シンプルな理解
今年の夏、自分の子どもたちが、戦争や平和についてあまり考えていないことに愕然とした。
僕はかなり特殊な環境にいたので、子どもたちと同じ年頃にはかなり意識させられていたのだが、そこまででないにしろ、せめてもう少し知識として持っているものだと思い込んでいた。
ところが、原爆・核兵器についても、東京大空襲についても、終戦と占領化の日本についても、東アジア諸国と日本の関係についても、何も知らない、何も教えられてない。教えてない張本人は僕なんだが……。
そこで、日常の会話の中で少し意識して平和について話をするようにしたり、僕の母親に頼んで戦争の体験談を話してもらったり、戦争に関する美術館などに連れていくようにした。
すると、少しはニュースにも興味を持つようになったみたいで、靖国問題や中韓関係などについて、質問してくるようになる。学校の図書館で、戦争について書かれている本を借りてきては、質問をする。ネット世代の子どもたちのため、ネットに流れるプチ右翼的放言を目にすることもあるようだが、これまでは興味を示さなかったのに関心が出てくるようだ。
これまでは見過ごしていたことに関心を持つようになることは、すごくいいことだ。
僕も、出来るだけ分かりやすい解説をし、その上で自分の見解について話すようにした。
例えば、「支那って何?」と聞かれる。
支那が「シン」からきていること、差別発言だという人がいて差別ではない人がいるということ、中国政府は正式な抗議として「支那を使うな」と要求していること、そしていまの中国と日本は複雑な関係であることなどを説明する。
その上で、
「差別的な言葉であろうがなかろうが何だろうが、俺は、相手が嫌だというなら「支那」とは言わない。相手が嫌だという呼び名を使い挑発しておいて、『言論の自由だ』と言う人を、俺は信用しない。言われる本人が嫌だと言えば、素直に止めればいい。相手のことを本当に敬愛しているなら、相手にその気持ちを伝えなければ意味がない。その上で、相手を非難すべきことがあれば、大いに批判すればいい」
というような説明をする。
あとは、自分たちがもっと勉強して、いずれ自分の考え方を身に付けるようになればいい。
まだ中学2年生と小学5年生なので、すごくシンプルに取り留めてくれている。
こういうシンプルな理解でいてくれれば、世の中には、シンプルなことを、無駄なエネルギーを費やしてわざと複雑にする「大せんせい」が多いことも、いずれ認知することになるだろう。そして、彼らがなぜそんな議論をするのか、その先に何があるのか、きっと考えるだろう。
現在の東京のリーダーは、中国に対して「支那」という。
自分のポリシーだから、中国に抗議されても変えるつもりはないらしい。
そんな彼のことを、僕は「石原“阿呆”都知事」と言うことにしている。
「阿呆」は秦の始皇帝が建てた「阿房宮」からきている。「呆れるほど立派な宮殿」ということなので、僕は侮蔑的な意味ではなく「呆れるほど立派」という意味で使っている。関西芸人界では「アホの坂田」といえば、むしろ尊敬の対象とも言える。決して馬鹿にしているわけではない。それが僕のポリシーだから、本人が嫌だと言っても「石原“阿呆”都知事」という呼び方を変えるつもりはない。
僕はジャーナリストではないので万が一にも機会がないと思うが、もしいずれ、記者会見やインタビューをする機会があれば、直接本人に「石原“阿呆”都知事」とお呼びしてみようと思う。
その時の彼の反応が楽しみだが、さすがにそんな自分の悪趣味を、子どもに話すことはない。
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