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2008年11月

落語の音源

今年に入ってから、これまで撮り貯めていた落語関係の動画や音源を、地味に少しずつ、音声データとして「MP3」に変換してきた。
何せ、亡くなった祖母のレコードやテープと母親のビデオをはじめ、買ったり、貰ったり、撮った落語の数々が、オーディオテープ、ビデオテープ、DVD、CDなどに貯まりに溜まっていた。
当初、ビデオなどの映像は動画データにしようかとも思ったが、やたら面倒だったのと、データが重くてDVDが何十枚にもなって、それはそれで整理が面倒という事で、結局、一部の好きな映像を除いて、全部音声データにした。

それに、すでにこれまで一部のお気に入りをCDやDVDから音声ファイルに起こして「I Tunes」に保存してあったということもあって、そんなこんなで音源だけをせっせとデータ化。
この長屋の一階が僕の仕事部屋になっているのだが、2階においてあるDVDプレーヤーやオーディオプレーヤーと、遊び用のMacを使って、仕事の合間に一日数本ずつ、地味〜に作業を続けてきた。

で、今日、ようやく800本まで絞り込んでデータ化が終了。

*  *  *  *  *  *  *

あとは、レコードが少し残っているんだが、今さらレコードデッキも持っていないし、どうやらほとんどはすでにCDになっているようなので、これはもう少しレコードのまま持っておくことにした。

テレビの録画やラジオの録音の場合、同じ高座をいくつか保存していることもあるので、そういうダブりが出ないように、同じ噺家の同じ演目で、前後2分以内の音源は、すべてマクラとサゲを確認して、ダブっている物は音質の良い方を残して廃棄。
好きな噺家以外は、もう一度聞きたい噺や貴重なものだけを残し、できるだけ廃棄。
それでも残ったのが全部で800本。
整理の作業が終わったとはいえ、まだ半分くらいの音源を通しで聴いていない。

数年前から、仕事場で作業するときは、「I Tunes」から落語を流していたこともあり、その音源だけでも200本以上あったし、全部整理したら随分あるなぁとは思っていたが、まさかこれほどとは。
確認せずに捨てたものもあるんで、ビデオやテープの音源を全部確認していたら、きっと1000本以上残ったんだろうなぁ……。

ちなみに、残った音源が多いのは、三遊亭圓生157本。これは、現存している音源の多いから自然と多くなった。
次が、立川談志で121本。これは、学生の頃に好きだった事と、以前に知人からCDを大量にゆずられたため。
続いて、古今亭志ん生の107本。これも市販の音源が多いからってことと、祖母や母から譲り受けた音源が多いため。
で、古今亭志ん朝、柳家小三治、一〇代目・金原亭馬生と続き、ここまでが50本以上の大量音源。
あとは上方の桂米朝、桂枝雀のほか、江戸落語の名人の八代目・桂文楽、この長屋からすぐ近くに住んでいた林家彦六、下谷神社で日本で初めて寄席を開いた可楽の末代である八代目・三笑亭可楽、こうした昭和の名人たちから最近知った噺家さんまで、おおよそ100人強。

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もっとも、何度も繰り返し聴くのは限られている。
中でも志ん朝、小三治、若い頃の談志、馬生の4人の古典落語がダントツに多い。
この4人は、僕が若い頃から好きな噺家で、数年前に携帯音声プレーヤーで落語を聴くようになってから、改めて色んな噺家の音源を聴き、寄席や落語会で高座を見てきたが、やっぱり圧倒的に好きな4人だ。

だったら、ちょくちょく聴くもの以外、取っておく必要はないのだが……。
今どきCDやDVDでいくらでも古い音源を聴くことはできるし……。
そう思ってこれでも整理したつもりなんだけど……。
それに、映画でも歌舞伎でも音楽でも、一度見たどころか、一度も開いていないDVDやCDが、棚にずらーーーーーーっと並んでいるわけだが……。
そもそも、噺家の側にしてみれば、こんな音源データを作っている暇あるなら、寄席に足を運んべっていう気持ちだろうし……。

