ちょいとご報告

私事ですが……
4月14日に母が他界しました。

 

4年前、反対したにも関わらず父が強引に埼玉北部に引っ越すと決めて、それについて行ってしまったのですが、その父は1年経たずに亡くなり、それからしばらく一人暮らしをしていました。
昨年の秋頃、体力の低下が著しくなり、いろいろと不安を感じることもあったので、再び東京に引っ越してくるように言ったところ、今年の1月に渋谷区に部屋が見つかって、将来的には兄貴と同居することを視野に入れて移転してきました。
そして、引っ越しの準備するために埼玉の部屋に行ってみて、そこで僕は母が認知症の入り口に来ていることを確信しました。

渋谷に来てからは、すぐに地域包括センターのケアマネージャーさんやヘルパーさんの支援を受け、健康に関しても信頼できる医者と相談し、何とか上手く生活できる体制を作っていこうと思っていたのですが……

正直、「間に合わなかったかぁ」というのが、率直な気持ちです。

間に合わなかったというのは、いろんな意味で感じています。

最終的に脳の検査をする直前だったので、脳の萎縮などハッキリと認知症があったかは分かりません。本当は先月に脳の精密検査を受ける予定だったのですが、本人がまだ認知症と向き合う覚悟が出来ていなかったので、「本人の覚悟のために、もう一か月使おう」と医師とも相談したため、今月の末にでもと実施する予定でした。
そもそも、一人暮らしが上手くできなくなているということに、もっと早く気がついてあげられたら、というのもあります。
亡くなった14日は、ケアマネージャーさんとヘルパーさんと面談して、これまでの2か月半を見た上で、さらに生活支援のメニューを大幅に増やす予定だったのですが、僕が熱を出してしまい、風邪をうつさないように面談を延期してしまったのでした。本人もようやく前向きに認知症を捉え始めていた矢先だったので、生活支援を充実させれば、もっと長く穏やかに生きることができたかもしれません。

3週間ほど前から、母は浅草に行きたいと言っていました。引っ越してから髪を切ってなかったので、生まれ育った向島で髪を切り、浅草のお気に入りの店で髪留めを買い、神田の好きな寿司屋に行くのを楽しみにしていました。ところが、一人で来ようとしたのに、電車に一人で乗ると迷ってしまうという事を何度か失敗し、いよいよ電車で行くのは諦めて、僕の車で行く覚悟をし、今週にでも連れて行こうと思っていました。この3週間、会えば浅草の話をして楽しみにしていたのですが、それも間に合いませんでした。母が亡くなった後、風呂場に髪の毛の染め粉がありました。もしかしたら、髪を染めてオシャレしたかったのかもしれません。

そもそも、僕が14日に行ければ、母が亡くなる事もなかったかもしれません。3月から一人で風呂に入ると、ウトウトして長湯をしてしまい湯当たりをしてしまうという事を繰り返していて、この数週間は、僕がにいる時だけ入ってもらい、ウトウトしないように数分おきに声かけしながら入浴していました。そして、今月からは、ケアセンターやデイサービスの入浴支援を受けようとしていたのです。
ところが、14日の夜、一人で風呂に入り、理由は分かりませんがそこで心臓発作を起こし、そのまま亡くなってしまいました。警察の監察医務員の所見を合わせた僕の想像ですが、浴槽で寝てしまい、そのまま気がつかないまま心臓発作を起こして、苦しむ事もなく亡くなったと思われます。
翌朝、ヘルパーさんが母を見つけてくれました。

たしかに持病もありますし、認知症の入り口にはきていましたが、いずれも今すぐ命に別状あるものではなかったので、そういう意味では家族にとっても突然の別れでした。

 

