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2005年9月

甘ったれた教師たち

先日、体罰のついて書いたばかりだが、昨日今日と、数十人の教師たちがパネリストとなって教育現場の現状を訴えるテレビ番組が続いた。

昨日がTBS、今日がフジテレビの番組だったが、どちらの番組も内容はたいして変わらず、過保護なバカ親によって教師たちが苦労させられている話や、無能な管理職や現状が分かっていない教育行政によって教育現場に混乱が起こっているという話を、パネリストとなった教師たちが訴えた番組構成となっていた。

どちらの番組でもテーマの一つとして出てきたのは「“愛のムチ”という『体罰』は是か非か」だった。

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記憶に残っている限り、「体罰肯定派」の主張は以下のようなものだった。


○生徒は教師が体罰しないことを分かっているために、教師たちを舐めている
○(男子なら)ダラダラと説教をされるより、一発殴られた方が生徒にとってもありがたいはず
○体罰を否定するようになったから、教育現場の崩壊が起こった(←こんな考え方は、まったく根拠がないもので論外)
○「暴力」はいけないが、少しぐらいの“愛のムチ”まで否定されては、指導なんてできない
○親にも叩かれたことないような子どもだからこそ、教師の体罰が必要だ
○子どもたちには大人の怖さを分からせておく必要がある
○体罰がなければ教師に威厳や権威が保てない


要するに、どれもこれも、努力を怠っている教師のたわいもない「言い訳」ばかりで呆れる。

このアフォ教師たちは、生徒に舐められないような努力をどれだけしたというのだろうか?
体罰をしなければ生徒に尊敬されないような教師は、はじめから教師としての資格がない。

もちろん親・保護者などの理解も必要だし、それに伴う家庭での「教育」も必要だろう。無理解で馬鹿な親が多くなっているなかで、教師たちが苦労していることは、教育現場を取材している人間としてよくわかる。僕自身、「親・大人としての“力”の低下が、子ども社会に悪影響を与えている」という立場で取材しているのだ。「モンスター・ペアレンツ」という馬鹿な大人の存在も否定しない。
しかし、だからといって、教師が「体罰」という安易な手段にたよることを認めさせるわけにはいかない。
どうしても殴りたいというなら、せめてまず親を説得しろと言いたい。親と教師の間で、十分な信頼関係を築いて見せろと言いたい。馬鹿な親のことを嘆くが、親にすら自分の意見を理解させることができない教師が、その親の子どもである生徒に自分のことを理解させられるはずがないだろう。

そうした努力を怠っている「体罰肯定派」の教師は、僕が「お前には『なんで体罰が駄目なのか』ということを言っても分からないから」とぶん殴っても、それに対して“愛のムチ”として受け取ってくれるのだろうか? ねっちりと文句を言うより、一発殴ってあげた方が有り難いというのだろうか?

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テレビに出ている教師たちから見てとれるのは、甘ったれた教師たちの実態だった。
当然ながらまともな教師たちの意見もあったが、胸くそ悪い出来損ないの教師たちばかりが目立つ編集になっていたのが残念だ。しかも番組全体として、アフォな教師たちに同情的な構成になっていたのも腹立たしい。

こうした甘ったれた教師たちの実態を見ていると、うちの子どもたちの学校で「体罰」をしているらしい教師に、すごく興味が湧いてくる。やはり努力を怠ったがための“暴力”だったのか、それとも止むに止まれずの“愛のムチ”だったのか……

とりあえず、学校に預けている親の身としては、昨日今日テレビに出ていたアフォ教師のレベルじゃないことを願うのみである。


【追記】
余談だが、20年ほど前、テレビ朝日の「ニュースステーション」で、教師たちに社会の常識と思えるようなことをインタビューして答えられない教師たちをあざけ笑うコーナーがあった。TBSの情報番組「噂の東京マガジン」の人気コーナー『やってTRY!』の教師版のようなものだった。「総理大臣のフルネームを漢字で書いてください」程度の問題を答えられない教師の多さに呆れながら見ていた記憶がある。
今日の番組では「バカ親」を笑っていたが、ぜひ「バカ教師」を笑う番組も作ってもらいたい。

