝と考えられる)。
『芝浜』は、「師走になれば、毎日誰かが高座にかけている」とまで言われるほど、年末の代表的な噺。年末どころか、落語の中ではもっとも有名な噺の一つとも言える。
「よく空色って言うと、青色のことを言うけども、いや、この朝の日の出の時には空色ったって一色(ひといろ)だけじゃねぇや。五色(ごしき)の色だ。えぇ?どうでぃ。小判のような色をしているところあるってぇと、白色のところがあり、青っぽいところもあり、どす黒いところあり、えぇ? あぁ〜ぁ、きれいじゃねぁか。ほれ、お天道様が出てきたぜ……」
「芝浜といえば三木助」とまで言われた三代目・桂三木助は、こんな風に描写しているが、まさに五色の光。
今ではお台場のテレビ局のビルやら、封鎖のできない橋やらが架かっているんで、ずいぶんとロケーションは違うだろうが、150年前、呑んべいの魚屋・勝五郎が芝の浜に立って見た空も、きっとこんな色だったんだろう。
師走の人情噺と言えば、もう一つ有名な噺が『文七元結』だ。
『芝浜』とともに三遊亭圓朝の作品と言われているが、『文七元結』は、1892年に大阪で十一世・片岡仁左衛門によって歌舞伎化され、1902年に五世・尾上菊五郎が『人情噺文七元結』という外題で演じて以降、歌舞伎の舞台でも代表的な人情話となった。僕は最近まで知らなかったのだが、実は度々映画化もされてきたらしい。
今でも毎年のように歌舞伎の舞台にかけられ、今年は、映画監督の山田洋次が演出をし、中村勘三郎が主役を演じた舞台をカメラに収めて「シネマ歌舞伎」と称し全国の映画館で上映した。僕はこの時の舞台を生で観たし、シネマ歌舞伎も観たが、残念ながらそれほどいい舞台ではなかった。
まぁとにかく、この歌舞伎の『人情噺文七元結』は僕がもっとも好きな人情話だし、落語でも『芝浜』より『文七元結』の方が断然好きだ。今月は、仕事をしながら、ITunesからいろいろな噺家の『文七元結』を流して聴き比べ楽しんだ。
主人公である左官の長兵衛は、腕のいい職人でありながら博打好き。宵越しの金は持てないという典型的な江戸っ子の職人。
明治維新によって江戸が東京となり、薩長の田舎侍が我が物顔で街を闊歩しているのが気に喰わなかった圓朝が、「これが江戸っ子だ!」と創作したため、江戸っ子気質が誇張されているとも言われている。だが、そんなことを言えば、歌舞伎に出てくる花川戸の助六は、理想的な江戸っ子と言われているが、SFに出て来るスーパーヒーローとして誇張して描かれているわけで、ある意味では長兵衛の方がよほどリアルな江戸っ子像だったと思う。
さて、この『芝浜』と『文七元結』、どちらの噺も、師走にもかかわらず穀潰しの亭主せいで年を越すのもママならないという設定とともに、とても重要となるキーワードが、「五十両」という金だ。
ここでようやく今日の本題。
いろんな人が「落語に出てくる貨幣価値」を解説しているが、僕なりこの2つの噺に出てくる「五十両」というお金を解釈してみたい。
かなり長くなるので、詳しい算出やここで想定する概念については、コメント欄を見てほしい。
コメント欄に書いているのでここでは詳細を省くが、左官の長兵衛にとっては「1両=10万円」、財布を拾った時点の魚屋・勝五郎にとっては「1両=40万円」くらいの感覚だったはずだ。つまり、この2つの噺で出てくる「50両」とは、「500万〜2000万円」くらいの感覚と思えば大きな間違いはないだろう。
もっとも、あまり面倒な計算や検証などしなくても、もっと簡単に考える方法がある。
あなたは、自分の両親のために娼婦になって身を売らなければならないとしたら、一体いくらくらい要求するだろうか? たぶん、18歳〜25歳くらいまでの青春期を吉原という狭い場所に隔離され、日夜男を相手に過ごすことになる。もちろん、当時はそういう世界があまり遠くないところに存在していたわけで、今とは決して同じ感覚ではないだろうが、それでも何年も過酷な労働に従事するために、あなたはいくらくらい要求するか?
『文七元結』に出てくる娘・お久は、博打で首の回らなくなった父親のために、自分の身を売る事を決意して、結果的に50両という金を父親に持たせる。
あるいは、あなたは、見つかれば警察に捕まり重罪として処分されることを覚悟しても、それでもネコババしたくなるほどの大金とは、一体いくらくらいだろう?
『芝浜』に出てくる勝五郎の女房は、亭主が死罪になる事を恐れて亭主を騙すことを決意する。当時は横領に厳しい時代だったとはいえ、10両の横領で死罪となった。その5倍もの金額だ。
こうやって考えて、500万円でも2000万円でも、あるいは1億円くらいの感覚でもいいので、自分なりの「あぁ、そんなに大金なのか」と思える金額が、『芝浜』や『文七元結』の50両という金額だ。
ま、いろいろと長くなったが、最後に書いたように、細かい計算なんかあまり意味はなく、適当に想像しおけばいいんだと思う。考えるヒントは、きっと噺のなかに隠れている。
そういう想像力は、古典に限った事ではなく、どんなエンターテインメントにも必要だ。
それに、少し慣れさえすれば、自分で適当に想像する方が、楽しいし楽だ。
それでも分からない演目に当たったら、それはきっと噺家が下手糞なんだ。
こんなに理屈っぽい僕が言うのもなんだが、七面倒くさい理屈で考えずに、そう思って噺家のせいできるのが、落語というもんだと僕は考えている。
【参考文献】
『江戸物価辞典』(小野武雄著/展望社)
『大江戸まるわかり辞典』(大石学編/時事通信社)
『お江戸吉原ものしり帖』(北村鮭彦著/新潮文庫)
「日本銀行金融研究所貨幣博物館解説」
「落語のあらすじ 千字寄席」
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