昭和10年8月19日に、東京都墨田区で生まれました。
祖父と祖母には、母の前に3人子供がいたのですが、いずれもすぐに死んだため、「大将のように、強く生きて欲しい」と「將子」と名付けられました。そのお陰か、70歳頃まではほとんど医者要らずの人でした。
小学校時代を戦火で過ごし、戦後民主主義に直撃し、自分でバイトをしながら大学まで行き、演劇を好きになり、ある劇団で舞台に立って、僕はお腹にいる頃まで何だかんだと舞台に出ていたそうです。戦後から政治運動、女性運動で熱心に活動し、それは晩年まで続けていました。バブル期には大学に行き直したり、若い頃からやっていた日本舞踊を本格的に修行し直したりし、晩年は借金を抱えた親父に付き合って結構苦労していたと思いますが、それでも父の死後も、部屋に親父の写真を何枚も飾って過ごすくらい、親父の事を好きでい続けた人生だったと思います。
享年79歳でした。

 

我が家は無宗教なので葬式は行わず、すでに荼毘に付して近親者だけで見送りました。
孫たちからの手紙や、浅草の櫛屋さんで買った髪留め、神田の寿司屋で握ってもらった寿司、読んでいる途中だった井上ひさしの中編短編全集などを棺にいれて、持って行ってもらいました。

僕自身は、かなり以前から家族の死に直面しても平常心でいるように心がけているので落ち着いているつもりですが、それでも「間に合わなかったかぁ……」という気持ちは、今でも強く感じています。後悔しないように生きてるつもりですが、なかなか悔いのない人生を送るというのは難しいものです。
仕事柄、人が迎えた「突然の別れ」を聞かせてもらう因果な商売ですが、やはり突然訪れる別れの先には、「まだまだ、こんなコミュニケーションをとりたかった」という気持ちがあるものです。

まぁ、いつも偉そうに分かった顔をして生きている僕に、母が最後に教えてくれた説教なんだと思っています。

この数日、母の妹弟や友人たちに連絡を取り、僕の知らなかった話なども少し聞かせてもらいましたが、あらためて時間をかけて話を聞かせてもらい、少なくとも父が亡くなってからのこの数年、母がどう一人暮らしを送って来たのか、ちゃんと見つめ直さないとなぁと思っています。
といいながら、生前に祖父が自らまとめた手記を編集するのも、数年前から止まっていました。
まぁ、次に後悔しないよう、早くまとめないとなぁと思っています。

 

※もろもろ業務に支障があり、ご迷惑をかけて方もいるかと思いますが、明日からは仕事を再開します。よろしくお願いします。

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新年の挨拶&報告

新しい年が開けすでに正月も下旬となろうとしていますが、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんでした。

すでにTwitterやFacebookでは報告していた通り、昨年末、緊急手術しそのまま入院していました。
お陰様で手術は無事に終わり、すでに退院し、現在は自宅療養をしている次第です。

少し前から、右眼の調子が悪く、何となく物が見えづらい日々を送っていたのですが、年末にいよいよ調子がおかしくなり、年内に診断だけしてもらおうと病院に行ったところ、その場で「網膜剥離(右眼球)」の診断を受けました。

「年内に手術するとしたら本日が最後」「剥離した範囲が広く、このまま年明けまで放置している場合、視力が回復しない可能性があり、最悪は失明する可能性もある」という突然の診断で「網膜剥離なう」とTwitterやFacebookでつぶやく暇もなく、手術をしてそのまま入院しました。

信頼できる病院でしたし、事前にインターネットなどで調べた際にも「もしかしたら、これは網膜剥離かもしれない」と考えていたのですが、やはり病名を告げられた時は、ちょっとショックでした。

それよりも、診察前は、年末年始にたっぷりと仕事を抱えていたため、何とか仕事の目処が立つまで手術や入院は勘弁して欲しいと思っていたのですが、部分麻酔による目の手術といっても、手術前にレントゲンだ心電図だ血液検査だと事前の検査が次から次へとあり、家族に連絡するのがやっとという有様で、仕事どころじゃありませんでした(苦笑)。

手術の2日後には、起き上がったりパソコンを使えるようになり、ようやく1週間ほど前から、仕事の打ち合わせなどに出かけることは出来るようになってきました。

ただし、医師からは、眼球に振動を与えないようにキツく言われており、あまり長い距離を歩いたり運動をしたりするのは厳禁で、しばらくは外を出歩く取材は出来そうにありません。

