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2005年10月

悪ふざけが過ぎないか?


「日刊スポーツ」の14日の記事にこんな見出しが踊った。

ゆかりタンがイチバ〜ン外国人記者萌え〜

その昔2ちゃんにはまっていた僕も、さすがにちょっと引く。
昨年だったか、「電車男」の映画化が決まったときに、「日刊スポーツ」の芸能面にデカデカと「『電車男』映画化キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!!」と見出しを打ったときにも少し引いたが、この時は呆れながらも少し笑えた。
しかし、今回は少しも笑えない。

まず、記事の内容が、芸能・文化記事ではなく政治記事だということがある。
「萌え〜」なんて、言葉遊びだとしても、まともなメディアが扱う言葉じゃないだろう。
それに、言葉遊びのくせに語呂が悪すぎる。言葉遊びは語呂のリズム感が命だ。「萌え〜」を使いたかっただけなのが見え見えである。

もともとスポーツ新聞の見出しは、言葉遊びであふれているし、それが面白かったりする。
軍事用語などを平気で使うセンスは嫌いだが、言葉遊びそのものは、若い頃、コピーライティングの参考になった。
しかしながら、この見出しは下品すぎると感じる。

*  *  *  *  *  *  *

いま、メディアでは「小泉劇場」という名を借りて、名物(迷物?)新人議員の一挙手一投足をマスメディアが取り上げ続けている。
まったく不勉強極まりない新人議員には呆れるばかりだが、持ち上げたり貶したりしながら、なんとかニュースになるように一所懸命仕掛けているぶら下がりの記者たちの態度には、もっと呆れ返る。

「小泉劇場」というが、投票日以降に「小泉劇場」とされているものは、小泉純一郎の軽薄さに責任を押しつけているだけで、すべてマスメディアが勝手に騒いでいるだけだ。
ワイドショーレベルのテレビならいざ知らず、新聞メディアまでこの調子である。

そんなことよりも、もっと報道すべきことがあるだろう。

新人議員の失言や、その稚拙な考え方を責めるなら、そんな人間を選んだ自民党とその幹事長をもっと責めるべきだ。そもそも、いまの選挙制度に欠陥があるわけで、そのことを訴えないでくだらない話題作りに躍起な姿勢には、嫌悪感すら覚える。
もちろん一部にはそうした報道もあるが、本当に問題意識を感じているなら、もっとマスコミが世論を形成するように仕掛けるべきであろう。

第一この国会では、共謀罪などの成立などが確実視されており、それについてほとんどマスコミが触れようとしないのは問題がありすぎる。権力のチェック機関としてのメディアの役割が機能していないと言える。
これだからホリエモン如きに「新聞なんていらない」と言われてしまうのだ。

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といいつつ、実は僕、個人的な会話の中では、マスコミで騒がれる前から「ユカリタソ」などと使っていたりもする。しかし、よほど親しい人以外の前ではそんなことは言わない。それが「たしなみ」というものだ。

10月11日のブログでも書いたが、こうした身内だけの言葉を公然と使うのは、コミュニケーション能力とモラルが低下しているからだと思う。

モラルの低下は、ジャーナリズムの自殺行為である。ジャーナリズムに関わる人間は、自助努力によって、こうしたモラルの低下を真剣に食い止めなければならない。
僕はジャーナリストではないが、マスコミの端っこにいる人間として、最近よくそう思う。

いまはちょうど「新聞週間」であるが、そのことをテーマにした10月15日付けの「毎日新聞」の『余録』欄では、「もし、政府のない社会と、新聞のない社会と、どちらを選ぶかと問われれば、 私は躊躇なく政府のない社会の方を選ぶ」というアメリカ第3代大統領のトーマス・ジェファーソンが残した言葉を紹介していた。

「新聞のない社会」は、もうそこまで来ているのかも知れない。

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伝わらない言葉

誰にでも、自分だけ(あるいは自分の周囲だけ)が使っている言葉があるだろう。

正式な名称や通称があるにもかかわらず、そうしたものよりも勝手に生みだした言葉の方がしっくりとくることがある。
僕にもいくつかあり、僕の中ではすっかり定着している。

*  *  *  *  *  *  *

カチャカチャ……テレビなど電化製品(主にAV機器)のリモ
        コンのこと。
シュッシュッ……喘息の発作時に使うスプレータイプの吸入器
鼻くそ取り………ラバークリーナーのこと。印刷用版下や、製
        図などを作るときに、ノリの汚れなどを取る
        特殊なゴム。(写真参照)

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真ん中のものが“鼻くそ取り”
こと「ラバークリーナー」。数年前までは、
デザイナーや編集者の必携アイテムだった。




擬音語や子どもっぽい言葉が多いが、まぁ自分のまわりの人間にしか言わないし、周囲がそれを理解してくれればいいので、これからも勝手な言葉を生み出すことがあるだろう。

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ところで、国立国語研究所が、分かりづらいカタカナ用語(外来語)を日本語に言い換えるように推進している。その「言い換え語」の第4回中間提案が発表された(詳しくは→ここをクリック←)。