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歴史的名馬の誕生を見逃すな!(競馬「神戸新聞杯」)

毎年この時期になると、「暑さ寒さも彼岸まで」って言葉はその通りだと実感させられる。
これまでの暑さがアッという間にどこかへ消えて涼しくなった。
わが家の猫さんたちも、寒さを感じているのか、布団の上で寄り添って眠ってる。

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うちの猫さんたちは、競走馬と違ってお金を稼いではくれないが、僕に安らぎを与えてくれる。

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高校1年の5月、初めて府中の東京競馬場に足を踏み入れた。日本競馬史上、3頭目の三冠馬ミスターシービーが、ダービーで優勝した日である。
それから22年、今年、史上6頭目の三冠馬が誕生しようとしている。

100年近い日本競馬の歴史の中、毎年数千頭(現在は1万頭強)と生まれるサラブレットで、「皐月賞」「日本ダービー」「菊花賞」の3つのレースを勝って「三冠馬」となった馬は、セントライト、シンザン、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアン、たったこの5頭だけなのだ。
(それぞれの三冠馬に関しては→ここをクリック←

「三冠馬」とは、他の同年代のどの馬よりも、美しく、気高く、誇り高い走りをする馬である。
今年、その三冠に挑戦している馬の名は「ディープインパクト」という——。

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今日、三冠の最終レースの前哨戦となる「神戸新聞杯」が行われた。
出走したディープインパクトは、圧倒的人気に応えて、まさに「余裕」という言葉がぴったりする圧勝劇を演じた。

ディープインパクトは、これまで僕が観てきた数多の名馬の中でも、“皇帝”シンボリルドルフを彷彿とさせる強さを持っている。

シンボリルドルフは、競馬ファンや競馬関係者の誰もが「史上最強」と認める馬だ。
『北斗の券』でいえば「ラオウ」、『ドラゴンボール』なら「魔人プウ」、『ろくでなしブルース』なら「葛西」、『スラムダンク』なら「山王工業」、古くは『リングにかけろ』の「ギリシャ十二神」、『あしたのジョー』の「ホセ・メンドーサ」、『ドラえもん』の「ソノウソホント」、……そのくらい絶対的な存在だ。

しかも鞍上の騎手は“天才”武豊。
武豊は、最初の三冠レースである皐月賞に圧勝で勝ったとき、ディープインパクトに乗ったまま満員の観客に向かって高らかと天に拳を突き上げ、人差し指を立てた。そして続くダービーを勝ったときには、指を2本立てた。
これは、岡部騎手がシンボリルドルフの絶対的な強さと三冠の自信を示して、皐月賞とダービーで勝った時に見せたポーズだ。
競馬界で天才という名を欲しいままにしている武豊が、この馬に対する絶対的な自信を示しているのだ。

とりあえず、シンボリルドルフから「史上最強馬」の地位を奪う可能性を持っているのは、このディープインパクトだけである。

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小泉自民党の歴史的大勝は白けたが、スポーツの歴史的瞬間は誰の心にも感動を与えてくれる。そして、何十年経っても、その歴史に証人となった感動は忘れられないことだろう。
競馬やギャンブルに興味がない人も、この歴史的名馬誕生の瞬間を見逃さないで欲しい。

三冠最後のレース「菊花賞」は、10月23日だ。

マンガなら、正式発売日を待たずして近所の本屋で数日前に手に入れることができたが、スポーツの結果を先に知ることはできない。
子どもの時と違って、こうした「待たされる喜び」を楽しむことができるようになった。

こんな時、秋の寒さとともに、自分が「オッサンになったなぁ」と実感させられる。


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結局、真矢は最悪だった(ドラマ「女王の教室」最終回)

先週の土曜日、日本テレビの連続ドラマ「女王の教室」が最終回を迎えた。
何かと話題のドラマだったが、最後まで高視聴率を稼いだようだ。

ドラマの2話目から見始めて、途中見逃した放送もあるが、最終回直前にやっていた総集編みたいな番組をみたので、ほぼ全編を観たと言ってもいいだろう。久しぶりに連ドラを見続けた。

