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2008年12月

『芝浜』と『文七元結』に見る「50両」の価値

2週間ほど前、用事があって朝6時に羽田空港に行った帰りの事。羽田から湾岸通りを走って6時半を過ぎもうすぐ7時という頃、ようやく東の空が明るくなりかけてきた。場所は品川埠頭のすぐ近く。お台場へ架かっているレインボーブリッジの袂だ。

「お! こいつはひょっとすると……」
と思って品川埠頭に車を止めて、携帯電話のカメラで撮ったのが下の写真。

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この朝焼けが、落語の中ではとても有名な『芝浜』の朝焼けだ(噺に出てくる芝の浜は、品川埠頭から1500mほど北に位置する港区芝浦あるいは芝と考えられる)。

『芝浜』は、「師走になれば、毎日誰かが高座にかけている」とまで言われるほど、年末の代表的な噺。年末どころか、落語の中ではもっとも有名な噺の一つとも言える。

「よく空色って言うと、青色のことを言うけども、いや、この朝の日の出の時には空色ったって一色(ひといろ)だけじゃねぇや。五色(ごしき)の色だ。えぇ?どうでぃ。小判のような色をしているところあるってぇと、白色のところがあり、青っぽいところもあり、どす黒いところあり、えぇ? あぁ〜ぁ、きれいじゃねぁか。ほれ、お天道様が出てきたぜ……」

「芝浜といえば三木助」とまで言われた三代目・桂三木助は、こんな風に描写しているが、まさに五色の光。
今ではお台場のテレビ局のビルやら、封鎖のできない橋やらが架かっているんで、ずいぶんとロケーションは違うだろうが、150年前、呑んべいの魚屋・勝五郎が芝の浜に立って見た空も、きっとこんな色だったんだろう。

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師走の人情噺と言えば、もう一つ有名な噺が『文七元結』だ。

『芝浜』とともに三遊亭圓朝の作品と言われているが、『文七元結』は、1892年に大阪で十一世・片岡仁左衛門によって歌舞伎化され、1902年に五世・尾上菊五郎が『人情噺文七元結』という外題で演じて以降、歌舞伎の舞台でも代表的な人情話となった。僕は最近まで知らなかったのだが、実は度々映画化もされてきたらしい。
今でも毎年のように歌舞伎の舞台にかけられ、今年は、映画監督の山田洋次が演出をし、中村勘三郎が主役を演じた舞台をカメラに収めて「シネマ歌舞伎」と称し全国の映画館で上映した。僕はこの時の舞台を生で観たし、シネマ歌舞伎も観たが、残念ながらそれほどいい舞台ではなかった。
まぁとにかく、この歌舞伎の『人情噺文七元結』は僕がもっとも好きな人情話だし、落語でも『芝浜』より『文七元結』の方が断然好きだ。今月は、仕事をしながら、ITunesからいろいろな噺家の『文七元結』を流して聴き比べ楽しんだ。

主人公である左官の長兵衛は、腕のいい職人でありながら博打好き。宵越しの金は持てないという典型的な江戸っ子の職人。
明治維新によって江戸が東京となり、薩長の田舎侍が我が物顔で街を闊歩しているのが気に喰わなかった圓朝が、「これが江戸っ子だ!」と創作したため、江戸っ子気質が誇張されているとも言われている。だが、そんなことを言えば、歌舞伎に出てくる花川戸の助六は、理想的な江戸っ子と言われているが、SFに出て来るスーパーヒーローとして誇張して描かれているわけで、ある意味では長兵衛の方がよほどリアルな江戸っ子像だったと思う。

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さて、この『芝浜』と『文七元結』、どちらの噺も、師走にもかかわらず穀潰しの亭主せいで年を越すのもママならないという設定とともに、とても重要となるキーワードが、「五十両」という金だ。

ここでようやく今日の本題。
いろんな人が「落語に出てくる貨幣価値」を解説しているが、僕なりこの2つの噺に出てくる「五十両」というお金を解釈してみたい。
かなり長くなるので、詳しい算出やここで想定する概念については、コメント欄を見てほしい。

コメント欄に書いているのでここでは詳細を省くが、左官の長兵衛にとっては「1両=10万円」、財布を拾った時点の魚屋・勝五郎にとっては「1両=40万円」くらいの感覚だったはずだ。つまり、この2つの噺で出てくる「50両」とは、「500万〜2000万円」くらいの感覚と思えば大きな間違いはないだろう。