仕事をしていると、やたらとカタカナ語を使われることがあるし、相手にあわせて使わなくてはいけない局面がある。とくに広告関係の仕事や外資系の出版社の仕事だと自然とそうなる。しかし、カタカナ語を当たり前のように使う風潮には、正直言って辟易としている。
カタカナ語のすべてが悪いなどと全否定するつもりは毛頭ないが、日本語で表現できるなら(そしてその方が伝わりやすければ)日本語の方がいい。

自分の周囲だけで使う言葉と、不特定多数に向けて使う言葉は使い分けられるようにしなければ、「ギャル語」を使って平気で大人に話す子どものモラル感と、何ら変わりがない。コミュニケーション能力が不足しているということだ。
オタク小僧たちが嫌われるのもこうしたことと通じるものがあるはずだが、本来嫌われる対象だった彼らが、昨今「アキバ系」などと言い換えて市民権を得つつあるのを見ていると、一般的な大人たちのモラル感が低下しつつあるのかも知れない。

とりあえず僕の場合、仕事の時だけでも、必要以上にカタカナ語(外来語)にしないように心掛けなければいけないと思っている。

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今回の発表によると、フリーランスは「自由契約」だそうだ。そうするとフリーランサーは「自由契約者」といったところか。
もう少し誇り高い感情を込めてフリーランスと使ってきたが、なにやら平板にされた気がする。

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9月の仕事


6月以来、ずっと仕事紹介を書くのを忘れていた。
ちょうど先月までの仕事で、本日発売の雑誌があるので紹介したい。

別冊宝島1216「親子の時間」

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いま、「親子学習」という学習方法が注目されている。
学校や塾などに任せきりにせず、親が子どもの勉強について面倒を見るというやり方だ。

といっても、昔から「教育ママ」というものはいたし、細かい学習指導はしなくても、学習内容の管理をしている親はいた。
それと、いま言われている「親子学習」は何が違うのかといえば、要するに「普通の親が“教育ママ化”している」と言えなくもない。ただし、「普通の親が」というのは大きな意味がある。

そもそも、親が、学校や塾など教育機関に自分の子どもの教育を任せきりにし過ぎていたと言えるからだ。
子どもの教育は、基本的に家庭が第一であるべきだ。
それを人任せにしていたというのが、そもそも間違っていたと言えるのではないだろうか?
そうした「人任せの教育」に対して、陰山英男氏や小河勝氏、斉藤孝氏などが異を唱え、それが浸透しつつあるのが「親子学習」だ。
陰山氏や斎藤氏などの書籍は読んでそうした動きについて知ってはいたが、これまでくわしく調べたことはなかった。

その「親子学習」の実態を取材したのが、今回の仕事「親子の時間」の特集『親子学習が成功した12のストーリー』だ。
親子学習をスタートさせたばかりの家族、すでに“ベテラン”と言えるほど熱心に取り組んでいる家族、難関の中学受験を成功させた家族、基礎学習だけじゃなく工夫を凝らしている家族など、親子学習を実践している家族を紹介している。


僕はこの特集を担当している。
基本的には特集全体の編集だが、部分的に取材・執筆・撮影なども担った。

ほか特集として、陰山氏や小河勝氏のインタビュー、「お母さん1000人アンケート『子どもと私と私の時間』」など。

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個人的なことだが、たまたまこの夏、6年間離れていた子どもたちが都内に引っ越してきた。
目を掛けられないできたので偉そうなことは言えないが、事実上、いままで子どもたちの学習面の教育について放りっぱなしにしていたために、子どもたちの学習意欲は低いと言わざるを得ない状況だ。
そうした意味で、非常に刺激された仕事となった。


【発行】宝島社
【定価】1000円(本体952円+税)
【規格】A4変型判/並製本/104頁
【ISBN】ISBN4-7966-4911-5
【公式サイト】http://tkj.jp/

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“なまら”来てます。

近頃、地方の方言が若い人のあいだでちょっとしたブームとなっているようが、そうしたブームの中で、いま北海道弁の「なまら」が浸透しつつあるらしい。

まぁ、簡単に言えば少し前に流行った「超」や「めっちゃ」と同じ意味である。
僕の持論だが、英語の「very」と全くの同じ用法で使える。

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人生のほとんどを東京で生きてきた僕だが、大学時代だけ北海道で暮らしていた。
その頃から言い続けているのが、「『なまら』は絶対に流行る。俺が流行らす」だった。
僕をよく知る人なら、僕の会話の中で「なまら」が登場したのを何度も聞いているはずだ。

それから20年近く、時間はかかったが、ようやっとその時代が来たようだ。

とっても便利な言葉なので、どんどん世の中に浸透して欲しいと願っている。

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話はまったく変わるが、花屋や雑貨屋でよく売っている竹(なんとかバンブー)が、今年の5月頃、元気のない状態になってしまった。あまり植物の育て方に詳しくないのだが、とりあえず夏になる前に植木鉢に植え変えてみた。
どうやらそれが良かったようで、少しずつ元気を取り戻し、新しい節と葉が生えてきた。

ちょっとうれしいな。


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