まぁ、残した音源は、今後、何度も聞くつもりのものを厳選したつもりなんで、死ぬまでにはちゃんと聴く事だろう。

Cb081128

前述した4人の噺家のうち、残念ながら馬生と志ん朝はすでに鬼籍に入り、談志は何年も前から絶不調(すでに現役と評価するのは無理がある?)、唯一小三治が現役でがんばっているが、去年辺りからすっかり顔つきまで老け込んできた(まぁ、それはそれで味があるけども……)。

もちろん、現役のベテランや中堅どころにも好きな噺家はいるし、若手の噺家の中で、これから期待している人もいるし、逆に言えば、そういう若手を発見するのも落語の楽しみ方の一つだ。

こうした歴代の名人たちや現役で好きな噺家についても、いずれこのブログで紹介したいと思う。

*  *  *  *  *  *  *

そういえば、先週、「浅草大観光祭」というイベントが開かれていることをお伝えしたが、先週末は同じ浅草で「第1回下町コメディ映画祭in台東」という映画イベントも開かれていたんだった。

「浅草」「喜劇」「映画」と来れば、そりゃもう僕の好きなフレーズだらけ。
これまた告知のお手伝いくらいしようと思っていたが、すっかり過ぎてしまった。
「やっぱりブログはマメに更新しないと駄目だなぁ」と実感しながらも、「まぁ義務でやってる訳じゃなし、気楽にやっていこう」と思う今日この頃。



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「言論の自由」のあるべき姿

航空自衛隊前幕僚長である田母神俊雄が、昨日の参議院で行われた参考人招致に出向き、さまざまな持論を展開した。

新聞やテレビを通して、その一部だけしか確認していないのだが、とくに気になる発言だけを抜粋すると、以下のような発言をしていたようだ。

(外交防衛委員会の質疑応答)
「びっくりしているのは、『日本は良い国だ』と言ったら解任された。『日本は悪い国だ』という人を就けなさいということだから」
「(集団的自衛権も行使し、堂々と武器を使用すべきだというのが本音か?の質問に)私はそうすべきだと思います」

(マスコミ取材に対して)
「自衛官にも言論の自由はある」
「言論統制によって自衛隊の士気が低下する」

ここで田母神俊雄が主張する「言論の自由」は、はたして自衛官や国家公務員に保証されているものだろうか……?
最初に断言しておくが、「何でもかんでも好きな事を言っていい」という意味であるならば「言論の自由は保障されない」ことは明白だ。

懸賞論文の内容に対しても個人的に異論はあるが、それは置いておいて、ここでは田母神俊雄の主張する「言論の自由」に正当性があるかどうかを問題視したい。

*  *  *  *  *  *  *

「思想・信条の自由」というならば、憲法が保証してようがしていなかろうが、民主主義国家では当然の権利だ。自衛官であれ、国家公務員であれ、心の中で何を思い、プライベートでどう行動しようとも、法律を犯す事なく他人に迷惑をかけないのであれば、自由にすればいい。
しかし、「言論の自由」というのは、「何でもかんでも好きな事を言っていい」というのではない。
例えば、誹謗中傷をするなど他人の尊厳を踏みにじるような言論は、自由に保証されてはいない。民主主義の上位概念として、他人の権利を保証する事が存在しているからだ。
あるいは、国家公務員である以上、国家の方針や法律に背いて行動する事はできない。公務員にはスト権が保証されていないように、様々な規制がされているのは、当然のことだ。極論すれば、それがなければ、軍事クーデターを起こされても罪に問えなくなってしまう。