もっとも、あまり面倒な計算や検証などしなくても、もっと簡単に考える方法がある。

あなたは、自分の両親のために娼婦になって身を売らなければならないとしたら、一体いくらくらい要求するだろうか? たぶん、18歳〜25歳くらいまでの青春期を吉原という狭い場所に隔離され、日夜男を相手に過ごすことになる。もちろん、当時はそういう世界があまり遠くないところに存在していたわけで、今とは決して同じ感覚ではないだろうが、それでも何年も過酷な労働に従事するために、あなたはいくらくらい要求するか?
『文七元結』に出てくる娘・お久は、博打で首の回らなくなった父親のために、自分の身を売る事を決意して、結果的に50両という金を父親に持たせる。

あるいは、あなたは、見つかれば警察に捕まり重罪として処分されることを覚悟しても、それでもネコババしたくなるほどの大金とは、一体いくらくらいだろう?
『芝浜』に出てくる勝五郎の女房は、亭主が死罪になる事を恐れて亭主を騙すことを決意する。当時は横領に厳しい時代だったとはいえ、10両の横領で死罪となった。その5倍もの金額だ。

こうやって考えて、500万円でも2000万円でも、あるいは1億円くらいの感覚でもいいので、自分なりの「あぁ、そんなに大金なのか」と思える金額が、『芝浜』や『文七元結』の50両という金額だ。

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ま、いろいろと長くなったが、最後に書いたように、細かい計算なんかあまり意味はなく、適当に想像しおけばいいんだと思う。考えるヒントは、きっと噺のなかに隠れている。
そういう想像力は、古典に限った事ではなく、どんなエンターテインメントにも必要だ。
それに、少し慣れさえすれば、自分で適当に想像する方が、楽しいし楽だ。
それでも分からない演目に当たったら、それはきっと噺家が下手糞なんだ。
こんなに理屈っぽい僕が言うのもなんだが、七面倒くさい理屈で考えずに、そう思って噺家のせいできるのが、落語というもんだと僕は考えている。



【参考文献】
『江戸物価辞典』(小野武雄著/展望社)
『大江戸まるわかり辞典』(大石学編/時事通信社)
『お江戸吉原ものしり帖』(北村鮭彦著/新潮文庫)
「日本銀行金融研究所貨幣博物館解説」
「落語のあらすじ 千字寄席」


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台東区でインド料理を食べるなら……〈SULTAN 上野店〉

「美幸」「レストラン ベア」に続き、この1〜2年に下谷・稲荷町界隈で開店したお店の第3弾。

と言っても、この長屋界隈から歩いて10分弱のところに東上野店があり、さらに根津にも店があるので、ずっと以前から時折食べていたインド料理店「SULTAN(スルタン)」。

その上野店がここから3〜4分のところ、下谷神社の鳥居のすぐ側にできたお陰で、開店以降、月に1度は通っている。

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東上野店はカウンターに5〜6席、小さなテーブル席が2つと、本当に小さい店で、根津の店もそれほど大きくない。それに比べ上野店(と言っても最寄り駅は稲荷町)は、入口からは小さな店を思わせるが、中は意外に広く、30人くらい入れるキャパシティになった。場所柄、ランチタイムなどピーク時以外はそれほど混雑しているわけではないので、広過ぎなんじゃないかと、こちらが心配してしまう。

店員は、すべてインド系およびその周辺のアジア系と思われる人たちばかり。
オーダーを受ける人は片言の日本語で、すごくにこやかに対応してくれるが、たま〜に注文を間違える時がある。ま、外国人ばかりの店ではよくあることだが、ラッシーとマンゴーラッシーを間違えるとか、食後に頼んだドリンクが食前に出てくるとか、僕が経験したのはその程度の間違いなので個人的にこの辺はご愛嬌と思っている。

カレーのメニューは20種類ほど、そのほか前菜や一品料理などのメニューも豊富だ。
カレーを含めほとんどの料理は注文されてからすべて作るために、メニューを豊富にできるというわけだ。カウンターが中心の東上野店に行けば、1からカレーを作っている行程を眺めながら待つことになるので、それもなかなか楽しい。