また、1時間くらい連続で文字を読んでいたりパソコンで作業をしたり、近くのものを見ていると使ってないはずの右眼も動いてしまうため、激しい痛みが起こり、事実上、原稿を打つこともままならない状況です。
実は、手術後、新聞、雑誌、書籍を全く読んでいないくらいです。文字を読むのが仕事であり趣味である僕としては考えられない事ですが、それどころじゃないくらい痛くなるので我慢の日々。

いやはや、事前に手術を担当した先生から「この手術は、術後に痛みがある」と言われていたのですが、それにしても強烈な痛みです。毎日涙出るほどで、痛み止めの薬を飲んで抑えています。
テレビや映画のように離れた画面を見ることはできるのですが、スマフォですら、少しずつ休み休み見ている有様で、もっぱら1日中ラジオやテレビだけで時間を潰す毎日です。

しかし、「仕事をしない=収入がない」のがフリーランスの辛いところ。幹部のハレと痛みが引けば仕事は再開できるので、少しでも早く痛みだけでもひかせて、仕事に復帰したいと考えています。(仕事仲間の皆さん、我が侭言うようですが、来月になったら、ぜひ仕事をたっぷりください! マジで2か月間も収入ゼロになるのでヤバいです!!)

なお、痛みはありますが、医師の話では患部の術後経過は順調のようです。
治療はまだ数か月かかり、右目の視力がある程度回復・安定するのはまだまだ先になるのですが、とりあえず片目だけでも仕事は何とかできるので、そういう意味では自宅で仕事ができるフリーランスの有り難みでもあります。

せっかく貴重な体験をしているし、スポーツをする上でいろいろと噂に聞いていた網膜剥離の症状について、ぜひ皆さんにも知って欲しいこともあるので、病気についての詳しいレポートは、ある程度、回復したところで改めてご報告させてもらいます。

ということで、2014年も波乱万丈な1年になりそうです。
3月初旬に予定していた震災に関する書籍も、若干、発行が遅れてしまいそうです(関係者の皆さま、本当に申し訳ありません)。

それでも、今年も奮闘する次第ですので、どうかよろしくお願いいたします。

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自由報道協会を立ち上げた頃の話(2)

 前回の記事の続きです。

 自由報道協会を立ち上げる際、僕が考えていたものに近い思いを、ビデオ・ニュースの神保哲生さんが文書にして残してくれています。
 2011年10月、『自由報道協会が追った3.11』(扶桑社)という書籍が発行されましたが、そのなかで神保さんが「自由報道協会の果たすべき役割」として示してくれたものです。

 以下、少し長いのですが、同書から引用します。


 
『自由報道協会が追った3.11』
(39ページより)
amazonのページはこちら

 
(前略)

●会見を記者クラブ独占から開放するために

 僕は、大手メディアに所属していても、小さいメディアの人でも、フリーランサーでも、誰もが個人で参加できるジャーナリストの職能集団をつくるべきじゃないか、と以前から思っていた。
 今年の1月中旬、上杉隆さんから連絡があり、「記者会見を主催するジャーナリストの団体をつくりたい」ということで、急遽、畠山理仁さん、渡部真さんと4人で会った。ここで、会を結成するための話し合いを初めてもったのだが、この時にも僕は、ジャーナリストの職能団体をつくるべきだという話をした。4人で創案した「自由報道協会」という名前と、英語名の「Free PressAssociation of Japan」。この“Free”が、決してフリーランスや無料という意味ではなく、誰でも“自由”に入れるという意味だということを忘れてはならないと、僕は思っている。だから、僕らは記者クラブの一段上を行くためにも、僕たちが堂々と彼らを迎え入れるような、器の大きな組織であるべきだと考えている。
 もっと認知度を上げ、いずれは、フリーランス、インターネットメディア、雑誌、新聞社、テレビ局、どこに所属する人も個人の資格で入るようになることを期待している。そのためには、既存メディアの記者たちが個人の資格で入れる自由を彼らが得ることも重要だ。

(中略)