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教師・真矢は、「いい加減に目覚めなさい」というフレーズとともに、子どもたちに社会の厳しさを徹底的に叩き込む。「自由を得たいなら責任を持ちなさい」「厳しい状況から目を背けずに、向き合いなさい」「親なんて本当にあなたたちのことを考えている訳じゃない」……、そして、「悪いことをしたもの、成績の悪いものには罰を与えます」——(正確な台詞じゃないかも知れないが、概ねこんな感じの台詞だった)

たしかに所々、正しいこともする。
番組的には、その小さな正義をことさら左様に大きく取りあげ、問題のある行動については「愛のムチ」として扱う。最終的に、教師・真矢によって問題行動の多かった生徒たちが、すごく“いい子”になっていく。そうした影響は、生徒たちの家庭の問題も解決し、生徒たちは明るい未来へと羽ばたいていくことで、締めくくっている。

ドラマの前半の展開は、教師・真矢による生徒たちへの虐待行為を見せ続け、ドラマが終わると毎回不快極まりない思いにさせられるのだが、回を重ねる毎、徐々にその虐待行為には、実は教師・真矢の緻密に計算された狙いがあったことが明かされる。
そうすると、最初は不快極まりなかったこのドラマが、徐々に妙な爽快感をもたらせてくれるような気分にさせられるのだ。

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さて、僕の感想だが、タイトル通り「阿久津真矢は最悪な教師である」という結論だ。
これは、初めてドラマを観たときから、結局最終回まで変わることのない評価である。
そして、こんなろくでもない教師を、さも「現代の理想の教師像」と言わんばかりに描いたドラマ製作者のセンスのなさに呆れ返るばかりである。

番組に寄せられた意見は、当初は批判的な意見が多かったようだが、放送回数が進むにつれて徐々に好意的な意見が多数を占めていったそうである。正直言って面倒なので、公式掲示板や2ちゃんの専用スレは読んでいないが、だいたい書かれていることは想像できる。頭の悪い大人や、「説教されたい」なんて甘ったれてる精神年齢の低い人間には、さぞ受けの良さそうなドラマである。

何が胸くそ悪いって、子どもたちにする真矢の行動のすべてである。
あれは、教育ではなく虐待だ。
いじめの問題を扱うときに「虐められる方にも問題がある」などと阿呆な意見を言う馬鹿がいるが、同じスタンスで作られた作品と言って過言ではない。「甘ったれて問題行動の多い子どもには、精神的な虐待、体罰、過度のペナルティーなどを課しても、それで子どもが立ち直れば問題ない」とでも言うのだろうか?

第一、教師はいつから「罰」を与える権限を得たのだろうか?
この国では、司法以外に人を裁く権利はないと認識しているが、教師だけは特別に「子どもを裁く権利」を得ているのだろうか?

何から何まで、まったくお話にならない。

こんなドラマをありがたがっているから、日本は恥知らずな国になろうとしているんだ。

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あまりの小泉自民党の大勝に、怒りよりも唖然としてしまったが、このドラマのおかげで怒りの気持ちを思いだした。

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板橋って、大丈夫なのか?

忙しさも少しだけ落ち着いてきた。
大きな仕事が二つ同時に進んでいたのだが、一つが入稿になったため、もう一つの仕事に集中できる環境になったおかげで、少しばかり余裕ができた。

このブログもすっかり寂れてしまった。

この間めちゃめちゃ忙しかったのは、仕事の忙しさだけでなく、プライベートでも用事が多かったからだ。何といっても、これまで関東の僻地で暮らしていた子どもたちが、東京・板橋に引っ越してきたことが大きい。しかも、夏休みだ。

月に数日は泊まりの仕事がある母親(つまり僕の元結婚相手)と、それぞれ交代で子どもの面倒を見ることになったのだが、夏休みに子どもたちっていうのは、大きくなったとはいえ半端なく手が掛かる。久しぶりに親らしいことをしたくらいで、音を上げるわけにはいかないが、それにしても手が掛かった……。