どの料理もそこそこ旨い。この価格帯としてコストパフォーマンスを鑑みれば、十分に満足できる味だ。

カレーは、「チキンサグ」「チキンバターマサラ」「チキンコルマ」などチキン系のカレーが個人的な好み。
他の店ではめったにマトン系を頼む事はないが、ここのマトン系カレーはあまり臭みもないので悪くない。一緒に友人などを連れて行くと、同じようにマトン系が好きではないという女性でも、おいしいという人は多い。
辛さは、日本人に合わせているのかかなりマイルド。3段階まで辛さを上げることができるので、よほど辛いのが苦手な人以外は、注文の際に1段階くらい辛くする方がいいと思う。

僕の場合、ランチでもディナーでも、好みのカレーを2種類選べるセットを頼む事にしている。
かなり大きなナン、サフランライス、サラダ、ラッシーなどのドリンクがついて、1000〜1300円ほど。
さらに、お腹に余裕があれば、タンドリーチキンなどがセットになった1500円ほどのメニューをお薦めする。
ここのタンドリーチキンはジューシーさがあって良い。安いインド料理店に行ってタンドリーチキンを頼むと、パサパサでがっかりする事がよくあるが、この店でそれはない。
焼きたてのナンは甘みがあっておいしいが、かなり大きいので、サフランライスまで食べるとかなりの満腹感になる。

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このブログで「長屋界隈」を紹介する時、ほとんど場合、「近くにいる人はぜひ」という気持ちで書いている。住んでいたり働いていたり生活圏の人や、あるいは散歩や用事で来る時に、ついでに立ち寄ってもらえればと思って書いている。

しかしこの店に関しては、上野や浅草から足を伸ばして立ち寄っても、決して損はしないと思う。
上野.御徒町・浅草など各地にインド料理屋が数軒あるが、僕はこの店をお薦めしたい。

上野店ができてから、僕は都内の他のインド料理屋にはほとんど行かなくなった。
まだまだマイナーな店だが、この価格帯の中では、有名店にも決してひけを取らない穴場の店だ。

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【名 称】SULTAN 上野店
【URL】http://www.sultan-curry.com/
【住 所】東京都台東区東上野3-36-7 Mビル1F
【電 話】03-6672-1796
【営業時間】17:00~23:00
      (土曜日は20:00まで)/
      定休=日・祝
【アクセス】銀座線「稲荷町駅」を出て、浅草通りを上野
      方面へ。2つ目の信号を渡って数軒先、左手。
【MAP】「長屋界隈」の地図は→こちらをクリック←
     地図上の「25」番が紹介した上野店
     地図上の「26」番は東上野店
【食べログ】スルタン 上野店 ★★★★ 4.0

↓食べログでは、ココで掲載した以外の店も紹介しています。
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今年最後の浅草イベント……〈羽子板市〉

12月17日から本日19日まで、浅草の浅草寺境内にて「羽子板市」が開催されている。
一昨日は雨だったので、昨日夕方、浅草の用事があるついでに浅草寺まで足を伸ばしてきた。
今年は平日だったせいか、僕が行った18日の夕方にはあまり混雑する事もなく、ゆっくりとお店を回ることができた。

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浅草寺には、毎年師走の18日に「納めの観音」と呼ばれる縁日がある。これは以前「ほおづき市」の「四万六千日」でも紹介したように、観音様の縁日となっている。まぁ一年で一番最後なので「納め」らしいが、他の縁日と大きく変わる事はないようだ。
で、この縁日に合わせて、浅草では17日と18日に「歳の市」が開かれていた。
日にちは多少前後するが「歳の市」は全国で開かれていているものと、基本的には同じような習慣なんだろう。世田谷の「ボロ市」も歳の市だし、某スーパーマーケットの「年末・歳末・歳の市」なんていうキャッチフレーズが今でも残っている、あの「歳の市」だ。
浅草寺では、お正月の飾り物や縁起物を買う市が立っていたようで、現在も浅草寺の公式行事として、17日〜18日を「歳の市」とし、18日を「納めの観音」として縁起小判などを配っている。

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そして、この「納めの観音」や「歳の市」と一緒に開かれているのが「羽子板市」だ。浅草寺の2つの公式行事とは異なり、東京歳の市羽子板商組合という団体が、17日〜19日の3日間で主催している。