もう少し簡単な例を出すと、公務員としての教員の在り方だ。
学校には、社会や国語など、思想教育のしやすい授業の他に、ホームルームや学級活動、あるいは道徳、課外授業など、あらゆる局面で、教師の考え方を生徒に話す機会が存在している。
そこで、例えば
「自分の立身出世のためには他人を殺しても構わない」
「ストレス発散のために、法律に触れない程度で誰かを精神的に虐めよう」
「他国を侵略し戦争する事は間違っていない」
なんてこと、教師が生徒に語った時、「言論の自由」で許されるだろうか?
もちろん許されるはずがない。
教師の主張はあっても、社会常識から大きく逸脱するような思想教育は認められない。

一般人も、あらゆる組織に所属しているが、その中で必ずしも自由に意見を言っている訳ではない。会社員が何でもかんでも好きな事を言えるはずがないし、例えば後輩社員教育で、会社の方針と反するような事を教え込んで、問題にされたからといって「言論の自由」を主張できる訳ではない。僕らマスコミの端くれにいる人間だって、常に規制なく自由な言論をしているわけではない。
同じように、公務員まして自衛隊の最高幹部の一人である幕僚長が、政府とは違った見解を発言する際に、何の制約も受けないなんてあり得ないことだ。

今回の外交防衛委員会も、参考人招致をするならばもっと突っ込んだ質問をすべきで、例えば
「改憲すべきと考えるあなたは、すべての業務遂行の際に、その考え方に基づくことはなかったのか?」
「あなたは、日本が先の大戦で行った行為を侵略行為ではないということを前提に、隊員教育を行ったことはあるか?」
ということを聞くべきだった。
それは、明らかに国家公務員として懲戒処分の対象になるからだ。
もしこれらを認めたとしたら、田母神俊雄個人だけの問題ではなく、政府に対する航空自衛隊の組織的反乱と捉えるべき大問題になる可能性もある。
いつもながら、質問した国会議員たちの詰めの甘さは情けない。

田母神俊雄が、自分の考え方を日本政府に対して主張したいなら、それは幕僚長として政府に政策提言すべきだった。そこは「言論の自由」が保証されるべきだし、政策提言することが制約されたのだとしたら、その時こそ「言論の自由が圧殺された」と政府を批判すればいい。「文民統制」という大前提のもとで、勝手に自分の史観を隊員教育に反映させたり、肩書きを添えた上で勝手な自分の論文を怪しげな懸賞に応募して良いという事にはならない。
その点が、まったく理解できていないか、あえて無視して発表したのか分からないが、論文の内容の前に、その点をはき違えるべきではないだろう。

個人的には、現状では退職金などは返還する必要ないと考えている。懲戒されたわけでもない(つまり、政府が問題なしと認めた)のに、自主返納すべきというのは間違っている。懲戒処分にしなかった政府を批判するか、懲戒処分にする確固たる証拠を突きつけるか、まずそれをすべきで、現状で退職金を返還すべきだなんてナンセンスな主張だと思う。
ただし、それはあくまでも、現状の処分が降格のみだったからであり、田母神俊雄がとった行為は、自衛官・国家公務員として明らかに間違っているし、批判されるべき行為だということを、強く主張したい。

*  *  *  *  *  *  *

よく「言論の自由」を気軽に使う人がいる。
「言論の自由」は、あたかも民主主義におけるすべての上位概念のように思い込んでる人がいる。
とんでもない誤解だと思う。
「言論の自由」は、パワーバランスを欠いた対立構造の中でこそ使われるべき権利であり、自衛隊のトップが好きなことを言っていい権利ではない。
このこと一つをとっても、田母神俊雄という人物が、いかにいい加減な言論を振りかざしているかよく分かる。

こんないい加減な人物に「言論の自由」が勝手に解釈されるだけでも不快な思いがする。

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「言論の自由」を守るために真摯に取り組んできた諸先輩たちが、戦後という言葉とともに、この世から去ろうとしている。
日本がもっと真面目に「言論の自由」の国でありつづけることを、今生きている僕たちが考えていかなければいけないと思う。


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