……今のところ自由報道協会はようやく記者会見を主催することができるようになった段階で、まだこれからやらなければならないことがたくさんある。繰り返しになるが、今の日本の一番大きな問題は、政府機関や主要な政治、経済団体の記者会見が、まだ新聞、テレビ、通信社しか加盟できない記者クラブによって独占されていて、雑誌や外国報道機関、インターネットメディア、フリーランスなどのジャーナリストに十分開放されていないことだ。民主党政権になって記者会見のオープン化はかなり進んだが、記者クラブが記者会見を主催していることもあり、まだまだ有形無形の壁は多い。そして、それは単に独立系メディアやフリーランスが記者会見に参加できなくて「アンフェアだ」と文句を言っているだけの問題にとどまらない。記者クラブが特権を享受する立場にいるために、取材対象との間に癒着は生じるし、記者クラブの連中はほとんど現場を取材しなくなる。

(中略)

 記者クラブ問題というのは、単にネットメディアやフリーランスが記者会見に参加できないだけでなく、政府へのアクセスという特権を享受する一握りの大手メディアが、政府と癒着したり、その特権の上に胡坐をかき、ジャーナリズム本来の役割を果たせなくなることが、最大の問題なのだ。
 僕はかなり本気でメディアを改革しなければ、日本は変われないし、今直面しているいろいろな問題を解決することができないと思っている。そのためには、少なくとも政府とメディアの関係を今の異常な形から国際標準レベルに変えていかなければならない。その時に絶対に必要になるのが、既存の記者クラブメディアとそれ以外のメディアやフリーランスのジャーナリストが横断的に参加できる受け皿だ。自由報道協会の設立構想を相談するために集まった時、僕は将来的にはこの団体がそういう団体になる事を想定して、いろいろな名前の候補が挙がった中で、あえて普遍的な意味合いが強い「自由報道協会」にすべきと強く主張した。
 既存メディアを含めて、あらゆるメディアで仕事をしている記者たちが参加できるような組織になった時、きっと僕のこれまでの記者経験や、会見開放のために費やしてきた体験が役に立てると思っている。
 今の若い記者が、何の隔たりもなく自由報道協会に所属し、その人たちが既存メディアで主流となるような年代になった時、閉鎖的な記者クラブは存在感をなくすだろう。これは自由報道協会のためというよりも、むしろ僕たちの日本のために実現しなければいけないことだ。
 


 
 これは、僕と自由報道協会のスタッフが、神保さんからインタビューして書き起こした原稿を神保さんが修正したものです(と言っても、神保さんからは、ほぼ全面的に修正指示が来たので、実際には神保さんが書き起こしたものと言っても過言ではないほどなのだが……)。

 インタビューの際も、原稿をやり取りする際も、神保さんには、本書の趣旨である震災報道についての話だけでなく、「自由報道協会が、本来目指すべき方向を記録として残したい。1月の会合で話し合ったことや、神保さんが考える記者組織についてもよろしくお願いします」と依頼した上で実現しました。
 当時の僕の思いも、この神保さんの文書に近いものです。

 前回の記事と併せて、参考にしてもらえればと思い残しておきます。

【関連記事】
自由報道協会を立ち上げた頃の話(1)
http://makoto-craftbox.cocolog-nifty.com/blog/2013/12/post-ed65.html

 
 



  

■フリーランサーズ・マガジン『石のスープ』

渡部真 連載コラム【勝手気ままに】Vol.29
〜震災遺構のいま〜
http://ch.nicovideo.jp/sdp/blomaga/ar406545

この数カ月に撮影した写真を使って、震災遺構を中心に東北沿岸部の現状の様子を伝えています。
写真を見て欲しいので、電子書籍(PDF/3分冊)にしました。

掲載地域は、岩手県野田村、田野畑村、宮古市、大槌町、釜石市、陸前高田市、宮城県気仙沼市、南三陸町、女川町、石巻市、東松島市、仙台市、山元町、福島県南相馬市、浪江町、富岡町、いわき市、千葉県旭市。

出来るだけ多くの方に読んで欲しいので、無料公開しています。ぜひダウンロードしてお読みください。

 


 

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