浅草のイベントは、実は色んな団体が色んなイベントを並行して行っている事が多く、この3日間も「納めの観音」「歳の市」「羽子板市」とそれぞれの言い方があり、たぶん詳しく知らないと同じように思ってしまうだろうが、微妙に違う。例えば、今日19日に浅草寺で縁起小判をもらおうとしても、多分もらえないはず。その辺は、浅草観光の際に注意しないといけないところ。

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羽子板遊びは、もともと宮中や公家の間で楽しんでいたものだったようだ。「邪気を跳ね返す」というところから、とくに女の子の成長を祈願するという意味も込められていたらしい。
日本では、お宮参り、食い初め、初節句、七五三など、子どもの成長とともに行う行事が数多いが、昔は子どもの無事な成長を願う気持ちが強かった証。そうした思いから、羽子板遊びも始まったのだろう。

江戸時代に浅草寺で開かれていた歳の市で、女の子の縁起を願って正月の縁起物として羽子板が売られていた。そのうちに羽子板を買って女の子や若い女性に贈るのが流行するようになり、徐々に羽子板を扱う店が増え、今では羽子板を売るのが主流になったという。昭和25年以降、「羽子板市」として開催されるようになった。
江戸末期は、浅草に芝居小屋が集まっていたり、吉原や浅草花柳界も華やかだった。そのためためだろう、人気のある役者の舞台姿を描いた羽子板は女性に大人気だったと言われている。

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男の僕が自分で買う事はほとんどないのだが、僕的にお薦めの買い方は、「豆板」を買い集めること。
毎年とはいわないまでも、数年に一度、「豆板」と言われる6寸ほどの小さな羽子板を買って、徐々に増やしてコレクションしていく。

羽子板は、今でいえば言ってみれば人気アイドルのポスターみたいなもんだ。もっと言えば、パソコンや携帯電話の壁紙って感じかな? とにかく、神事や祭事にまつわるものではないので、いつまでも部屋に飾っておくことができる。酉の市の熊手などと違って、一年経つとご利益がなくなるというものではない。
大きな羽子板を1つ飾っておくのもいいが、何年かかけて、小さな豆板をいくつも集めて飾るなんてどうだろうか?

上の写真のお店は、豆板専門のお店。豆板は他の店では2000円くらいから売っているが、こちらは5000円からなので少し高級の豆板。それでも、数万円もする大きな羽子板よりもかなりお手頃な価格だ。

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ちなみに、羽子板市で売られている美しい飾り付けがされている羽子板を「押絵羽子板」と言うが、江戸時代末期から明治時代にかけては、多くが、ここ下谷界隈で作られていたらしい。
震災や戦争の空襲を受け、現在では北関東で作られているものが多いそうだ。
写真の職人さんは、埼玉の春日部から来ていると話してくれた。

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「歳の市」が終わると、いよいよ年の暮れという気がする。
今年も後わずかだが、年内にやっておかなくちゃいけない事は、まだまだ残っている。
師走とはよく言ったもので、毎年の事ながら年末は慌ただしい。


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日曜日のTBS『報道の魂』をぜひ見てください。

ちょうど2年前に「オリコンよ、出版人としての恥を知れ!」という記事で紹介した烏賀陽(うがや)弘道さんのオリコン裁判は、現在も続いている。
その後、このブログでは報告をしてこなかったが、現在、高裁で争っている最中だ。

そのオリコン裁判の行方を取材したドキュメンタリー番組が、12月21日(日)にTBSで放送されることになった。

以下、番組公式サイトの転載。

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TBS『報道の魂』
http://www.tbs.co.jp/houtama/prog.html

言論には言論で応じる時代は終わったのか?

ジャーナリストの記事やコメントに対して、書かれた側がいきなり訴訟を起すケースが増えている。しかも巨額の損害賠償を求めるケースが多く、言論活動封じ込め目的?との批判が起こる例すらある。

ヒットチャートで有名なオリコンは、ある雑誌記事により名誉を傷つけられたとして5000万円の損害賠償訴訟を起した。しかも記事の執筆者や編集責任者は訴えず、雑誌の取材先となったジャーナリストだけを訴えるという手段に出た。こうしたオリコン側のやり方に「口封じまがい?」との批判の声もあった。

1年5ヶ月に及ぶ審理の結果、東京地裁の一審判決はオリコン側の訴えを認め、ジャーナリスト個人に100万円の賠償を命じる内容となった。しかし一方で、判決に首をかしげる人も多かった。「裁判所は、口封じまがいの訴訟を、是認するつもりか・・」と。