まぁそんな生活も、子どもたちは2学期が始まり、仕事も少し片づき始めたために、なんとか落ち着いてきた。

*  *  *  *  *  *  *

さて、そんなこんなで転校となった2人の子ども。
板橋区の公立小学校と公立中学校にそれぞれ入学し、少しずつ慣れてきはじめたようである。
子どもたちから少しずつ学校の様子を知らされるようになってきた。

で、子どもたちからの話を聞くにつれ、どうやら子どもたちの転校した学校は、少しばかり疑問符の付くような学校のようである。


まずは、娘の通うS中学校。

校則がいろいろとあるらしいのだが、理不尽なものが多いようだ。

例えば、冬の制服の着こなし。
なんだかごちゃごちゃと決まりがあって面倒なのだが、冬になってセーターを着るとき、その下にベストを着たままにしなければならないらしい。
「長袖のシャツ」→その上に→「ベスト」→その上に→「セーター」
という順番で着ることが決まっているらしく、セーターを着るためにベストを脱ぐことは許されないとのこと。

まさか、子どもの聞き間違えだろうと思ったのだが、間違えではないらしい。
それどころか、セーターの下にベストを着ない生徒が多いらしく、今日、学年集会があって、「セーターの下にベストを着ること」の徹底指導があったという。

おいおい、そんな格好悪い着こなし、俺は親として許したくないよ(爆笑)。
生徒が嫌がるの当たり前、っていうか、そんな着こなしを覚えさせる指導なんておかしいだろ?

他にもちんぷんかんぷんな校則が多いようだ。

学校には学校なりの言い分があるのだろうが、(子どもの言っているとおりの校則ならば)馬鹿馬鹿しい校則が多い。それをそのままにしている教師たちも頭が悪そうで、すごく不安だ。


次ぎに、息子の通うH小学校。

今日、子どもに聞いたのだが、どうやら別のクラスの担任の教師に、早くも叩かれたらしい。
軽く足を蹴られた後に、頬を一発平手打ち。

言い渋る息子から聞いたところによると、息子が運動会の騎馬戦の練習中に、危険なことをしてしまったために、「ふざけるな!」と蹴りを入れられ、そのまま返事をしなかったために「返事はどうした」といって平手をくらったらしい。

僕は、「どんなことがあっても、親も教師も、子どもに体罰をすべきではない」という考え方だ。

といっても、僕自身も、子どもの時はかなり悪ガキだったために、教師にはよく殴られた。小学校3年以降、中学校、高校と、たぶん毎年、何だかんだと殴られた。
しかも、僕が通っていた学校は、その当時から「子どもの権利を尊重しよう」なんて高らかにうたっていた私立付属校で、そんな中でしょっちゅう殴られていた僕は、かなり悪ガキだった。
で、僕自身は、教師に殴られたことに対して、恨みなんて全くもっていない。
「殴ってくれた先生の方がいい先生だった」なんてきれい事も言うつもりは更々ないが、毎日兄貴に木刀で殴られて育った僕としては、正直、教師に殴られても怖くなかったし、たいして痛くもなかったので、別にどうとも思っていない。

だから、正直言って、自分の子どもが一発や二発殴られても、それほど問題にしたくない。

ただし、大人になって、自分自身が親になり、教育現場を取材する立場になった今、僕の考えは、前述の通り「どんなことがあっても、親も教師も、子どもに体罰をすべきではない」である。

理由はいろいろとあるので、必要があればおいおい書いていくが、簡単に言ってしまえば「殴ったところで意味がない」ことと、「大人が子どもを殴るとき、その大人は少なからずストレス解消している」ことが主な理由だ。
日本テレビの『女王の教室』なんてドラマが高視聴率を稼いだが、あんなのは絶対に認めてはならない教育論であることは言うまでもない。

さて、息子の小学校である。

どうやら、うちの子どもだけでなく、他の生徒が別の先生に頭を殴られていたこともあったようだ。
うちの子どもが転校してまだ20日間のうちに、少なくとも2回、2人の教師が生徒に「体罰」を与えたことになる。

