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市が終わり、梅雨も明け、花火が上がれば、夏が来る……〈朝顔市〉その1

以前の記事(いなり寿司「きつ音 忠信」)でも紹介したが、「雪暮夜入谷畦道」(ゆきのゆうべいりやのあぜみち/通称「直侍」)という歌舞伎の狂言で、直次郎というヤクザな男が、自分の悪事による追っ手から逃れるために立ち寄った蕎麦屋の場面で、当時の入谷が描写されている。
田畑の広がる寂しい村に立つ一軒の蕎麦屋に立ち寄る直次郎。そこで偶然、直次郎の恋人である三千歳が病(恋煩い)に臥せって養生に来ていることを知る。

河竹黙阿弥の作品であることと、明治17年(1984年)に亡くなった三千歳が実在の人物であったことから、江戸末期(1820〜30年代頃?)の情景を今に伝えていると考えていいだろう。
一部は寛永寺の門前町として栄え、中小の寺社も数あったが、基本的には田んぼや畑が多く、また武家や豪商の別荘地や保養地ともなっていたらしい。

また、落語の世界では、例えば有名な「茶の湯」のように、入谷の隣町である根岸で隠居した旦那衆がちょくちょく描かれていることから、明治期には入谷から谷中に向かってリタイヤした中流〜上流階級の隠居先としても定着していたようだ。
江戸っ子たちにとっては「安近短」の身近な郊外地だったんだろう。
この長屋のある下谷・稲荷町界隈の北隣、浅草の西隣に位置する。

さて、今日はその入谷一帯が一年のうちで一番賑わう「朝顔市」(正式には入谷朝顔まつり)だ。

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例年は、7月6〜8日に開催されるが、今年はサミット警備の都合上、18〜20日の変則日程。
下の写真のように、片側3車線の言問通りを、片側は朝顔、もう片側は通常の的屋、それぞれ一車線ずつ潰して露店を出すので、警察の警備もかなり厳重。時間帯によっては車を通行止めにして、道路を開放する。
ここの他、路地に入っても朝顔市の露店だらけだ。
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江戸時代、入谷より南に下った「御徒町」は、御家人でありながらも足軽的な存在だった「徒士(かち)」と呼ばれる下級武士の住居となっていた。その下級武士たちの家では内職をすることが常だったが、内職の一つとして始めたのが朝顔づくりだった。
江戸末期には、下谷界隈(御徒町も下谷界隈の一部)では、約80種もの彩り鮮やかな朝顔が盛んに栽培され、徐々に江戸の評判になり、市が立つようになった。それが「朝顔市」の始まりとされている。

ところが、この下谷で開かれていた朝顔市は、すぐに衰退してしまった。どうやら、あまりにも奇をてらった朝顔が多く、江戸っ子に嫌われたらしい。

その頃には、入谷や浅草でも朝顔の栽培と市が盛んになり、明治から大正期にかけて入谷の朝顔市が、もっとも有名なものとなっていった。
その後も市は続いたが、入谷は第二次世界大戦の空襲の被害が大きく、一面が焼かれ朝顔もほぼ全滅してしまう。
戦後、徐々に植木職人たちが朝顔づくりを復活させ、鬼子母神の「真源寺」境内で朝顔市が復活し、今では「入谷の朝顔」は初夏の風物詩として東京の人たちに親しまれている。

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上の写真のように下谷観光連盟の「朝顔市」の札が付いている朝顔が公認されているもの。
連盟に金も払わずに、近くで便乗して売る人たちも多いらしく、買う方としてはそんな物は関係ないし、肝心の花よりも目立つ札なんて野暮だとも思うが、まぁイベントを継続的に開催して行くための防衛策ということだろう。

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長くなったので、分割して「朝顔市」その2につづく。

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