米国では、言論封じ込めを目的とした訴訟は「SLAPP」と呼ばれ、訴えそのものが門前払いとなることが多い。言論の自由への悪影響を危惧してのことだ。しかし日本の司法界には「SLAPP」という概念そのものがない。審理が長期化すると、訴えられたジャーナリストは裁判対策に忙殺され、勝ち負け以前に疲弊して活動を封じられることすらある。

番組ではオリコン訴訟判決が生んだ様々な波紋について取り上げ、訴訟と言論のバランスをどう取るべきかを考える。

取材:秋山浩之
撮影:若泉光弘

(引用以上)
TBS「著作権とリンク/3.『引用』について」に基づいて引用
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オリコン裁判については、これまであまりテレビやマスメディアで大きく報道されることはなかったが、引用文中出てくる「SLAPP」裁判の中でも、かなり重要な裁判と考えられ、ジャーナリストやフリーランス・ライターの中でも注目されている。

こうした裁判では、過去に『週刊金曜日』と三宅勝久さんが訴えられた「武富士裁判」があり、こちらは全面的に勝訴した。ほかに現在係争中では、黒薮哲哉さんの「読売押し紙裁判」というものもある。
どれも、大きな力を持った企業が、自分の都合の悪い事を書く個人のジャーナリストに対して、極めて不当とも取れる民事訴訟を起こし、言論を封殺しようという行為だ。

何よりも許せないのは、公正に言論を闘わせるのではなく、個人ではなかなか抗えない“大きな力”によって、彼らの言論を抑制しようという姿勢だ。僕は何も、彼らが聖人君子だとは言うつもりもないし、彼らの発表しているすべての記事を読んでいるわけではないので、全肯定しようというのではない。ただ、仮に彼らの主張に反論があるなら、オリコンにしても読売新聞にしても自ら主張を発表するメディアを持っているのだから、そこでいくらでも反論すればいいということだ。言論とは、お互いに公平な立場で、公正に闘わせるものだ。
高額な裁判を起こされれば、例えば弁護士の着手金だけでも、基本的にはその訴えられた金額に比例するため、かなりの高額になる。また、フリーランスの立場で、長い間裁判に関わっていると、仕事も手につかない事が多い(この辺りの苦労話については、別の機会に詳しく書きたい)。事実上、個人だけで闘っていくのは不可能で、明らかに一方的に相手の言論を抑制しようという対処だ。

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彼らの事は、出版ネッツのメンバー同士ということもあり、僕も微力ながら彼らを応援しています。

日曜日の深夜放送なので、あまり視聴率も期待できないんですが、良かったらぜひテレビ番組を見てください。そして、こうした横暴な行為が起こっていることを、ぜひ知っておいてください。
よろしくお願いします。

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久しぶりに散歩写真

2週間ほど前から、「浅草の風」というブログにも投稿している。

「浅草の風」は個人の方が主宰しているブログだが、ほぼ毎日更新され、その膨大な情報量だけでなく、直近に行われる浅草のイベントスケジュールも、かなり正確に、かつ詳細に掲載され、僕のような浅草関連の情報を扱う編集者にとっては、非常にありがたいブログでとても世話になっている。
このブログを読んでいる人は、「浅草の風」読者の方も多いだろう。
何しろ月に「3万ビュー」というからすごい。

その「浅草の風」に協力することになり、週に1回程度だが、写真を中心に投稿している。

ということで、今回は、「浅草の風」に投稿するために撮った写真の一部を、こちらでも紹介。
久しぶりの散歩写真。

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まずは、12月9日の記事で紹介した「はなし
塚」のある本法寺の境内で撮った紅葉。  


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同じく本法寺の境内に実っていた金柑。


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鎮護堂前で見かけたカップル。


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浅草境内で、本堂や五重塔をスケッチするア
メリカ人。Britt(写真左)は、アメリカでイ
ラストやデザインの仕事をしているらしい。


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夕暮れ時の五重塔。


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一葉桜・小松橋通りのイルミネーション。


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ということで、しばらくはこんな感じで浅草周辺の写真を投稿しているので、よかったら「浅草の風」(←クリック)も覗いてみてください。


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気のいいオッチャンたちの洋食屋……〈レストラン ベア〉

7月18日の記事で「美幸」を紹介した際、この数年の間にこの界隈にも気の利いた店が増えてきたと書いたが、今回紹介する洋食屋「レストラン ベア」も1年くらい前に開店した店。