僕は、一度や二度のことで、ましてその真相も見えない中で、ヒステリックな行動をするつもりはない。だからといって、学校の中で体罰が日常茶飯事なのだとしたら、やはりそれは見過ごすことができない。

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うちの子どもたちが言っていることがどれだけ正確なのか、また学校の実態がどうなっているのか、近いうちに時間を作って調べて見ようと思う。
転校前に板橋区の公立学校について少しだけ調べたが、その段階から板橋の教育行政には、問題がありそう雰囲気があった。その不安が的中しているのか、それとも思い過ごしなのか……

少し落ち着いた、とはいっても、まだまだ大きな仕事が進行中で、ゆっくりできるという状況ではない。今は、できるだけ早く仕事を片づけて、板橋区の教育現場の実態をじっくり調べてみたい。
もちろん、問題があれば、学校、保護者会、教育委員会などへも、直接アプローチもするつもりだ。

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名バイプレーヤーの共演(DVD「コントロール」を観て)

芝居でも映画でも、チケットを購入したのに、仕事やタイミングが合わずに行けなくてチケットを無駄にするということがある。とくに映画の場合は、前売りチケットを買ってから映画館に行ったら混雑しているので、別に日に行こうと考えてそのままになってしまう、なんてこともあり、値段も安いことから、年に何本も見逃してしまう。

今年、一番最初に無駄にしたチケットが映画「コントロール」だ。DVD化されたので観てみた。

*  *  *  *  *  *  *

幼い頃、母親が目の前で殺されるという経験を持つリー・レイ(レイ・リオッタ)は、強盗殺人事件を起こしたのにも反省の欠片もなく、刑務所で被害者をなじるような凶悪犯。とうとう死刑執行されることになった。

衆目の元で死刑を執行されたはずの彼だが、死刑執行から数時間後、気が付くと遺体安置所にいた。目の前には、ハート・マーサー製薬のマイケル・コープランド博士(ウィレム・デフォー)。ある医学プロジェクトに被験者として無期限で参加することを条件に、リー・レイにふたたび生きる選択肢を与える。
そのプロジェクトとは激しい気性を抑え、脳の性質を変える薬物“アナグレス”の人体実験だった。リー・レイを被験者にして、彼の凶暴な性格を“アナグレス”の効果によって抑制させ、彼を修正しようというものである。世界的に普及した抗鬱剤を開発した実績を持つコープランド博士は、この実験に自信を持っているのだ。

渋々、条件を飲んだリー・レイに代わって、彼の名の認識票を付けた遺体が焼がれ、リー・レイの存在はこの世から抹消された。そして研究所に監禁された彼は、“アナグレス”を6時間ごとに投与され被験者としてハート・マーサー製薬の研究所の監視の元に置かれることとなった。

最初は実験や研究に抵抗していたリー・レイだったが、数日後には大きな変化が現れた。後悔の念や自責の思いが目覚め始めるだけでなく、彼が犯した悲惨な犯罪の悪夢を見るようになったのだ。その結果、実験の第2段階として、コープランド博士は実験の場を実社会に移し、リー・レイを一般市民と同じ生活をさせることを決意する。郊外にやってきたリー・レイは、ジョー・モンローという新しい名とIDをもらい、安アパートに住み、第2の人生を歩むことになった。もちろん、24時間の監視下に置かれ、6時間ごとに“アナグレス”を投与されることは変わっていない。

実験を通してリー・レイを信用するようになっていったコープランド博士の目の前には、かつて人々から“怪物”と恐れられたリー・レイの姿はもうなかった。

だが“アナグレス”によってコントロールされていたはずのリー・レイの行動は、徐々に研究所の予測とは異なっていき、次第に事態が悪い方向へと進んでいく……

*  *  *  *  *  *  *

レイ・リオッタとウィレム・デフォーの共演だ。
どちらも、マーティン・スコセッシ監督の作品で重要な役どころをこなしているが、初共演だという。
この二人、年齢も同じで、どちらも「名バイプレーヤー」として同じような位置付けでアメリカ映画界に存在していると言える。同じようなキャラクターのため、バッティングするということがなかったのだろうか(と言っても、デフォーが善人から悪役まで幅広く役をこなすのに対して、リオッタはいつも小悪党ばかりだ)。
どちらも好きな役者なので、二人の共演というだけでも、僕としては垂涎もの。

