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自分の甘さを棚にあげる

「最近の版元編集者はレベルが低すぎる。あれじゃただの手配師だ」
「編集技術が身に付いていない編集者は、普段、何の仕事をしているんだろう」
「最近では、編プロの編集者もひどいのがいる」

この数年、僕は公然とこう言ってきた。

これは、編集者に限ったことではなく、ライターでも、デザイナーでも、イラストレーターでも、確実にレベルの低い「専門家」が増えてきている。活字離れという現象の背景には、こうしたクリエーターの質の低さと、そんなクリエーターたちに作られた活字メディアが世の中にあふれかえっていることが、ボディブローのようにじわじわと影響を与えているだろう。

ところが、こんな編集者が増えている原因の一端が、僕自身にあることに気がつかされた。

今日、知り合いの校正者が紹介してくれた組版の仕事で、その校正者、クライアントである編集者、そして僕の3人で打ち合わせをしていた時のことだった。
編集者から「時間がなかったので、このゲラ(校正紙のこと)とそのゲラを付け合わせて、適当に判断してください」と言われた。僕はついつい「分かりました。こちらで判断できるものはこちらで進めますね」と答えてしまった。

すると、知り合いの校正者は間髪を入れず、その編集者にむかって「基本的にオペレーターは、修正指示をそのままに直すのが仕事です。適当に判断しろと言ってもできません。校正者としても、編集者がチェックすることが前提で校正しているので、編集者がチェックしないでオペレーターに右から左で渡されるのは困ります」と言ったのだ。

正直、自分が恥ずかしくなった。

広告や出版(音楽、放送、映像、印刷など)の業界は、きわめて合理的に分業制が確立している。それぞれの専門家・プロの技術が、それぞれのセクションで発揮され、それが集約され1つの作品として出来上がるのだ。オペレーターにはオペレーターの、校正者には校正者の、編集者には編集者の仕事がある。
僕は、編集者の仕事を奪ってしまった。そしてそのことで、その編集担当者が技術向上させる機会も奪ってしまったのだ。

昔、まだ印刷現場がアナログだった時代、整理されずに不明点の多いゲラを写植屋さんに持っていくと、職人のオヤジさんに「分かるように整理してから持ってこい!」と怒鳴られたもんだ。怒鳴ることがいいことだというのではなく、ちゃんと指摘されたからこそ、こちらは読みやすく整理された修正指示を入れないといけないと思ったし、そういう積み重ねで「編集技術」を向上させられたことが重要なのである。
この世界で職人さんの怒声を聞くことは少なくなったが、それと比例するように、質の低いクリエーターと出合う機会が増えている。要するに、クリエーター(とくに編集者)を育てるのは、同じ職能の先輩だけでなく、職能の違うクリエーターたちがお互いに育て合わなければいけなかったのだ。

まぁ、当たり前のことなのだが、それがなかなか実践できない。現実では仕事相手に対して「ついつい」甘くなってしまう。そのほうが自分自身が楽だからだ。
そんなこれまで自分の行動を棚に上げて、「版元が編集者を育てていない」「デジタル化の導入・普及によって、不勉強なクリエーターが増えた」などと他人のせいにしていたことが恥ずかしい。

知り合いの校正者は僕より年長のベテランさんだが、そろそろ僕も「ベテラン」と言われる立場になってきた。「ついつい」が世のため人のためにならないこと、そして自分自身のためにならないことを、もっと自覚して仕事をしていきていきたい。

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