もともと上野近くに店舗があったらしいが、こちらに移転して来た。浅草(蔵前)にもお店がある。

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地元民やサラリーマンの利用が多く、800円〜1000円でボリュームあるランチが人気だ。
6〜7人のオッチャンたちが、厨房やホールで常に元気よく動いているので若い従業員が一人もいないのに活気がある。

お薦めは……、お薦めというか僕がよく食べるのは「ハンバーグ&生姜焼き定食」(写真/ランチ時800円)か、「ステーキ弁当」(1050円)。定食は、一応バリエーションがあるんだけども、メニューに載ってるものなら、何でも組み合わせてくれるので、多少値段は変わるだろうが、何でも注文してみるといいだろう。

うちの長屋のすぐ目の前なので、よく利用している。忙しい時は、出前もしてくれるし弁当にもしてくれる。いつも出前の注文がひっきりなしなので、近くのサラリーマンが出前の注文してるんだろう。
「ぜひ一度行くべき!」と絶賛する味ではないが、どれもボリュームあって満足感は十分に満たされる。気のいいオッチャンたちがサービス精神旺盛で振る舞ってくれるので、地元の人間としては有り難いお店だ。

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話は変わるが、いよいよ師走、年の暮れ。日も短くなり、寒さも厳しくなってきた。
鍋がおいしい季節になってくると、週に1〜2度は鍋を食べる。ついつい食べ過ぎる。
鍋の次の日は残った汁や具でおじやにする。これまたおいしくて、いつも以上にたくさん食べる。
こうして冬は、身体が大きくなっていく。
ま、鍋以外も冬の食べ物はおいしいんで、どっちにしても食べてばかりなんですが……。

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【名 称】レストラン ベア
【住 所】東京都台東区東上野2-2-9 川島ビル1F
【電 話】03-3831-6430
【営業時間】11:00〜16:00 17:00〜21:00
      (土曜日は20:00まで)/
      定休=日・祝
【アクセス】銀座線「稲荷町駅」を出て、浅草通りと交差
      する清洲橋通りを浅草橋方面へ。2つ目の信
      号を右折。1つ目の路地角。
      大江戸線「新御徒町」からは、清洲橋通りを
      入谷方面へ。2つ目の信号を左折。1つ目の
      路地角。
【MAP】「長屋界隈」の地図は→こちらをクリック←
     地図上の「34」番がこのお店
【食べログ】レストラン ベア 本店
      ★★★☆☆ 3.0

↓食べログでは、ココで掲載した以外の店も紹介しています。
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戦争の空気を読みすぎた落語界……〈はなし塚〉

昨日は、12月8日。
1941年(昭和16年)、日本がハワイ諸島の真珠湾を攻撃し、宣戦布告をして太平洋戦争が開戦された日だ。

子ども時分の我が家では、8月15日の終戦記念日と同様、味も素っ気もないすいとんを食べさせられて、随分嫌な日だと思っていた。
薄〜いダシ汁に少しだけ醤油をたらしたような吸い物の中に、うどん粉をこねた固まりとわずかな菜っ葉が入っているだけ。僕の母親はいつも懐かしそうに食べていたが、子どもにとっては不味いったらこの上ない。飽食の時代の食生活で育った子どもたちに、当時の不味い食事を取らせる事で、戦争に対して嫌悪感を持たせるというのは、わかり易い反戦教育だった。

その母親は6歳の冬、浅草から隅田川を渡ったところにある向島で太平洋戦争開戦を迎えたわけだが、母親の記憶では、幼くても世の中の暗い空気は感じられたという。
それでも幼かった母の記憶に残る戦時下の浅草は、少しは華やかだったらしい。当時の浅草といえば日本有数の繁華街だったので、ほかの街よりは賑わっていたのだろう。
向島や浅草は、終戦間際には東京大空襲で甚大な被害があったということもあり、今でも戦争の記憶が残る史跡も多い。多くの文化的な史跡と並んでいるので一見目立たないが、平和を尊ぶ気持ちも浅草には根深く残っている。

前置きが長くなったが、最近、このブログでは落語の話題も多いことなので、今日は落語と平和に関係する史跡を一つ紹介したい。
田原町の駅近く、本法寺に建立されている「はなし塚」だ。