さて、肝心の映画の内容だが、サスペンス仕立てになっているものの、それほどハラハラさせられるわけではない。
それよりも、「人は性格を直すことが出来るのか」ということが大きなテーマとなっている。ところが、その点についてもあまり突っ込んでいるわけではない。映画の抱えているテーマとサスペンス的手法の間を、どこか中途半端に行ったり来たりしている感は否めない。まぁ、見終わった後、考えさせられるというか余韻の残る作りになっているのは、評価できるところ。

それ以上に、好みの二人が対峙しているシーンを観るだけで、僕としては、やはり映画館で観るべきだったと後悔させる作品だった。

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【作品名】コントロール(Control/'04/アメリカ/90分)
【監督】ティム・ハンター
【出演】レイ・リオッタ(『グッドフェローズ』'90/『NARC/ナーク』'02)
    ウィレム・デフォー(『今そこにある危機』'94/『僕の神さま』'01)
    ミシェル・ロドリゲス
    スティーヴン・レイ
    キャスリーン・ロバートソン
【公式サイト】http://www.con-trol.jp/
【個人的評価】★★★★★★☆☆☆☆(10点満点)

※人名横のカッコ内は、その人の関連作品の中でできるだけ最近のオススメ作品。

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まったり感のある人になりたい……書籍『散歩写真のすすめ』

7月1日のブログで友人が写真を始めたことを紹介したが、彼女に丁度いい本があるので紹介したい。

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数年前から、若い女性の間で写真ブームが起きていたようだ。
HIROMIXあたりの影響のようだが、僕はちょうど写真に対する興味が薄れていた時期だったせいか、そんなブームが起きていることは意識していなかった。
ところが、去年だったか、表参道でお茶をしていると、一眼レフを持った若い女の子がたくさんいる。最初は、モデル事務所や雑誌のスカウトだろうと思っていたのだが、よくよく見ていると別に人物だけでなく好きにシャッターを押している様子。どうやらこれが、若い女の子たちの写真ブームのようだと気付いた。
それ以来、少し意識をしてみると、(ブームは下火になっているらしいが)たしかに一眼レフを持った女の子たちがたくさんいる。
しかも、ブログのブームによって、今年になってからまた増えている気がする。

この本は、そうした写真初心者から初級者にむけて、日常のひと時を切り取って保存する写真の面白さを書いている。“散歩写真”となっているが、「散歩をして撮る写真」として定義するのではなく、出歩いているときに何気ない一枚を撮影することをすすめている。
そしてそれらの作業が、自分自身を見つめることになるのだという。

本のタイトルが示すとおり、写真の面白さを知っている人には、物足りないのは当然だが、僕はこの本を読んですごく懐かしい思いにさせられた。
僕も若い頃には、写真を撮ることで「日常を切り取る作業」がすごく楽しかった時期があったし、いまこうしてブログを書いているのも、日常を切り取り、自分自身を見つめる作業だ。ブログのタイトルどおりである。

この本と写真を始めた友人に刺激され、僕も“散歩写真”を再開しようかとも思ったが、さすがに若い女の子たちにまじってカメラを持ち歩くほど、モチベーションを高めることはできなかった。
まぁ、比較的高画質でとれる携帯電話のカメラで我慢しておこう。

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著者の樋口聡さんは、出版ネッツで一緒に活動をしている先輩である。
男を好きになることは少ない僕だが、この人の「まったり感」は憧れる。
彼のブログ「宿河原日記」もまったり感漂うもので、僕がブログを始めるきっかけとなった一つでもある。

本人もこのブログを見ている可能性があるので、あまり誉めたくないのだが、実は、彼のようなまったり感のある人になりたいと、いつも考えていたりする。
しかしながら、なかなか実践できないものなのだ。

【発行】文藝春秋
【定価】693円(本体660円+税)
【規格】新書判/並製本/184頁
【ISBN】4-16-660450-3
【公式サイト】http://www.bunshun.co.jp/

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