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はなし塚

この塚が建立された昭和十六年十月、当時国は太平洋戦争へと向かう戦時下にあり、各種芸能団体は、演題種目について自粛を強いられていた。落語会では、演題を甲乙丙丁の四種に分類し、丁種には時局にあわないものとして花柳界、酒、妾に関する話、廓話五十三種を選び、禁演落語として発表、自粛の姿勢を示した。この中には江戸文芸の名作と言われた『明烏(あけがらす)』『五人廻し(ごにんまわし)』『木乃伊取(みいらとり)』等を含み、高座から聴けなくなった。
 「はなし塚」は、これら名作と落語会の先輩の霊を弔うため、当時の講談落語協会、小咄を作る会、落語講談家一同、落語定席席主が建立したもので、塚には禁演となった落語の台本等が納められた。
 戦後の昭和二十一年九月、塚の前で禁演落語復活祭が行われ、それまで納められていたものに替えて、戦時中の台本などが納められた。

   平成十六年三月
   台東教育委員会

(「はなし塚」脇に建てられている説明文を原文ママに転載)

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要するに、当時の大日本帝国政府の意向にそい、落語界側が自ら、吉原を舞台にした「廓噺」、現代のテレビでも自粛するようなお色気たっぷりの「艶笑噺」、そのほか、浮気な女房と亭主の関係を滑稽に描いた夫婦もの、女性の嫉妬心が元ですったもんだのある噺、若者と娘が“不純”な関係になったり駆け落ちしたりする噺などを「禁演落語」として選び、台本とともに塚に埋めて自粛したというわけだ。

コメント欄に全53作の題名を書き起こしておく。説明文にもある通り、今でも高座によくかけられる古典落語の名作も数多いので、興味がある人は、コメント欄で確認してほしい。

当時、落語に限らず、映画、芝居、書籍、雑誌、新聞など、あらゆるものが規制対象とされ、法律によって検閲を受ける事が義務づけられていた。政府にとって都合のいい「理想的な道徳観」を国民に押し付け、それに合わないものは「時勢に適合せず」という評価になった。こうした規制は、一部、明治時代からあったものだが、日中戦争が膠着し、太平洋戦争へと突入していく頃には、規制が強化されていき、厳しい規制のもと、多くのエンターテインメントやメディアは、戦時体制の大日本帝国政府に協力して生き延びるか、協力する事を拒み表現を束縛されるかを選択させられた。
そして、多くの“表現者”たちが戦争に加担させられていく。
後に“昭和の名人”と呼ばれる古今亭志ん生や三遊亭圓生も、落語慰問として満州に訪れるなど、落語界からもいろいろな形で協力をしたようだ。

新聞などが最たるものだが、消極的に協力するのではなく、積極的に戦争へ協力していこうという動きもあった。
今風な言葉でいえば「空気を読む」というわけだが、当時の記録を見ると、世の中の空気を気にしすぎて、思考力を低下させ、日本全体が戦争へと突入していった事が伺える。

「禁演落語」も、過剰と思えるほどの自粛っぷりで、当時の空気を読んだとしても自粛する必要性をあまり感じない演目まで含まれている。
検閲で当時の政府に睨まれては興行をさせてもらえず、収入を得ることができなくなってしまうエンターテインメント業界としては、やむを得ない選択だったのだろう。
戦争が終わり演目が復活した後も、「禁演落語」という恥ずかしい過去を忘れないよう、「はなし塚」は当時の面影のままに残っている。

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「はなし塚」が建立されている本法寺の外塀には、落語家をはじめとした寄席芸人、定席の席主など、落語関係者たちの名前が、赤い文字で掘られている。上の写真の中には、文楽、志ん生、圓生、三木助などの名人から、僕の好きな馬生、色物の江戸家猫八や染之助・染太郎の名前も見られる。
禁演落語が復活して約8年後の1954年に、落語関係者たちが外塀を寄贈したそうだ。当時の関係者たちのなかでは、「禁演落語」に対する後悔の念がとても強かったと言われるが、その気持ちを後世に残そうということらしい。

本法寺で外塀の詳しい事を聞かせてもらおうお願いしたが、先々代のご住職の時代の事であり、当時の記録がなく詳しい事は分からないらしい。いずれ浅草文庫にでもいって、資料をあさってみたい。

2002年からは、毎年8月31日に、落語芸術協会が主宰して「はなし塚まつり」というイベントが開かれ、禁煙落語が復活したことを祝っている。

*  *  *  *  *  *  *

父方の爺さんは、戦争に反対して投獄させられ、拷問にかけられた。勾留されたのが戦争終期だったこともあり、それほど長期間の投獄期間ではなかったそうだが、当時の拷問の様子は生前に何度か聞かせてもらった。

今は曲がりなりにも民主主義の世の中となり、「表現の自由」が保証されている。
「戦争」という空気が、どこからともなく意図的に流されたとしても、真っ向から反対するスタンスを崩さないでいたい。
そのために世間から「KY」と呼ばれたとしても、僕はいっこうに構わない。

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【名 称】はなし塚

【住 所】東京都台東区寿2-9-7

     長瀧山 本法寺 境内

【MAP】「長屋界隈」の地図は→こちらをクリック←

     地図上の「29」番が「本法寺」「はなし塚」

【2008年12月13日追記】
はなし塚の画像が間違っていましたので、差し替えて修正しました。


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今日の千束は混み過ぎです……〈酉の市(三の酉)〉

僕にとって11月と言えば、歌舞伎座の「顔見世」と、浅草の「酉の市」。
それから、実は僕の誕生日も11月。

僕の誕生日はちょうど勤労感謝の日の前日なので、毎年「休みの前日」と決まっている。
で、子どもの頃から、誕生日の前後に酉の市があって休みと重なると、夜中に父親が酉の市に連れて行ってくれるというのが相場だった。

花畑の大鷲神社、千住の勝専寺、府中の大国魂神社の酉の市にも行ったが、やはり一番多く行ったのは、浅草のお酉様だ。

今年は十数年ぶりに、浅草の酉の市(三の酉)に行ってきた。
少し遅くなったが、その三の酉の様子を写真で紹介——。

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まず14時頃、少し遅い昼ご飯を浅草で食べながら、ぶらぶらと観音裏を散歩してお酉様へ向かったが、近くに行って人の多さに驚いた。
今年の三の酉は土曜日だったせいもあって、とにかくすごい行列。

昔から酉の市は混んではいたが、考えてみるといつも夜中か夜半に来ていたんで、昼間に来た記憶がない。
参拝するまでに2〜3時間並ぶと聞いて、参拝経路の出口から写真だけ撮りに入ろうかと思ったが、そこに行くまでも大混雑。
これはとても近寄れないと諦めて、一旦、帰宅。

夜になって、2時間も並んで参拝してきたという母親と息子と入れ違いに、再度お酉様まで足を運んだ。

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お酉様の境内に入ったのは22時30分頃。
酉の市は、夜中の0時から始まって24時まで。つまり、あと一時間半ほどで酉の市が終わるというのに、参拝客の行列はまだまだ途切れない。
上の写真は、鳥居の先、境内の入り口すぐのところから、本殿にむかって。
で、反対を向いて、入り口の方にカメラのレンズを向けると……。

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とてもじゃないが、後一時間半で参拝が終わるような行列じゃない。
参拝の行列から離れて、熊手の露店の方に移動してみたが、こちらもまだまだ大混雑。

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まさに「どんだけ〜」という感じ。

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露店の方は店じまいの時間が近づいているので、熊手の数もかなり少なくなっている。
いつもは夜中に来ていたと書いたが、夜中というのは酉の市が0時に始まって1時とか2時とか、いわゆる「未明」と言われる時間。そうすると、当然ながら端から端までぎっしりと熊手が並んでいる。
そういう酉の市を見慣れていたので、やっぱり熊手が所狭しと並んでいないと、人手で賑わっていてもどこか寂しい。

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とにかく特大熊手を写真に収める。
露店の親父さんが「お兄さん、買っていくかい? もう終わりだからまけておくよ」と。
「こっちは冷やかしだい」と返したくなったが、こんな時に冷やかしであることを威張っても仕方ない(苦笑)。

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最後は、威勢のいい声で三本締め。

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ところで、帰りの参拝客を見ていると、熊手を持っている様子がない。
酉の市に来たなら、小さいものでも熊手くらい買わなきゃ野暮だろう。

とりあえず、とにかく人手が多かった。
人、人、人……。
熊手よりも、人出の多さだけが記憶に残る、十数年ぶりの酉の市だった。


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